高田文夫のおもひでコロコロ

2022.02.17

第26回『MANZAI史』

基本は<ふたり>である。話す人、聞く人。これがコミュニケーションである。意思の疎通。少し増えて<ミニコミ>。大人数になると<マスコミ>マスのコミュニケーションである。我々が雨露をしのいで、きたのがマスコミ。「話す・聞く」「ボケ・ツッコミ」「阿吽の呼吸」「つうと言えばかぁ(つうかぁの仲)」そこで私が50歳の時(初版発行日が1998年6月25日)、記念して出版したのが”笑芸界のバイブル”とも呼ばれ今や伝説ともなり これ1冊持っていないと この世界には居られないとも言われているこの本。「笑うふたり・語る名人、聞く達人」(中央公論社)何たって表紙の画が「HANA-BI」で どでかい賞を獲り「世界の北野」になったばかりの あの監督兼コメディアンの元祖二刀流。絵柄は一任したのですが よく見るとお分りの通り私とビートたけしのリスペクト男たちである。電柱の灯の下、刺青のテキ屋である私がお面を売っている。日本中を笑わせてくれる9人の男を売っているのだ。よく見ると分るが似顔絵のお面がまた なかなかなのだ。谷啓・青島幸男・三木のり平・小朝。ウラ表紙を見ると談志・三宅裕司・伊東四朗・イッセー尾形。背中を向けているのが欽ちゃん(萩本欽一)という訳。このメンバーの似顔をたけし氏がコツコツ描いていたのも凄いがタイミング的にちゃんと<HANA-BI>が上がっているのがいい。絵の右下に当人のサインと<笑う面々>とタイトルをつけているのもいい。

笑いに人生まで賭けちゃった私の大好きな9人の男たちに直接話を聞きまくった、まさに阿川佐和子を越えた私の「聞く力」。イッセーを除いて全員が東京っ子、江戸っ子というのも嬉しい。一をきけば十を知るって位で話が早いのである。志ん生の句に「話下手 聞き上手に 助けられ」というのがある。私がこよなく愛する東京の笑芸人達であるから 言ってることに間違いはない。98年の本だが9人の内4人は もうあちらの名人会へ行ってしまった。やっぱり人というのは会って話しておかなければラチはあかない。下はこの本に出てくる方たちの写真です。

「笑うふたり」という事で今回色々考えたのですが 何と書名にズバリ「漫才」が入っていた本を出版していたのです。これには私も 相方の清水ミチコもびっくり。すっかり忘却の彼方です。「ニセ夫婦(めおと)漫才」(双葉社・2011年)帯には「笑いひと筋23年 信頼のラジオビバリー昼ズ」とあります。2010年の丸々1年間 下らないことだけを喋りあったフリートークの速記本という形です。

それでは実際に私が板に上がった漫才歴を確認、ひもといてみる事にしましょう。私の”漫才コレクション”あるいは”THE・MANZAI史”といったところです。とんでもない数の高座数です。まずはこの日刊スポーツの記事。1998年6月28日号。「笑うふたり」同様 私の50歳記念と「ビバリー昼ズ」10周年をひっかけて開催した「文夫クンまつり」での舞台の様子。たしか今はなき新宿シアターアプル。この日の「高田名人会」の演目が凄すぎ。まだ若手だった3組がまず行く。<ものまね>松村邦洋<漫才>浅草キッド<落語>春風亭昇太 そして登場<落語>立川談志<仲入り>があって<漫才>世界の北野&日本の高田。トリが<落語>春風亭小朝。グーの音も出ない顔付けです。この後 一次会そして中野へ二次会。この模様はまたいつか。書いたら私が捕まっちゃう。

 

題して「民夫クンと文夫クン」

直木賞作家にして焼死男、私の相方、景山民夫。寄席番組も出たし大学の学園祭もいっぱいまわったっけ。背とIQだけは異様に高い男だった。民夫も50で死んじゃった。直木賞は50、芥川賞の西村賢太は54。私の身近にいた文学者は皆な早逝。私はみうらじゅん賞で充分。

 

 

これは「OWARAIゴールドラッシュ」のゲストコーナーでホンジャマカの石塚と私とが なべおさみを思わせる監督(キントト)コント。

91年11月。私がメガホンでひっぱたき追いかけまわす”コント55号”風でもある。

北沢タウンホール。題して「トンジャマカ」ホンジャマカが跳ぶからである。汗びっしょりで石塚は走りまわった。

 

