• 2019年05月13日

    噴き出したマスコミ不信

     先週の水曜日に滋賀県大津市で起きた、保育園児と保育士ら16人が死傷した悲惨な事故。事故を受け、園児が通うレイモンド淡海保育園が通常保育を再開しました。

    <大津市大萱(おおがや)の県道交差点で車2台が衝突し、うち1台が保育園児らの列に突っ込んで園児2人が死亡した事故で、休園していた「レイモンド淡海(おうみ)保育園」が13日、通常保育を再開した。
     この日は午前8時半過ぎから、園児が保護者に手を引かれたり、車や自転車で送られたりして登園した。
     園によると、保護者からは「無理しないでくださいね」「一緒に頑張っていきましょう」と職員を気遣う声が聞かれたという。>

     私も4歳の子どもを抱える父親ですから、このニュースは特に他人事ではありません。通わせている保育園でも、この事故があった翌日に散歩コースや安全対策の説明のため保育士さんが遅くまで残って対応してくれていました。子どもの発育のためを思えばよく晴れた日は外に出て身体を動かす方がいいし、交通ルールなどを学ぶ場にもなります。集団行動を学ぶことで、いざ地震などの災害が起こったときに慌てずに前の人について冷静に避難することが出来るようになります。最大限安全を確保した上で、これからも可能な限りお散歩をしていきますと説明してくれました。

     さて、この事故についてはマスコミの報道の仕方に批判が集まりました。特に批判を浴びたのが事故当日、レイモンド淡海保育園の若松ひろみ園長や保育園を運営する社会福祉法人「檸檬(れもん)会」(和歌山県紀の川市)の前田効多郎理事長らが出席した記者会見での記者の質問についてでした。

    <レイモンド淡海保育園を運営する社会福祉法人「檸檬(れもん)会」(和歌山県紀の川市)の前田効多郎理事長らが8日夕、大津市内で会見した。前田理事長は「このような痛ましい事故に大変驚き、亡くなられた園児たちの未来のことを思うと本当に残念でならない」と言葉を詰まらせた。>

     この会見は事故が起こったその日の夕方に行われ、TVの夕方ニュースが各局生中継で放送し続けました。大切な園児を失った直後の会見、そこで保育園側に対して責任を問うにも見える質問が出てきたことに批判が相次ぎました。号泣する園長先生を30分にわたってカメラの前に留めるのは見てられない。私も見ていて目をそむけたくなるような気の毒な会見で、その光景だけを見ると批判は当然だと思いました。そしてもう一つ、この批判はマスコミの報道そのものへの不信感が端的に表された批判で、これを放置してはおけないとも思ったんですね。

     なぜこの会見が開かれたのか、そしてなぜ記者たちはああいった質問に終始したのか?そもそも記者会見は必要だったのか?この週末それについてずっと考えていたんですが、これを考えるにはメディア報道の根っこの部分、知る権利から考えなければいけないのではないかと思い至りました。

    <民主主義社会における国民主権の基盤として,国民が国政の動きを自由かつ十分に知るための権利。(中略)第2次世界大戦後のドイツ連邦共和国(西ドイツ)ではナチスの言論弾圧への反省として,この考えが州憲法などに明文化された。またアメリカでは 1950年代に,ジャーナリストたちによって取材の自由の保障として「知る権利」を守る運動が展開され,1966年に情報の自由化法が制定された。日本の最高裁判所も「国民の知る権利」に言及しつつ報道の自由の意義を説くにいたっている(最高裁判所判決 1969.11.26. 最高裁判所刑事判例集 23巻11号1490)。>

     「知る権利」。マスコミ関係者なら聞いたことのある言葉ですし、取材の際に渋る取材対象にこの言葉を錦の御旗のように掲げて取材するケースも多々あります。実際に記者対応に当たる各社、各官庁の広報担当者と話をすると、これを振りかざして居丈高に質問してくる記者がいるんだよねぇとこぼしていました。
     一方で、今回の事故のように被害者が取材対象となる場合、この知る権利を振りかざして取材する際にぶつかるのがプライバシー権。この相反する2つの権利の間に適切な取材の在り方があるのでしょう。この均衡点は事件・事故の性質や世論によっても左右されるものだと思いますが、まずは知る権利の方を見ていきましょう。

