高田文夫のおもひでコロコロ

2023.03.23

第58回『右朝ふたたび』

古今亭右朝。享年52。
2001年4月他界。今でも一番うまい噺家だと私は思っている。

田島道寛(みちひろ)とは昭和42年(1967)江古田の日大芸術学部の落語研究会の部室で初めて会った。私は18才 日芸の放送学科の学生で放送文化の歴史やら作品の生み出し方を学ぶ いい子だった。田島は たしか文芸学科。やたら文学に詳しく そのうえ18歳にして入ってきて古典落語200席を持ちネタとして持っていた。これがもうカンペキ。18才から22才まで私はずっと田島と居た。差しでキチンと古典を教わり田島からは「高田は面白いしオリジナリティがあるから どんどん自作のギャグを放り込んじゃっていいよ」先輩達も顧問の本職の噺家さん達も「グー」の音も出ず 誰ひとり直し(ダメ出し)は できなかった。田島と私の前には もう誰もいなかった。私は徹底的に古典をたたき込まれた。私の「古典」の地肩は すべて田島にきたえ たたきこまれた。(誰も気がついてないが40代くらいまでの私の噺は とことん本寸法の江戸前。そこに座付き作家として日本一のコント作家だった私がついているから鬼に金棒だった。形がきれいでギャグはとびっきり。理想的な噺家のスタイルだった。あの時代から芸能に二刀流はここにいたのである)
噺をすべて田島から教わる代りに私は田島に酒と煙草と女を徹底的に教えた。(ひどい話だが    今は怒られるかと思うが私の仲間内での結婚披露パーティの後(のち)、司会をやってくれた田島や志ん五、友人の佐瀬(「およげ!たいやきくん」の作曲者)ら10人くらいを2次会のあと新宿のトルコ風呂(今のソープ)にて私のおごりで打ちあげ。ひどい時代だった。カミさんは友人達と他の場所へ飲みに行っていたと思う。皆な口々に同じ引出物の紙袋を持ち「タカダーッ引出物から泡(あわ)までごちそーさまでしたーッ」だと。そんなつきあいなのである。
22才 私は放送作家修行見習い。勘がいいので すぐにバカ売れ。田島は「落語」が好きすぎて「うますぎて」本職になる事にためらっていた。ニッポン放送のバイトで演芸番組のADをやり夜遅くなると銀座や新宿でひき語りのバイト そして寄席文字の橘右近師に弟子入りし「橘右朝」の名前はもらっていた。寄席や落語会のビラなども書いていた。イラストレーターとしても少々活躍。
大学出て5年位たった時かな。生きる死ぬの の大病を患い入院。私も死ぬもんだと覚悟をしていた。大病をききつけお見舞いに来た落語研究家の麻生芳伸先生が「どうせ死ぬなら最後に成りたいものになりなさい」と強いアドバイス。麻生先生に手をひかれ その後田島は古今亭志ん朝師匠のもとへ。落語家 古今亭志ん八から右朝の遅すぎた誕生である。
40代の右朝を聞いた談志が「間違いなく こいつがその内 天下をとるでしょう。こいつより上手く喋れる噺家なんて居ないでしょ」と言った。

18才の時の芸術祭。門の所で呼び込みをする田島(一番左)と私(一番右)。真ン中のAちゃんは子役の頃より「三波春夫ショー」の舞台に出ていたスター。皆な芸達者なのだ。「芸術学部」以外に左の看板をみると「日本大学江古田高等学校」とある。昭和初期の写真ではない、昭和42年である。この翌年、森田芳光が入ってくる。

 

(左)落研のコンパで幹事のふたり。会費を集め金の山を前にして気もふれそうな2人。18才。
(右)それから20年。40才前。やってる事はまったく変ってない二人。金を前にして「さて どこのトルコへ?」(ウソ!!うちのカミさんも右朝未亡人も読むかもしれないでしょ)

いつも一緒だったふたり

(左)私の首を取った気でいる田島
(右)みつめあうふたり。多分40才を前にして   1988年はふたりとも真打昇進年である。

右朝の真打昇進パーティで お祝いのスピーチをする私(心の中では「あゝ来年からラジオビバリー昼ズ始めんのか、オレ」と思っている)

一番の想い出は21歳の頃 上野の露路にあった「本牧亭」を学生のふたりが借りきり「廓噺(くるわばなし)」だけの会を開いたこと。尊敬する直木賞安藤鶴夫描くところの講釈場である。受賞作は「巷談本牧亭」。まださすがに神田伯山は出て来ない。本格派の学生と爆笑をとる学生のふたり会ということで前人気が大変。立ち見でも入りきれず。すべての前売券は このあいだ亡くなった“楽太郎の円楽”が青学の1年生として売りさばいてくれた。いい奴なのだ。その代り私が稽古もつけてやった。

社会に出てずっとあとになり右朝が当時を想い出して書いた看板。タイトルが「今夢廓面影(いまはゆめ くるわのおもかげ)」興行が6月25日より11月2日となっている。これは私の誕生日と右朝の誕生日である。やることが細かいのだ。あの若さで「廓」の話ができたのは ひとえに私がトルコをおごったお陰。書いてある演目は当日演ったものと得意な廓の話である。いやぁ~~みごとだったネ 二人共。談志と志ん朝に文句なしと言われたんだから どれだけ達者だったか分るだろう。大谷とダルビッシュに「君 野球うまいネ」と言われるくらいなのだ。

古今亭右朝「明烏」(あけがらす)
     「唐茄子屋」(とうなすや)
     「文違い」(ふみちがい)
     「品川心中」(しながわしんじゅう)
立川藤志楼「蔵前駕籠」(くらまえかご)
     「居残り」(いのこり)
     「首っ丈け」(くびったけ)
     「お直し」(おなおし)

そんな右朝の会をやります。「古今亭右朝二十三回忌追善公演」という訳で題して「右朝ふたたび」。
5月8日19時 下北沢・北沢タウンホール<オール日芸寄席特別篇>として私と後輩達。立川志らく、春風亭一之輔、柳家わさび。前売は3月31日です。ひと晩だけでもオレの友達・右朝のことを想い出して下さい。

2023年3月24日
高田文夫

 

 

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筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。