高田文夫のおもひでコロコロ

2022.04.14

第31回『テレカって 知っテレカ?』

3才の利巧そうな少年。渋谷区富ヶ谷に住む ふみお君である。まさか この時70年後の73才になる、こんにち まだ森三中の黒沢をレギュラーに入れてでも番組を面白くしようと思っているなんて事・・・すら考えていない。純で一切の汚れを知らない無垢な男の子である。渋谷では神童と呼ばれていた。前髪をプツンと揃えたところ その表情 そのファッションから いい処の子である事がうかがえる。たけしの足立区やら東MAXの浅草では決っしてみる事のできない本物の坊ちゃんである。

この少年が生まれた(S23・6・25)たった12日前の6月13日 玉川上水で太宰治が自殺している。「人間失格」である。町内では太宰の生まれ代りが私ではないかと噂された。6月25日の夜、出版社の社長である父は銀座のバーで巨匠・丹羽文雄と飲んでいて「太宰について   」「斜陽について」語りあってる時 バーの電話が鳴り私が生まれた事を知らされる。その場で文豪丹羽文雄から”ふみお”とつけられる。だから本名は文雄。軽いものを書くのに この名では失礼と思い勝手に軽すぎる「文夫」を使っている。下の写真は なにを想うのか3才の時の私。右のステッカーは73才の時 森三中の黒沢が入った「ビバリー」のNEWステッカー。3才の時は こんなふざけた大人になるとは思ってもみなかった。よく見ると書いてある。「SINCE1989」そうです この春で34年目に入った長寿番組です。

この少年が3才の時ラジオからは「上海帰りのリル」「ミネソタの卵売り」「野球小僧」なんてのが連日流れておりました。勿論テレビなんて姿形もない時代です。暇を持て余すおじさん(父の兄弟。売れない詩人。思想的な問題もあったのだろう。わが家で かくまったりしていました)このおじさんに連れられて黒澤明「羅生門」やら「黄色いリボン」「アニーよ銃をとれ」なんてのを見せられていた気がします。パチンコ屋からは常に「軍艦マーチ」が流れていました。まだ戦争が終って6年しかたっていない・・・そんな時代のこの少年の表情です。

番組のノベルティグッズとしては今はステッカーなどが中心ですが80年代!覚えていますか?今の人はスマホだガラケーだ、糸電話だとハイカラになってますが「テレカ」があったことを知らないとは言わせませんよ。「テレカ」ったって別に「てれかくし」の略ではありません。テレフォンカードです。最も新しいグッズとして番組ではテレカを作り配りました。私の古い引き出しをあけてみたら なんと様々出てきたので ほんの一部、話のタネに紹介します。この連載ブログを10代20代の人が読んでいるとは思いませんがZ世代がテレカを見たら「一体何だこれ?」と思うでしょうネ。電話がかけられたのです。えっ!?

 

「㊎(マルキン)ギャハハ倶楽部 作・高田文夫」

たしか86年か87年。JOOXとあるから仙台放送。「杜の都にお笑い繁れる」とコピー。”青葉繁れる”のパロディでしょう。いかにも仙台らしい。金曜日の夜7時から。このイラストはMCの私と三遊亭小遊三である。番組の中のコーナーで「面白素人」というのがあってディレクターと私とで番組収録後 素人のオーディションをやっていた。そこへやってきたのが今や伝説ともなり本にもなっている頭の悪そうな高校生とその一団。この男こそ のちのクドカン、宮藤官九郎大センセーである。当時は ただのバカでコントを見せてはオチになるとズボンを下げ私にチンチンを見せた。ネタを代えて毎回来るのだ。これがのちに「あまちゃん」「いだてん」の国民的作家になるのだから才能というのは素晴らしい・・・のか。以来、親代わりのようなものだがチンチン出してても売れた子は可愛いものである。クドカンが今でも「私のセンセー」とリスペクトしてくれるので私までが偉くなったようで喜ばしい。売れてもいない奴に「センセー」といわれるのは胸くそ悪いけどネ。

