高田文夫のおもひでコロコロ

2024.03.18

第89回『ふるさと渋谷』

お祝いムード一色二色。
「ゴジラ-1.0」のアカデミー賞に続いて大谷選手の嫁さんだ。
世界どこへ出しても恥ずかしくない胸を張れるBIGカップル。日本人が卑屈にならなくていい。
一番悔しがってるのは「大林素子だ」と爆笑の太田が言っていた。

 

渋谷郷土博物館・文学館へ行こうと いつもの「お供上手わたなべ」をさそって「渋谷にあった映画館」展へ。
私は渋谷は富ヶ谷に生まれて少し育った人間として見ておかないと。おふくろなぞ若い頃いつもハチ公にエサをやっていた。
写真があった。「いつも お腹すかして――あのバカハチが」など言っていた。
昔は渋谷にたくさん映画館があったのだ。東急文化会館など本当によく行った。
地図やら昔なつかしい写真やら映画のチラシ、パンフなど見ているだけでなつかしい。キジサル並の わたなべも映画好きの芸能IQが高い男だから喜んでいた。
一周グルリまわって見て最後のコーナーに来ると大きなポスター。映画「恋文」のポスターである。少女時代から大スターだった田中絹代の監督作品である。
わたなべショックの声をあげる。
「結局 渋谷ずっと見ていたらトリは高田センセ―のゴッドファーザー、名付け親じゃないですか。大きく原作 丹羽文雄とありますよ。首領から高田センセ―がもらってその“文”の字をうちの息子にもらったんですもん。名前三代ですよ」
そう 渋谷の道玄坂の横の路地にあったのが恋文横丁。戦後そこに英語の手紙を書いてくれる落語の「代書屋」みたいな商売が人気だった。当時のパンパン(不適切か)、米兵相手に春を売る女性達にたのまれENGLISHで手紙を書いてやる。
その「恋文」がベストセラーとなり映画化されたのだ。丹羽文雄から高田文雄(のちに勝手に“夫”とした)である。

 

渋谷からコミュニティバス「ハチ公」に乗り博物館前で降りる。100円。
博物館で わたなべ100円払い入ると受付のおじさん 私の顔見て「生年月日は?」
「昭和23年―――」と答えるとすぐに止めて「ハイ無料です」とうとう博物館も何でもタダで入れる年令になったんだな。まッ 税金も払ってるからな、いっぱい。
この企画展は3月24日までです。

「ハチ公バス」は巡回バスなのでグルグル近辺をまわっているのだが 私が行くと必ず停留所にハチ公だけあって待っていてくれる。

青山学院のウラの道など普段通らない細い道も行くので面白い。帰りは恵比寿へ出て そこから神楽坂の「ながさわ展」へ。客が来ずらいのか少ないので3月23日までと早めに告知しておきます。詳細はこの前の前の回に載せてあります。

博士の顔が怖い。そうだ この博士の娘も私から一文字持っていって「文ちゃん」。
夕方そうこうしている内に自転車から降りて男の子が入ってきて「センセ―いつも父がすいません。ラジオでボクのハガキ読んでくれてありがとうございます。はまこ・テラこ なんて書く小学生いませんよネ」漫才協会の映画を見てハガキをくれたのだ。たしかラジオで「小学校2年かな・・・こりゃ塙カントク喜ぶわ」と言った。会った時の第一声が「先に言っときます。4年生です」アハハ。後日 塙監督にこのハガキをみせたら ひっくり返って喜んでいた。

わたなべ・ながさわを引き連れ矢来町から神楽坂の町へ。ネオンにさそわれ一杯キューッと。
この神楽坂から先日「アド街ック」でもやっていた江戸川橋の方へ行く途中に山吹町がある。若き日、人生で一番金がなかった24才25才の頃ここに住んでいた。甘ずっぱい。三味の音と印刷インクのにおい。子育て地蔵に願かけに行っていたら長男を授かった。
その長男も もう50近い。

3月15日(金)「ビバリー」本番前 なんだかバカでかいのが入ってきたなぁと思い「松村また太った?」と見ると伊集院光。どうやら作家の伊集院静とは関係ないらしい。“ひとり伊集院”が亡くなって楽太郎だった円楽も亡くなった。
楽ちゃんは学生時分からオレの子分。今でいうパシリ。青学から江古田まで私をしたってよく来ていた。稽古までつけてやった。
4月から私の前の11時20分からの10分間をこの男がやるらしい。ちっとも知らなかった。「毎日生で10分だけ来てくれるんならいいよ」「無理です」「だったらオレが11時20分から喋り始めるわ」「やめて下さい。若手つぶしは」「若手って歳でもねぇだろ」
何だかよく分らないけどオレのカッキーとオレの一之輔が遠くへ行っちゃうらしい。

この日はタイムマシーンがゲストで大笑い。
その後 渋谷のLINE CUBEで「山内惠介コンサートツアー2024」
いつもは国際フォーラムでやっているのだが初めてLINE CUBEでやるので客も主催者側もバタバタ。おばちゃま達の熱気がすごい。ここはその昔「渋谷公会堂」といった処。ドリフやら紅白歌のベストテンやらいっぱいやっていた。通称「渋公」駅前は「ハチ公」

新曲は「紅の蝶」
カップリング曲が違う三種類のCDが出ている。イヨッ モー娘スタイル。昔で言うB面は「傘」「祭りだホイ!」「あなたを想うたび涙が止まらない」
一応紹介しておきました。中には物好きがいて惠ちゃんファンなのに このブログを読んでいるって人もいるかも知れず。

なんだか故郷へ帰ったような気になりフラリ歩き出した。NHKか・・・27才、28才の頃 毎日ここに居たな。子供の為のワイドショーを企画したら構成だけでなく出て喋るはめに。何やっても一流だったなぁ。「600こちら情報部」この第1回放送を山口県にいる小学生として見ていて覚えていたのが松村。第1回は「キャンディーズ明日解散レポート戸田恵子」「若トラ掛布レポート高田」この2本立てだった。毎日帯で子供の為のワイドショーを考え作っていた。月から金、夕方6:00から6:25である。この頃は ほとんどNHKとフジTVに住み込みだったね。

NHKの西口へ。その後そうだNHKのラジオでも寄席番組をやっていて桂子好江の好江師が終わると必ず「大センセーちょいと一杯いく」と道路(西参道)を渡って少し行くとある小さなうなぎ屋へ連れていってくれた。塙の師匠の桂子の相方。早逝した。さっぱりしたいい気性。私は大好きだった。

このうなぎ屋へは たけしともよく行った。

少し奥へ行ってみようと ひとり歩き出すと なんかホワーンといい気持ち。やわらかな空気。何かが包み込んでくれるような不思議な気分。町名表示を見ると「富ヶ谷一丁目」!!そうかオレが生まれた所だ。なんか おふくろに抱かれたような生あたたかさがあると思った。この細い道を歩くのは数十年ぶりだろう。「ここは奥渋」のポスター旗がゆれる。若い子のファッション誌で「奥渋」って聞いたことあるわ。いつからオレの生まれた所が「奥」になったんだろう。奥の渋谷・・・。富ヶ谷から松涛ゆっくりゆっくり歩いてみる。少年だった自分がそこに居た。(ウソをつけ!)

 

3月18日

 

高田文夫

 

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。