 

 

 

 

 

 

 

嬉しそうにふたりでやってるのは「TAKE 3」

これは「ビバリー昼ズ20周年」記念ライブ 08年6月、よみうりホール。

そろって東MAXをやった後に東の1万円札で汗をふくに対抗して私が金塊で汗をふく必殺ギャグ。

この日私の”千葉の女が乳しぼり”が炸裂。これはストレートコンビの大ヒットギャグ(誰も知らない。東は親のしつけだろう、ストコンを知っていた)”ダメなのね~ ダメなのよーッ”。ポール牧の居た”ラッキー7”のライバルだった。当時私はラッキー7のコントをひたすら書かされた。

 

 

 

 

 

 

 

「東京ボーイズ」のリーダーが亡くなって数年、私は助っ人として参戦。小さなアコーディオンも参加。題して「ニュー東京ボーイズ」なにやら生ビールが飲めそうだ。ニュートーキョーって・・・。寄席もライブもいっぱいやった。歌った。謎かけ問答も。三味線は菅六郎、ウクレレは仲八郎。07に亡くなったリーダーは旭五郎。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊達ちゃんとふたり、題して「ヨンドウィッチマン」。たしか「ビバリー昼ズ」25周年の記念ライブ。よみうりホール。何かあると私が伊達ちゃんを「女子プロレスの人だよネ?」と間違え爆笑。袖でくやしそうに冨沢が見ていた。

 

 

 

 

古くは「我らの高田笑学校」時代からコンビを組んでいる松村邦洋との「新宿キッド」。

永遠のライバルが浅草キッド。二人揃って心肺停止経験あり。合言葉は「私のハートはストップモーション」。

30年も前「バウバウ」で天下を取った(?)。写真は神田伯山襲名披露(末広亭)で”ものまね漫才”をするふたり。

うしろ幕はジブリから贈られたポンポコ狸の清水次郎長である。

 

 

 

 

 

 

 

先日亡くなった昭和こいる師匠との漫才。めくりをよく見ると分るが私は”のいる”ではなく”のめる”。「昭和のめる・こいる」としてあがった。

これは「オール日芸寄席」での模様。こいる師は私の先輩なのだ。

下の写真は民謡など歌うと小節でふるえるこいる、その頭にハンカチを乗せると普通に歌えて はずすとふるえるというバカバカしい持ちギャグ。ヘーヘー ホーホー しょうがない しょうがない。いい想い出だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

トリは勿論”爆笑問題”。田中の脳がコーソクになったとかで明治座へ来られず急遽、私と太田光で「爆笑大問題」。今や関東漫才のトップ。大看板の太田クンと高座へ立てるなんて私も永いこと演芸に携わって来てしみじみ良かったと思う。評論家みたいに理屈言ってるだけで1分と客前でしゃべれない奴らにゃ生涯「芸」の本質が分らないだろうと思う。このなまの「醍醐味」と「幸せ」である。コロナ禍でもお客様が来てくれて客前に立てて人を笑わす・・・いくつになってもエンタメの力を信じる。ものを書いて人前に立つ。太田も私もこれが天職なのだ。

こうして「おもひでコロコロ」と整理して振り返ってみると私ほど色んな相方と爆笑をとってきた人間は居ないだろう。(「漫才篇」だけでこれだけ濃い高座なのに近いうちに整理する「落語篇」ともなると大変なことになる)ビートたけしから太田光と文句なしの相棒リストだったが まだやっていない連中もいた。浅草キッド、ナイツ、そしてポカスカジャンである。

それにしても よくこれだけ写真素材など自力で集めたものである。「目で見る極私的大衆芸能史」と銘打っている以上ビジュアルが大切なのだ。100の理屈より1枚の写真の方が その時の空気感をよく伝える。あの時の笑い声がきこえてくるのだ。しみじみ いい商売だなと思う。この喜びだけでやってきた73年間なのである。笑い声がエネルギー。

<P.S.>先ほど紹介した「笑うふたり」は中公文庫で文庫化もされています。私が一番尊敬する喜劇の神様 三木のり平先生は 亡くなるまでずっと枕元にこの本を置いていてくれたと息子ののり一にきいた。のり平先生にも「オール日芸」に出てもらいたかった。

 

2022年2月18日

高田文夫

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。