高田文夫のおもひでコロコロ

2023.12.11

第79回『追加公演・ARE』

「ジャニーズ」「宝塚」「日大」「キックバック」と私もバタバタ。そして「師走」である。
「大衆芸能」の「師」である私も走り出してコケそうな勢い。七転び六起きである(ずっと寝とけ)。

 

近況を巻きで――
先に告知した「中山ヒデライブ」行ってきました。飯島直子が歌がうまいのにビックリ。

 

脚本界の巨人、山田太一氏死去。89。
山田太一、市川森一、高田文夫。
三大脚本家はみんなシンメトリー。
私も大河ドラマを書いてた頃がなつかしい。

 

12月2日 イッセー尾形を有楽町朝日ホールで。
「ビバリー」恒例、正月のイッセー書きおろしSP、すでに第一稿が入ってるらしい。心配。

 

その後、私もたまった原稿をコツコツコツ。手書きで仕事するので肩もコリコリコリ。

 

<ビバリーゲスト>
スタジオで春日太一に会ったり、チャンス大城に会ったり、石塚英彦に会ったり。
人と人はやっぱり直接会わなきゃダメだな。
日芸の後輩、春日の新刊「鬼の筆」が500頁近い快著。橋本忍をここまで追いつめるとは。すでに三刷。脚本家のことに興味のある人も多い。

 

12月4日 午後は「いち・にの・さんぽ会」 
松村邦洋ら5人で歩く日本橋・人形町。

 

翌5日は朝から原稿書き。その後やっと「首」見に行く。(さんぽ渡辺Pと下北沢古書店ビビビのおやじ。このふたりが喜多見だかどこかの小学校中学校の同級生)
「首」公開までバタついていたので心配していたが、いざ封切となるとたけし節大全開。戦国アウトレイジ、頭のおかしい奴が頭のおかしい奴の「首」をねらう。さすが30年も前から構想を練っていただけのことはある。このアイディア、30年前に「北野ファンクラブ」で私相手に熱心に喋っていたらしい。それを見ていて今でもその模様を覚えているのが松村やら私の周りのマニア達。「備中高松城の水攻めですよ」と言われても私ポカーン。
大オチに向かって壮大な振り。加瀬亮の「みゃーみゃー」が うるさすぎて笑ってしまう。荒川良々、腹切ってんじゃねーよ。アマレス兄弟は漫才協会員である。キャンペーンをやれと会長の塙に言っておいた。

 

「ビバリー」の忘年会は やらないと石田Pが口をすっぱくして言うので昇太と乾が私を招いて「水曜日チーム」の小さな忘年会を新宿で。面白かった。結局ずっと私が喋っているので次から次とコースの肴が来ても半分しか手つけられず。

 

東洋館にて私企画の「ザ・東京漫才」、年間通して唯一の黒字企画。この日は「漫協幹部会」ということで会長、副会長、理事ら勢揃いして私とトーク。
ナイツ、宮田陽・昇、ロケット団、U字工事ら大集合。結局オレが一番面白かったなぁ。この日 情報解禁したのだが、映画「漫才協会 THE MOVIE 舞台の上の懲りない面々」の予告篇を。2024年3月1日公開。塙監督である。題字は私。ナレーションは小泉今日子。それだけで凄いだろ。
初日のデータが大事らしいので3月1日は是非有楽町ビックカメラの上にある角川の映画館へ。

 

私から見ると「若手」となってしまうが、TV界ラジオ界へ行けばもはや大先生なのだろう。50才凸凹の連中から作家でも芸人でもやたら「尊敬してます」とリスペクトの手紙が届く。嬉しい。中にはロケット団の三浦のように「赤ん坊生まれたから何かよこせ」というキョーハクもあるが。

 

週刊文春で鈴木おさむが来春「放送作家引退」をいきなり発表して、もの凄く実は心配してたのだが「元気です」と手紙が届きホッとする。するとすぐに「このミステリーがすごい」大賞の小西マサテルが新刊「名探偵じゃなくても」と共に手紙を――。

 

今が旬の作家連中に畏敬の念を告げられると長いことやってきて、75才の今、現役で良かったなとしみじみ思う。

 

仕事もしなくちゃいけないのに忘年会の予定もあれこれ。
そうだ、さし迫った告知がひとつ。「山田雅人の40周年記念」ライブを2024年1月9日、ゲスト私と松村邦洋でやると ここでお知らせしたら即完売。ありがたい(私がゲストという事もあるのだが)。
完売に気を良くしたスタッフが「A・R・E」も流行語大賞とったしライブ追加しましょうと勝手に暴走。
<緊急追加公演>38年ぶりのアレSP。山田雅人にゲスト掛布雅之で公演するという。12月だというのにチケットが売る程あります。歳末の人助けだと思ってどうぞ前売を。
2024年1月10日(水)18:30開演
新宿 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA
前売 6000円

 

12月11日

 

高田文夫

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。