高田文夫のおもひでコロコロ

2022.02.10

第25回『苦役列車 脱線』

「慎太郎 賢太お供に 川渡る」

それが三途の川なのか 芥川なのか 石原慎太郎は西村賢太の芥川賞も推してくれた。古くは83年 立川談志が師・柳家小さん、落語協会とケンカをし「落語立川流」を設立。私がたけしを連れて入ったら いたく盛り上がり談志が下のような”千社札”を作ってマスコミやら仲間に喜々として配っていた。顧問を命名された石原氏、目をパチパチ。芥川から立川まで 色んな川を渡ってきたのだ。

この4枚札もクセが強すぎますネ。

私のイベント、高座、舞台をほぼすべて生で見てラジオは「たけしのオールナイトニッポン」から「高田文夫のラジオで行こう」「ビバリー昼ズ」まで40年間以上(中学2年の頃より)大体チェックしている”高田フェチ日本一”が先頃亡くなった西村賢太。玉袋筋太郎、松村邦洋、伊集院光と同じお笑いKK世代。木曜深夜にたけしと私に洗脳されてしまった男たちだ。以前 TV「ボクらの時代」に賢太、玉袋、伊集院が出ていて「オレたち中卒、高校中退」「みーんな東京っ子」とやっていて楽しかった。東京の悪ガキなのだ。賢太なぞ犯罪者の父親に どこに居るか分らない母親、中学出てから即、肉体労働に買春、貧乏生活の中で私のラジオという暮し。えらいのは仕事仕事で体がきつくてもペンは離さなかった事だ。これだけの”私小説”、生半可な経験では書けない。一躍脚光を浴びたのが11年に「苦役列車」で芥川賞。受賞会見で「そろそろ風俗に行こうかなと思ったところ」で大爆笑。チャーミングなもの言いで日本中のハートをゲット。

「賢太乗る 苦役列車 脱線す」

89歳まで周りからも大切にされ生きた石原氏の死はそれほど哀しくはないが 54歳の独身の孤独な無頼派の死は悲しく切ない。若い人の死は辛い。天涯孤独の身だが大正時代に活動した作家・藤沢清造に心酔し”没後弟子”を自称、石川県七尾市にある墓の隣に少し小さめの墓をすでに作ってあった。私の息子は文太と雄太というのだが(本名の文雄をわけた)ラジオなどで「ケンタ、ケンタ」と言うと「ブンタ、ユウタ、ケンタみたいで、なんか子供になったようで嬉しいっす」とすでに酔った舌で言った。小説誌の対談で会った時「高田先生の”傍流弟子”を名乗ってもいいですか。直々に許してくださる?感無量です。森田芳光氏の次の傍流弟子という事で。私の小説の中の会話部分は先生の話芸の影響を相当深く受けてますから」だと。何でもいい。弟子が有名だと私までが偉くなったようで気分が良い。”親の”ではなく”弟子の七光り”というヤツだ。談志もそれまでは「弟子はみんなバカ」と色紙に書いていたのに志の輔、談春、志らくが次々売れ そこに私が居ると嬉しそうだった。私の考えもそうだが芸能の世界にあっては「売れることが正義」なのだ。そして「人気は高さではなく 長さ」なのだ。

余談ですが私の本名は「文雄」。仲の良かった文豪丹羽文雄と私の父が銀座で飲んでいる時(多分ルパンだと思う)に私が生まれたので そのまま「文雄」と付けられた。文壇の巨匠みたいなので この世界に入った私は勝手に軽い「文夫」とした。本当は100歳を生きた文豪の名なのだ。「文」の「雄」は ちと恥しい。せめて原稿用紙だけはと銀座鳩居堂でいつも買っている。袋に「満寿屋の原稿用紙 文雄」とあって下に赤い落(らっ)かんで「丹羽」とある。

長いことず  っと愛用している。私の孫には「文」の字が入っている。水道橋博士の娘も「文」を持っていったし、さんぽ会のWの子も「文」ちゃんである。「ふみ」「ぶん」「あや」「もん」・・・様々読み方がある。どちらにしても文化に興味はありそうだ。

