高田文夫のおもひでコロコロ

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2023.06.16

第64回『上岡龍太郎死去・私と沢田研二 誕生日』

「芸は一流、人気は二流、ギャラは三流、恵まれない天才 上岡龍太郎です」
81歳の死だった。
私だったら「芸は超一流、人気はそこそこ、ギャラは ほんのひとつかみ。恵まれた奇才 高田文夫です」といったところか。

「ノックさんを送る会」でのメッセージはみごとすぎた。あの時7年も前に芸界から引退していたんだからネ。(2000年引退)そして2011年「談志を送る会」にも大阪から飛んできてくれた。「落語界活性化の為」と作家をやりながら二刀流で私(立川藤志楼)を真打に抜擢した談志師匠に対し「文句なし」と喜んでくれたのが上岡だった。1988年。「ビバリー昼ズ」スタートの直前のことである。

それにしても この4Sは怖すぎるな。たけし(41)、上岡(46)、談志(52)、私(40)。どこかの組の新年会のようである。
上岡は「談志原理主義」であり「米朝原理主義」であった。米朝、談志の言うことは絶対であった。先輩、師匠に対する「礼を逸した発言」「行動」を絶対許さなかった。談志も私も そういうところが過分にある。
下は私の本棚に渋く光る上岡の著作。

これだけの本をまとめるのだから大阪の放送作家 戸田学の力量が凄い。この人は三木のり平の本もまとめた。悲しいかな東京の作家には ここまで書ける人材が居ない。と   言うより「芸能」そのものに ちゃんと興味のある奴が居ないんだろうな。ひと言で言うと    みんな無能。

さぁ6月25日 私と沢田研二 75歳の誕生日である。
ジュリーは さいたまスーパーアリーナでバースデイコンサート。私は生中継で夕方5時からWOWOWで見て祝う。こんなに格好良く こんなに良く働く75歳なんて我々ふたりだけだろう。

 

昭和23年6月25日生まれ。思えば双生児のような人生だった。生涯「君だけに愛を」である。私の生まれた日の前後は私に関係のある連中が固めていて21日がサンキュータツオ(米粒写経)、24日が玉袋筋太郎、25が私で26日が私についている大谷のイッペイのような立川志らら。そして27日が立川談春。盤石の守備である。蛇足ながら あの名人古今亭志ん生は6月28日の生まれである。

 

私の誕生日を中心に催される各種イベントです。玉ちゃんは3年4ヶ月ぶり。これは面白いよ。こっちの玉ちゃん玉川奈々福がすすめるのは浪曲映画祭。

そして私が6月13日赤坂草月ホールへ行って圧倒的にバカバカしくも歌声の良さに感銘を受け一緒に見ていた泉麻人、タブレットの年老いた両親も喜んだのが、一回しかやらない「タブレット純リサイタル2023」。並びで座っていた老母から やたら声かけられ「アラッ!?文夫センセ?」「あッ ハイ」「うわッ ラジオと同じ声。どこに住んでんの?」(大きなお世話だ)息子の歌の間も話しかけてくる。老父が「ションベン近いので一寸失礼」と息子が歌っているのに立ちあがる。「二部」と勝手に呼んでいるが「休憩時間は何分です」とも告げずテキトーに始まった二部。なにやら派手な袴をつけている。「まずは浪曲から」すかさず なんとなんと教えた玉川奈々福が出てきて相三味線。一年間ひっそりと稽古を重ねていたとか。奈々福「高田センセーも浪曲やりますからネ“石松代参”。タブレットさんもガンバッて」と始まったのが広沢虎造「清水次郎長伝」より“旅うらら駿河よいとこ雲の桜 風にちらちら花が散る”「お民の度胸」が始まった。これにはびっくり。「芸」が好きなんだな。「週刊新潮」で連載している「歌謡コラム」も おみごと。こういう大衆芸能好きの後継者が一人でも居てくれると少し安心。

開演前 泉麻人に言われた。「高田さんが東洋館でやってる“東京漫才の会”ほとんど実は 行ってるから」「えっ!?」「球児好児の会も トークをたっぷりきいたし この前のビートきよしの会も行ったんだよ」「今度 はたけんじと松村邦洋の ものまねの会やるから」「あっそう・・・」とニヤリ。
ビール一杯でどこでもついてくる「Pわたなべ」しみじみと「泉さんも相当いかれてますネ いひひ」「コアな男だよ」「案外 萬みきお追っかけて明治座まで行ってたかもしれませんよ」(誰がこんな会話分るんだ!?)

 

2023年6月16日

高田文夫

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。