 

「巨匠 高田文夫のラジオで行こう!」

87年と88年のプロ野球シーズンオフに半年、そして半年とニッポン放送でOA。月から木の夜6時から8時。毎日2時間「ビバリー」の前まで喋っていた。ちなみに この88年に作家をやりながら談志から絶賛され「立川流真打」に昇進。それはもう江戸中大さわぎだった。たしかに あの時代 立川藤志楼の落語は文句なしに一番面白かった。誰もが文句をつけられなかった。なにしろ藤志楼には日本一のギャグ作家 高田文夫が座付き作家としてついていたからね。この時39才から40才。才能に満ちあふれていた(なのに今は・・・トホホ)

 

「ビートたけしの幸せ丸10年」(オールナイトニッポン&高田文夫編)

89年か。ANNが10年になるのでANN本も10冊目。10年を振り返る大型版で出版。この頃イラストは すべて小槻さとしに描いてもらっていた。これは貴重なテレカである。マニアよだれ。多分、博士もクドカンも太田も西島秀俊(アカデミー賞)も持っていない。

 

 

 

「文夫と明子のラジオビバリー昼ズ」

89年。文夫カードと明子カードが出た。このイラストは私と仲の良かった奇才・高橋春男(今は何処に行ったか分らない)。この頃は私と明子が毎日毎日喋っていた。外回りのレポーターとして若手の昇太、竹丸、勢朝を起用。「落語冬の時代にマスコミで噺家を使うとは・・・」とあきれられた。たしかに80年に漫才ブームがきて80年代90年代は「落語冬の時代」と呼ばれた。この20年間活字マスコミで話題になった落語家は「36人抜きの小朝」と「創作のカリスマ円丈」「爆笑 藤志楼」の3人だけだったのである。この3人のあとには草木も生えなかった。そんな時代の昇太・竹丸・勢朝「若手三人衆」の起用である。これを明子は「にがて三人衆」と読み間違えた。テレビ・ラジオ・・・マスコミ仕事が苦手な3人なのである。この後TBSテレビ「ヨタロー」などで若手噺家(志らく・談春・昇太ら)が少し脚光を浴び いよいよ05年。私がクドカンに相談した「タイガー&ドラゴン」誕生、小朝・鶴瓶・志の輔らの「六人の会」スタートで一気に「落語ブーム」到来。めでたしである。

歌番組全盛の70年代から私はフジテレビ元日の名物番組「初詣!爆笑ヒットパレード」の構成をひとりでやっていた。朝の8時とか9時にスタートして生放送で夕方まで。大長時間の大長寿番組である。今も名前だけ使ってやっているらしいが ワシャ知らん。当時は「お笑いの紅白」と呼ばれた。フジTV元日は朝から昼がこの番組、そして夕方6時頃からは「オールスターかくし芸大会」。クレージーキャッツを中心にナベプロのタレントを多用して暮(くれ)の内に大収録。VTRではあったがネタの本数も多く 暮は局内がバタバタしていた。私は主に「中国語劇」やら「英語劇」の元の脚本を書いた。その年に流行した映画やドラマ、舞台のパロディものが多かった。この精神が のちのち「タケちゃんマン」のパロディものへと継がってゆく。フジの元日は この2大番組が恒例。3日にも午前中に3時間位の生があって「放送演芸大賞」。東西のスタジオに作家が20人づつぐらい集められて演者はネタ披露。東の審査員席に私は最年少として居た。まわりを見渡せば師の塚田茂がにらみを利かせていて オドオドして神津友好やら大野桂、矢野誠一、前川宏司ら そうそうたるメンバーが居た(お笑い界的にだが)。20代の作家は私だけ。西のスタジオには藤本義一がえらそうにして白髪を見せびらかしていた。大賞は「小さん」とか「てんぷくトリオ」とか「ツービート」とか・・・。「爆笑ヒットパレード」はMCが三波伸介の時代からずっとやり(中継の明治神宮には必ず球児・好児)その後 たけし&さんまのMC時代を経由して   ここにあるテレカへとつながる。