芥川受賞作「苦役列車」(新潮文庫)この文庫の解説が石原慎太郎なのだ。そしてすぐに出た初のエッセイ集「一私小説家の弁」(新潮文庫)帯の左下を見てもらえば分るが これの解説が私なのだ。爆笑篇に仕上がっているので是非読んでください。いま、ふと思ったのだが このブログを振り返ってみると私はやたら文庫本の解説をしていることに気がついた。「粋人田辺茂一伝」(談志)やら「寄席はるあき」(安藤鶴夫)やら この西村賢太。私の職業の肩書のひとつに「解説屋」というのも入れた方がいいかもしれない。評論家というのは絶対いやだが解説屋はいいと思う。

「ビバリー昼ズ」を聴いている人、この「おもひでコロコロ」を読んでいる人にはおすすめの1冊。芥川賞をとってからの日記がひたすら書きつづられ先程のエッセイ集は「弁」でしたが この日記文学は「一私小説書きの日乗」(文芸春秋)を名乗るシリーズでこれから何冊も何冊も出版されるのですがスタートはこの本。帯にも「規格外の作家は毎日どう生きているのか」とあり「2011年3月から一年余りの無頼の記録」とある。

この年月を見てお分りでしょう。日記はあの東日本の大震災の直前から始まり 初めて「ビバリー」に出て(3月9日)その2日後あのパニック。私と会ったり玉袋と子供のようにケンカをしたり談志が死んだり。そして2012年4月11日ついに私が倒れるのです。オタオタする賢太。そして13年私の復活ライブを見にくる賢太。私と賢太のおよそ2年がギュッと詰まった1冊。最初の最初 書き出しからしてこれだ『平成23年3月7日(月)11時過ぎ起床。「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」を聞きつつ、ゲラを見る。いかにも作家らしい一日の始まり。』こうして始まった厖大な日記

『3月9日(水)11時起床。今日放送の「ビバリー」には録音出演のかたちで自分も紛れ込んでいる。高田文夫先生は自分と同世代のお笑い好きであれば気になる存在であろう。表現力豊かな話芸の天才そのものである先生を、中学二年より何故か尊敬し続けてきた。(中略)全くもって不可思議な魅力のある人物だ。自分の書棚には大切な物故私小説家数名の初版本と共に高田先生の全著書(ニッポン放送出版の”幸”シリーズでの元版から入手困難な「文夫クン祭り」のパンフレット類まで)をコンプリートで並べている。むろん、立川藤志楼としての高座CDのほうもだ。(中略)番組内で先生が拙著の「苦役列車」を面白がっていると人伝てに聞いた。自分の中卒や前科者という経歴に「こんな奴が芥川賞!」とあの高笑いで言って下さったときいた。(略)本当に感無量だった。先生の江戸っ子流儀の口の悪い歓迎ぶりがうれしくて その時の興奮が未だ冷めずにいる』

こんな調子で毎日毎日がすすむのだ。中にはこんな記述も。

『3月29日(色々あって)ふと思い出し高田先生と坪内祐三氏の連載のある「小説現代」4月号を手に取る。いつもの立ち読みで済ませようとすると今回は二氏とも自分のことに触れて下すっている箇所があった。で これも購入する。深更一時半より自宅にて宝焼酎を飲みつつ 久しぶりにCDで高田先生の高座を聞く。「立川藤志楼 やっとこさ蔵出し」VOL2とVOL1。VOL2を先にかけたのは長講「唐茄子屋政談」を酔いの回る前にじっくりと聴きたいからだ。焼酎の水割りが進む』

嬉しいネ。こういう姿勢。私が家へ行ってサシできかせてあげりゃ良かった。

『4月4日 8時起床。「ビバリー」のゲストは昭和のいる・こいる。高田文夫先生構成のもと4月24日に王寺駅前の”北とぴあ”で45周年記念リサイタルを行うとの由。ゲストも吉幾三 鈴々舎馬風 松村邦洋 ナイツ等の豪華メンバー。高田先生 放送の中で付近に住んでいる林家ペーと自分の名を呼び 観覧の指示を下される。「芥川賞なんか獲ってる場合じゃないぞ!」とのお言葉。で放送終了後早速”北とぴあ”に赴き前売り券三枚購める。座席表を見ると千三百人収容の大ホールの九割近くがすでに埋まっていた。』

まぁ私との二人三脚のような日々が何冊も何冊もつづく訳です。賢太!オレのこと沢山書いてくれて有難うな。また、うぐいす谷の治安の悪いSで待ってるよ。玉袋と3人で呑もうぜ。慎太郎さんのことは任せたよ。じゃあな。バイビ~~。

 

2022年2月10日

高田文夫

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。