高田文夫のおもひでコロコロ

2021.11.05

第13回『書いてしゃべって二刀流誕生』

ナポレオンズの”アッタマ(頭)グルグル”が死んでしまった。寂しいもんだ。フランスの皇帝ナポレオンの本名がボナパルト。手品をする方がボナ植木、喋りを中心として頭をグルグル360度回す方がパルト小石。亡くなってしまったパルト小石の小さな毒の入ったしゃべりが好きだった。軽い皮肉屋なのだ。このライトなトークがいい。都会的なのだ。それにしてもあの”頭グルグル”の謎は私でも解明できぬまま天国へ持っていっちゃった。噺家は名人芸を持っていってしまうが手品師は謎をそのまま持っていってしまう。秋になると必ずラジオでかける私の大好きな曲・・・フランク永井「公園の手品師」

鳩が飛び立つ公園の いちょうは 手品師 老いたピエロ

人生を四季にたとえると、とうとう冬に入ってしまったこの身には こういう歌がしみ渡る。ありがとう、頭グルグル。気がつけば、今年(2021年)は東西の大看板を失っている。西の笑福亭仁鶴、東の柳家小三治である。「どんなんかなァ~」「うれしかるかる」「三分間 じっと我慢の子であった」あれ程マスメディアで売れた落語家は初代「どーもすいません」の林家三平以来と言える。こんにちの吉本興業の隆盛は すべて仁鶴師の功績である。仁鶴の売れ方をみて三枝(今の文枝)が落語界へ入りアイドル的売れ方をして入門したばかりの明石家さんまを引き上げた。すべては仁鶴から始まったのだ。70年の大阪万博。沢山の人がつめかけた。隣で仁鶴の公開放送が始まったら万博よりも人が集まったという伝説すらある。

東の柳家小三治。師匠の小さん、大阪の米朝に次ぐ落語家の人間国宝3人目である。私は学生時代 談志と志ん朝の高座を追いかけながらも「次に来るのは この人だな」と思い、まだ二ツ目の頃よく上野本牧亭で開かれていた「さん治・さん八(ぱち)の会」へ足繁く通った。この2人は若き日より本当に仲が良く 永六輔、小沢昭一らと「東京やなぎ句会」もやっていたし 小三治のドキュメンタリーを見たら、いい年をした爺ちゃんふたりが温泉で”お湯のかけっこ”をしていた。さん治とさん八・・・これが後の小三治、扇橋である。ある雑誌がまるまる「小三治号」を出すというので近々”やなぎ句会”の矢野誠一氏と対談をする予定。ちなみに小三治師匠の俳号は「土茶」こんな句があります。

敗戦日 うちの女房の 誕生日

爆発の 方が人気の 花火かな

噺同様 とぼけた味が 魅力ですネ。

新しい事がどんどん判らなくなって ついつい古いものに”頼りがち”。それでも仕事が成り立っているというのが凄い。放送媒体はラジオのAM、原稿は いまだに週刊誌、月刊誌。トークは舞台から客席に直接語りかけるという手法だ。昭和30年代のマスコミ仕事だ。いまCDをかけながらこの作業をしているのだが かかっているのが「南佳孝 ボッサ・アレグレ」なる出たばかりのカバーアルバム。あの声で「君をのせて」「A列車で行こう」「ノーノーボーイ」「シーサイド バウンド」なんてところを歌っているのだからたまらない。トイレへ行くのに思わず こっちもモンローウォークしてしまった。南佳孝しかり横山剣しかりフランク永井しかり、その声をきいただけでジットリしちゃうって事あるよネ。

ニッポン放送の石Dがそっと耳打ちする。「すいません・・・」「お前はささやき女将(おかみ)か!?」「そろそろ話を元に戻しましょう」「なんだよ!お前は選挙特番で暴走する太田光の横にいるTBSの井上アナか!」「いくらタイトルが”おもひでコロコロ”でも話がコロコロ変化しすぎです。少し前まで何の話を書いていたか覚えてますか?」「朝ゴハン何を食べたかも覚えてない俺だよ、以前 何書いたかなんて覚えてる訳ないだろ・・・アッそうか”目で見る私の大衆芸能史”のような料簡で三波伸介さんあたりの話まで書いてたんだ」「そうです。昭和52年53年あたりの話ですよ。そこから進んでません」

話には順番ってものがある。起承転結。あるいは序破急、その流れを汲むのが小田急だ。「序」は導入部「破」は展開部「急」は終結部だ。俺の話は全部「破」だ。あの頃は~ッ ハッ!!みごとな「いいかげんに1000回」だ。俺の「ビバリー昼ズ」は誰も数えてないけど7000回はゆうに越えている。ハッハッハ。また石Dが耳打ちする。「少し休憩しましょうか」

