高田文夫のおもひでコロコロ

2022.02.04

第24回『オマージュとリスペクト』

親に反対もされず好きで選んだ芸能マスコミの世界。気がつきゃ51年を過ぎていた。うちの親族は父も親せきも皆な出版社をやっていたので てっきり出版関係に行くものと法事で集まるとみんなそう思っていたが これからの時代はブロードキャスティングだ、「放送」だと見極め日大芸術学部も放送学科を選んだ。学校出てから「放送作家」をスタートに、ありとあらゆる芸能に首をつっこんだ。「ラジオDJ」「落語家」「ライブプロデューサー」「俳優」「テレビタレント」「作詞家」「エッセイスト」「編集長」「組長」ETC。大体やったが大体大成功というまでには行かなかった。コロナ禍、オミクロン禍で時間のある今の内に仕事を振り返ってみた。”ひとりメディアミックス”の私としては二刀流・三刀流の毎日ではあったが ひとつ気が付いた事がある。すべての原点は芸能の先達(せんだつ)へのリスペクト、オマージュ。尊敬なのだ。決してパクリとかカバーではない。その人物への敬愛なのだ。「敬愛」の念が筆を走らせてきたのだ。学生時代憧れ熱心に読んだ永六輔、安藤鶴夫。友人の田島(のちに古今亭右朝。享年52)から「山本周五郎だけは全部読んどけよ。人の”情”というものが分るから」と言われ ずっと読んでいたっけ。大学の仲間は「やれマルクスだ」「やれマクルーハン理論だ」と言っている時代にだよ。やっぱり”情に掉さして流された”んだろうか。「情(なさけ)は人の為ならず」で、情をかけるとその人のタメにならない よくないと思いがちだが、意味はまったく逆で情を他人にかけると それがまわりまわっていつか自分の所へ返ってくるという事。私なぞ若き日より人様に”情”をかけてきたからそろそろどっさりと皆さんから帰ってくるはずだ。松村!オレの情を10倍にして返して来いよ。

芸能の世界で尊敬してきた人々。永六輔、安藤鶴夫、石原裕次郎、北野武、大瀧詠一・・・敬愛しすぎてオマージュでこんなに作品を世に出していた。最も刺激を受け この道にすすもうと決心させてくれた永六輔の この1冊。「芸人その世界」。以降「役者その世界」「タレントその世界」とつづく。

「芸人その世界」(永六輔・文芸春秋)1969年、昭和44年、私が大学3年の時である。これ1冊書く為の参考資料というのが巻末にリストアップされており、これがものすごいボリューム。永六輔の”放送巨人”ぶりを しみじみ知らされる。オマージュし過ぎて私が出してしまったのが「笑芸人しょの世界・プロも使えるネタノート」(高田文夫・双葉新書)2010年、平成22年。

永六輔といえばこれ。「上を向いて歩こう」。世界の「スキヤキ」である。今さら何の説明もいらないだろう。永六輔 作詞、中村八大 作曲、坂本九 歌である。「六・八・九トリオ」とも呼ばれた。

晩年はパーキンソンなどで苦しまれた永六輔。2012年 私は心肺停止で8時間倒れICUに3ヶ月。今脚光を浴びているエクモをその頃すでに使用していた。翌年体調も戻ったので永さんにあいさつ・報告に行くと「ライブやりましょう」とひと言。そこで計2回やったのがこの会。「横を向いて歩こう 永六輔、高田文夫 幻の師弟 初のふたり会」2014年。小さな文字で”パーキンソンVS心肺停止”とあるシャレッ気。車いすの永、心臓が止まりそうな私。凄絶なトークライブだったが客席は大爆笑。素敵な親孝行になったと思っている。

もうひとりの心の師匠 安藤鶴夫。粋な江戸前の芸とはなにかを教えてくれたアンツル先生である。「巷談本牧亭」で直木賞。これは当時買った本と後に文庫本になったもの。なんとこの私が文庫本では解説までやっているという夢の実現である。

「寄席はるあき」(安藤鶴夫・東京美術)1968年、昭和43年。右の文庫本の方は河出文庫。私の解説で2006年に出ている。作家冥利に尽きるというものである。表紙が人形町の末広。そう昨年私の企画で明治座公演をやった時 浜町の舞台に再現セットを造った あの末広である。この寄席の最後の日、私はあの人・・・そう立川談志と運命的な出会い、宿命的な初トークをするのだが詳しい話はまた今度。豊かすぎる想い出である。

アンツル先生をオマージュするあまり ほぼ似たようなタイトルで大きな大きな橘クンの写真集も出してしまった。「寄席・芸人・四季」(橘蓮二写真集 高田文夫編・白夜書房)2004年。中央にある寄席は新宿末広亭。そう人形町にあったのは末広、新宿は亭が付いて末広亭なのである。

作家ばかりでなく歌手だってタレントだってオマージュしちゃうのである。兄 慎太郎氏も亡くなってしまったが 私は弟の裕次郎が好きなのだ。幼き日北海道は小樽で過ごした石原兄弟。父が毎晩ドンチャン騒ぎしていた料亭”海陽亭”。2階で芸者あげて毎晩吞んでいる。その時幼き兄弟は1階の部屋で毎晩宿題をやっていて宴会が終ると雪の中 父と家に帰ったという豪快な話。私は作家の山口瞳先生に連れられて海陽亭へ行き 女将からその話を聞いていたく感動した。料亭にちゃんと裕次郎の部屋があったのだ。その20年後また訪れると女将が残念そうに「昨日まで長嶋さん この部屋にいらしたのよ」それをきいて もう泣きそうになった。長嶋氏も裕次郎が大好きだったのだ。あまりにも好きなのでこんなタイトルの本も出してしまった。「オレはお前に弱いんだ」からの    

「オレはお前に強いんだ」(高田文夫・毎日新聞社)1995年

27年ぶりにこの本を読み返してみたら 実に面白い   オレ。まだ40代の頃の執筆だが さすがと自画自賛。そして勢いで出していた本。

「北野ファンクラブ」(監修北野武 編著高田文夫・フジテレビ出版)1992年 平成4年。ニッポン放送の「ビートたけしのオールナイトニッポン」が終り(90)さみしくなったディレクターのハゲ吉田がやってきて「ふたりのツーショット、最低な話、テレビでもやりましょうよ」と泣くので渋々深夜に始めたテレビ番組の便乗商法的出版。実はこのタイトルからして「タモリ俱楽部」のパクリだから。タモリが北野になって それをまたまたセルフオマージュを私がして「落語ファン倶楽部」。色んなクラブがあっていいのだ。「落語ファン俱楽部」は落語ブームが来た2005年から私が編集長で発刊しつづけた(白夜書房)。クドカンの「タイガー&ドラゴン」の年である。私も”高田亭馬場彦”として出演、好演。ピスタチオブームを作った。弟子は荒川良々。

 

2022年2月3日 節分の夜

高田文夫

 

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。