     上に挙げた用語解説にもある通り、この権利は全体主義国家が人権を踏みにじった反省から言われるようになった権利です。全体主義国家や一部共産主義国家では、隣人が突然姿を消すということがしばしば起こりました。体制にとって好ましからざる人物が秘密警察などの手により「消される」。その理由については報道されることもなく、また公からの発表があるわけでは当然なく、ただ噂話で反体制の集会に出たらしいとか、思想的に問題があったらしいなどが語られるだけでした。そうしたことが続けば、国民全体が萎縮し、強権がどんどんと強化される方向に向かいます。その結果、人間が持つ普遍的な権利とされる基本的人権が踏みにじられる社会が出来上がってしまうのです。このような非人道的なことを未然に防ぐため、「知る権利」というものが第二次大戦後言われるようになったわけです。
     人が、寿命や病気、避けがたい怪我などでなく不条理に命を奪われるというのは、亡くなった人にとって最大の人権侵害という側面があります。どうしてこんな事象が起こったのかを広く世の中に問い、より良い社会を築くための議論を喚起していく。報道の根源的な意味というのは、こうしたところにあるのでしょう。
     ちなみに、その趣旨に沿って行われるものの一つが実名報道です。たとえ誰それがどういう理由で消えたということが発表されていたとしても、それが匿名であったり無名であったりすれば、権力側はいかようにも誤魔化すことができます。それを許さないために、どこどこに住む誰々という人がこんな悲惨な亡くなり方をしなくてはならなかった、こんな不条理があっていいのか!?と世に問うわけです。
     ただし、そこでぶつかるのがプライバシー権。知る権利があれば、知られたくない権利というものもあるわけです。これだけのメディア環境、その上ネットが発達して一億総記者状態の世の中であれば、世に問うのも大事だが、しばらくはそっとしておいてほしいというのが被害者やその関係者の正直な心情でしょう。

     上記2つの権利のぶつかり合いをどこまで現場の記者たちが意識していたのかは分かりませんが、平成の特に後半のマスコミはこの2つの権利の均衡点を見誤り続け、その結果信頼を徐々に失ってきたのではないでしょうか。端的な例を挙げれば、東日本大震災や各地で起こった地震の報道では、"かわいそうな被災者像"を国民は見たいのだ、知りたいのだと"知る"権利を振りかざし、これからどう復興していくのかという議論を置き去りにしてしまいました。事件報道では、泣き崩れる"かわいそうな被害者像"や"憎むべき加害者像"ばかりを追い求め、感情を煽った挙句、再発防止の議論に入る前に次の話題にシフトしていきました。
     もちろん、マスコミ側にはこの方が数字(視聴率や聴取率)が取れるのだ。数字が取れればそれだけ世に問題を問うことができるし、何よりスポンサーも喜ぶ。民間放送なんだから、企業としてこうする方が理にかなっているのだ!という主張があるでしょう。ただ、そうしたことを続けてきたことがマスコミの信頼を蝕んできました。

     今回の記者会見は、そうしたマスコミの醜悪な面がもろに出てしまったものだったのではないでしょうか。報道のワイドショー化が進み、質問者が社名のみならず(そこまで主催者からは求められていないのに)番組名まで言ってから質問に入る。その方が、自分の番組がオリジナルで聞き引き出したという演出が出来るからです。1社がやれば各社がやるということで、今や同じような質問だらけの冗長な会見ばかりになってしまいました。
     マスコミは結論ありきで質問しているのではないか?よりセンセーショナルな映像や写真を残すためにわざと感情を煽るような質問をしているのではないか?視聴者たちはそうした疑念を常々抱きながらマスコミと接しています。今回も似たような質問を各社が繰り返し、結果最初は気丈に答えていた園長先生が最後は泣き崩れてしまい質問に答えられなくなってしまいました。そしてその瞬間、無数のフラッシュがたかれ、テレビカメラは一斉に突っ伏した園長先生をアップで映す...。何となく感じていたマスコミに対する違和感が、具体的な怒りの感情となって「許せん!」となるのはある種当然だったといえるでしょう。にも関わらず、マスコミ側の人間は驚くほどそうした感情に無自覚で、弁明のようなツイートをして炎上するという現役記者も相次ぎました。