 

「第28回 初詣!爆笑ヒットパレード」(平成7年・1995年)

スタッフやらプロダクション関係者に配られた。イラストを描いた人には失礼だが   多分これは さんまと鶴瓶がMCの年だと思う。

 

 

 

 

「第31回」

これも さんまと鶴瓶。たしか ここらで私がPの横澤氏 Dの佐藤ちゃんに進言したと思う。「折角テレカ作るなら ちゃんとした一流の人に描いてもらいましょう。MCも一流ならイラストも一流・・・まぁ構成者は三流ですけどネ。イッヒヒ」と卑下してみせるテクニックも持っていた。イラストは あの超一流 山藤章二画伯。

 

 

「第34回 初詣!爆笑ヒットパレード」(2001年)

MCは西川きよし、桂三枝(のち文枝)、爆笑問題となった。

 

 

 

 

 

「第35回」(02年)

西川きよし、桂三枝、爆笑問題。

 

 

 

 

 

「第37回」(04年)

西川きよし、桂三枝、爆笑問題。

 

 

 

「第38回」(05年)

西川きよし、桂三枝、笑福亭鶴瓶(復活)、爆笑問題。

 

 

現在はナインティナインのMCでネタの大トリが爆笑問題という形でOAしてる。ここからは私の引き出しに眠っていた珍品テレカ。何だか分らないがショーゲキ、そして感動です。

 

「ラモスの右手は長い」(98年4月)

ラモスに抱かれてウットリする江戸の3人男です。左よりビートたけし、立川談志、ラモス、高田文夫。二度と揃わぬ顔合わせです。それにしてもラモスの右手は長い。

 

 

「カールスモーキーとバカ」

仕事で札幌へ行っていたら「米米CLUB」がこの山ふたつ越えたところでライブコンサートをやるときいて さし入れ持って雪の山中へ。山ふたつ越えて会いに行った。運転はその大昔「笑っていいとも」の「きたかチョーさん まってたドン」で一世を風靡しそこなったドン川上(北海道在住)。左からカールスモーキー石井、私、春風亭勢朝、ドン川上、米米の人。

 

「立川談志ひとり会」発売記念テレカ

イラストは山藤章二。名人芸である。

 

 

 

 

「玉置宏の笑顔でこんにちわ!」(96年)

”18年間ありがとうございました”とある最終回の記念テレカ。私のビバリーの直前11時29分まで玉置さんは喋っていた。公私ともに色々と御指導頂いた。私の”芸能”の ぼう大な知識はほとんど玉置さんから教わったもの。

 

 

「突撃!隣の晩ごはん」

我が悪友 桂米助(ヨネスケ)である。「ルックルックこんにちは」とあるのが嬉しい。よく見ると写真の中に岸部シロー。イラストは やくみつる。

 

 

 

 

 

「笑点」

司会が 先代の円楽の時代。歌丸、こん平が居て 只今休養中の”今・円楽”は楽太郎となっている。

 

 

そして最後は珍品中の珍品。あの深夜の名番組、NTVの「11PM」が終了して11年。故「11PM」11回忌法要と銘打ってホテルで大パーティが催された。時は平成11年11月11日。私もよく「水曜イレブン」(愛川欽也MC篇)に景山民夫らと呼ばれてゲストに行ったのでパーティに招待された。大人のためのいい番組だった。イラストの3人は各曜日MCの大橋巨泉、藤本義一、愛川欽也。皆なに会えたのは嬉しかったが なにより京都から来たおタカさん(安藤孝子)にあいさつされた時は さすがに舞いあがった。巨泉はこの日も「オイッ高田どーなってるんだ、ウッシッシ」と怒っていた。威張ってないと もたないんだろう。

 

 

<追記>テレカ文化は消滅した。

 

2022年4月15日

高田文夫

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    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。