<中入り>

水も呑んだし 息も整えた。大丈夫だ。前に書いたNHK「こども面白館」で幼児番組班に ちょこちょこ顔を出す内に他のスタッフからも声を掛けられた。「来春から夕方6時~6時25分。(月)から(金)で毎日何かやろうと思うんだけど・・・」というU田プロデューサーの元へ何人か集められた。あれこれアイディアを出し合う内にバツグンの思いつき「子供の為のワイドショーを毎日 生でやろう」と盛り上がった。テレビ史上 これは初のアイディアだった。大人のワイドショーがあれだけ当たっているのだから、子供たちにも話の種になるワイドショーがあってもいいだろう。おまけにこちらは全国区だ。機動力だってある。子供に楽しく教える<芸能・スポーツ・科学>の最新ニュース。6時25分からは「紅孔雀」とか「プリンプリン物語」など人形劇が決まっていた。スタートは53年4月3日と決まった。タイトルは6時からなので「600(ろくまるまる)こちら情報部」。MCは鹿野浩四郎(若き舞台人)と帯淳子(作家の娘)。ディレクターと私とで連日レポーターオーディション。毎日の生なので機転のきく子がいい。すぐにどこでも飛んでいけるフットワークの良さも求められるし、子供に受けなきゃいけない。これといっていいレポーター(最低10人はスタンバっていなければ連日2本以上のネタは放送できない)も なかなかみつからない。そうこうしている内に第1回が近づいてきた。情報によると翌4月4日は後楽園球場でキャンディーズが解散コンサートだ。その前日は当然リハーサルをやってるだろう。うちの大将、塚田茂が絶叫した。「リハーサルをNHKでやってもらえ!1番でかいリハーサル室を押さえとけ。そこへレポーターが直撃だ。これがワイドショーだ。生だ。最後のリハーサルを600が押さえるんだ。独占だ!」血管が切れそうだった。「早くナベプロへ電話しろ。塚田がそう言ってると言えば何とかなる」そんなものでもなかった。NHKという押しでこの案はどうにか通った。レポーターはキャンディーズと「みごろ たべごろ」などで共演している若き日の戸田恵子にスンナリ決まった。第1回目の目玉は「キャンディーズを独占 最終リハーサル」である。もう1本をどうするか。毎日一応 大ネタ中ネタの2本立てで行こうと決めていた。「やっぱスポーツだろ」「いよいよプロ野球も開幕だ」「今年のニュースターは?」一斉に「若トラ掛布」の声があがった。阪神タイガース未来の4番バッター、若き掛布選手である。男のレポーターも気のきいたのが居ない。OAは近づいている。キャンディーズは生出演でも掛布は大阪まで行ってあらかじめVを撮っておかなければならない。レポーターも居ない。するとU田プロデューサーが「高田ちゃん、カメラマン連れて虎風荘まで行っちゃえば。企画の段階から ずっとやってて番組の主旨とか1番判ってんだから。高田ちゃんが喋っちゃった方が早いし、第一面白そうじゃない。明るく楽しいのが600なんだよ」このひと言で”喋る原稿用紙”としてカメラの前でしゃべる様になった。作家と喋り手の二刀流誕生の一瞬である。私29歳の時である。お陰で もの凄い反響となった。この第1回がなければ のちの「アンパンマン」(戸田)も「たけしのオールナイトニッポン」(高田)も生まれては来なかった。昭和53年から57年くらいまでやったのかな・・・。現在の50代の男の子、女の子は熱狂したであろう6時だから「ロクジロー」のバッチ。他にTシャツなどもあった。「今日のイラスト ナンバーワンはこれだ!」なんてのもなつかしくてワクワクでしょ。

この歴史的第1回放送を山口県の田舎で目をこらして見ている小学生がいた。(のどをつぶして)「ヒジョーにですネ・・・」「バウバウ」掛布と謎の明るいお兄ちゃんとのからみ。まさかこの2人が生涯のメシの種となる「ものまね」になるとは・・・。松村邦洋は今でも この時のTVシーンを完コピすることができる。

右の写真は「男はつらいよ」の大船撮影所へ渥美清を訪ねた時の模様。番組名物のボードに「600こちら情報部 あつみきよし」と書いてくれた。アドリブインタビューが終わったあと渥美は そっと私を手招きして耳元で「お兄さん、売れるよ」と言ってくれた。天地がひっくり返るほど嬉しかった。

何でも器用だから取材も色んな所へ行かされた。渥美清を筆頭にスターインタビューは沢田研二、山口百恵、西城秀樹など。KISSなど大物外国アーティストが来日すれば英語も喋れないけど突撃。津和野へ行ってSL取材。C57というヤツである。諏訪大社の名物 御柱(おんばしら)祭。大木をまたいだりした。徳之島へ行って当時長寿世界一 泉重千代へインタビュー。この時の私の質問「好きな女性のタイプは?」しばし考えて重千代「年上の人」いるかー!!これが のちのちギャグとして広まったが本当の話なのである。

”鬼っ子漫才ツービート”やら大阪の難波グランド花月まで行って舞台袖で”漫才ブーム夜明け前”インタビュー。のりお・よしお、ザ・ぼんち、紳助竜介ら直撃。紳助がやたら怒ってるのが怖かった。世の中は55年の”漫才ブーム”に向けて動いていた。テレビの中も徐々にだが漫才色に染められ始めていた。そんな時「落語界」にビッグニュースが・・・。私もNHKを口説いてこの流れを取りあげようとしていた。水道橋博士の近著「藝人春秋Diary」の中、小朝の章でこう記している。

『落語が冬の時代の1980年、春風亭小朝25歳は、36人抜きという落語協会の序列のなかで空前絶後の大抜擢で真打昇進を果たした。あの頃ボクは17歳だった。NHK「600こちら情報部」で32歳の高田文夫が上野の鈴本演芸場から真打披露口上をレポートしていた姿を今でも想い出す』

やはりNHKの凄味、全国津々浦々の子供達が この私の若き日の姿を見、影響されているのである。56年元日スタートの「ビートたけしのオールナイトニッポン」以前から”笑い”に興味を持っていた子たちは”しゃべる原稿用紙”と名乗る面白い東京っ子にキチンと注目していたのだ。「600」のお兄ちゃんと たけしの相手をして「バウ」と言ってる人が同一人物だと知るのは ずっとずっとあとになってからである。

2021年11月5日

高田文夫 

 

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。