     たしかに「知る権利」は大事だと私も思います。今回の批判の中には、「被害者取材を一切やめるべきだ」というものもあり、それはそれで極論過ぎて私は賛同することはできません。だからといって、今の報道の仕方が100%正しいとは言えませんし、世論からもほとんど支持されていないことが一連の批判から明らかです。この会見が必要だったかと問われると、いつかは必要だっただろうが、果たして当日に行うべきものだったのか?そして、園長先生は冒頭のみで十分で、その後は社会福祉法人の幹部が答えれば良かっただろうと思います。それが、今回の会見の均衡点だったのではないでしょうか?
     そして、私自身の反省も込めて思うのは、我々に欠けていたのは、そして今マスコミに求められているのは「報じた先」の話なのではないかということです。再発防止のためにどうすべきなのか?この社会に欠けていたものは何だったのか?それは人間の操作に頼る今の自動車の在り方が限界を迎えていることからくるのか?一人一台車を持つという地方部の交通事情がリスクを増大させているのか?ガードレールの設置が追い付かないという地方財政の問題なのか(現場は滋賀県道)?今後同様の事故を起こさないためには行政として出来ることは?保育園として出来ることは?地域社会として出来ることは?子の親として出来ることは?事故の翌朝の放送で少し問題提起をしただけで、本当に沢山の意見、提案を頂きました。「自動運転をはじめとする技術進歩を積極的に導入し、必要であれば政府が補助金を出すべきだろう」「地方財政への支援を通じて交通インフラを充実させるべき」「今回の件で萎縮して散歩をやめるようなことになってほしくない」などなど、皆さん自分事として考えてくださいました。過去の事例に学び、より良い社会の在り方も考えていく。非力ではありますが、今後も一緒に考えいければと思います。
     最後に、同じような志の特集記事をご紹介したいと思います。


     遠い過去の話ではない、本当につい最近の事例も挙げられていて、正直、子の親としては涙なしには読めません。さすが、ニュースアーカイブが豊富にある朝日新聞。この取り組みは率直に尊いなぁと思いました。願わくば、有料記事ではなく、期間限定でもいいので全文を見せてくれるといいのですが...。
  • 2019年05月07日

    世論調査がはらむ危うさ

     10連休が終わり、今日から日常が戻ってきました。とはいえ、番組は月曜から金曜まで朝6時スタートで通常通りにありましたから、いつも通りに連休中もニュースを追っていました。
    そこで気になったニュースをご紹介しますね。憲法記念日の5月3日の放送でも取り上げた、世論調査の話です。

     毎年、憲法記念日に合わせて各社が憲法に関する世論調査を行い、その結果を当日の紙面で大展開します。今年ももちろん世論調査の結果が各紙を飾りましたが、同じようなタイミングで世論調査を行っているのに改憲派の読売と護憲派の朝日で正反対の見出しとなりました。


     どちらも同じ世論調査なのですが、朝日が採った世論では改憲の機運は高まっていないと考える人が7割強いるのに、読売が採った世論では憲法の議論を活発に行ってほしい人が7割弱いるんです。同じ日本人の世論のはずなのに、まるで重なり合わない2つの"世論"が併存してしまう。これこそが、世論調査のマジックなのですね。最近になってよく言われるようになったことなのですが、世論調査は質問の仕方によって結果がいかようにも変わってくるわけです。幸いなことに、両紙とも質問と回答を紙面に載せてくれているので、具体的にどう聞いたらどういう結果が出たのかがわかります。まずは、朝日新聞から。


     リンク先を全部引き写すわけにはいきませんから詳しくはご覧いただければと思いますが、スクロールしてもスクロールしても憲法に関する質問が出てきません。内閣支持率から始まって、支持政党、国民の声が政治に反映されているのか、具体的な政策に分けての政権の評価などなど、様々な角度から今の政治について問うていきます。どちらかというと、どうですか?現政権は?あまり評価できないでしょ?ホラ、具体的に見れば、ここは悪いでしょ?どうです?そうやって24問も質問を繰り返して、ようやく25問目に憲法についての質問が出てくるのです。重箱の隅をつつくように現政権への評価を聞かれ続けたあとに、現政権の目玉政策である憲法改正について聞かれれば、そりゃネガティブな評価にもなりましょう。さらに、最初に挙げた世論調査の結果を報じる記事の見出しにとった憲法改正の機運を聞いた質問と回答は、

    <◆あなたは、国民の間で、憲法を変える機運が、どの程度高まっていると思いますか。
    大いに高まっている 3
    ある程度高まっている 19
    あまり高まっていない 55
    まったく高まっていない 17
    その他・答えない 6>

    となっています。(選択肢右手の数字は%)
    複数選択の質問の場合、真ん中の選択肢に集中する傾向があることは知られています。普通は、真ん中の選択肢には中立的なものを配し、左右それぞれに色分けをしますが、この質問の選択肢は真ん中が「どちらともいえない」ではなく「あまり高まっていない」にしてあるのがミソ。質問と回答の選択肢を見て、中立的であろうと真ん中の選択肢を選ぶと、それは改憲機運が「あまり」高まっていないという否定的要素の強い答えになってしまいます。
     聞き方だけでなく、選択肢の提示の仕方でもこうしてバイアスをかけることが可能です。まだしも、質問と回答を載せることでこうして後から検証できるようにしてあるのは評価すべきなのでしょうが、この選択肢を用意し、さらに見出しにも取って記事にするというのはちょっと角度をつけすぎなのではないでしょうか?

     一方の読売新聞ですが、こちらは一応リンクはあるのですが、ネット上は読者会員限定記事でまったく読むことができません。


     こちらはまず、憲法についての世論調査としていて、最初から憲法のどの部分を議論してほしいかから問います。
     憲法はこの国の形を示すもの。通常議論の中心をなす戦争放棄、自衛隊の問題のみならず、皇室について、基本的人権、平等、表現の自由や環境、地方自治や教育などなど、様々な事柄を網羅しています。憲法9条に触れることは反対であっても、教育無償化を憲法に盛り込むのには賛成だとか、道州制実現のための改憲なら賛成、はたまた同性婚実現のために「婚姻は、両性の合意に基いてのみ成立し」との憲法24条の条文を変えたいという主張だってありえます。
     改憲というととかく憲法9条についてがクローズアップされますが、こうした他の条文の改憲も含めれば、ある意味"広義の"改憲派は広く該当者が現れるはずです。そうした質問をしたあと、憲法に関する議論についての質問をしています。

    <◆あなたは、各政党が、憲法に関する議論をもっと活発に行うべきだと思いますか、そうは思いませんか。
    ・もっと活発に行うべきだ 65
    ・そうは思わない 31
    ・答えない 4>

     そもそも憲法改正の様々な選択肢を思い浮かべた上で、改憲ありきではなく「憲法に関する議論」を活発に行うべきかどうかという聞き方であれば、そりゃ活発に議論した方がいいだろうと流れるのはよくわかります。さらに、中間の選択肢が「答えない」しかない以上、(改憲護憲どちらになろうとも)議論そのものまで妨げることはないだろうという消極的賛成の意見もある程度は「もっと活発に行うべきだ」に収容されることになります。その結果が記事化され見出しになると「憲法議論活発に65%」となるのですね。多くの人は一面の見出ししかみませんし、読売はもともと改憲に積極的な紙面を作ってきていますから、この見出しだけを見ると「なるほど、世の中は改憲に向けて動き出しつつあるのか」という印象を受けることになるのでしょう。
     こちらも、少なくとも紙面には質問と回答を載せていますからこうしてあとから検証が出来ます。それは評価すべきなんでしょうが、それにしても朝日も読売もどっちもどっちで世論調査のテクニックを駆使して自分たちの望む結果を引き出そうとしていることがわかります。

     さて、こうして世論調査を放送でも批判していましたら、メールを一通いただきました。引き写しではなく趣旨を紹介しますと、「飯田、お前は公平中立なように批判をしているが、ではお前が世論調査の担当だとしてどういった調査をすれば公平中立になるというのだ?」というものでした。
     たしかに、偉そうにしゃべった以上は、それに代わる選択肢を提示できなくてはフェアではありません。
     私個人的な考えとしては、まず世論調査は、というかすべての言説はそれを言う本人、あるいは組織のバイアスを100%消し去ることは不可能であると考えます。従って、完全に公平中立な世論調査というのは難しい。ただ、だからといって世論調査そのものをするなという話ではありません。この部分を放送では言えずに終わってしまいましたが、世論調査そのものは貴重なデータだと思います。調査にはかなりのお金がかかりますから、大手新聞社がこうした大規模調査を行うことは非常に意味があると思います。また、今回取り上げた朝日や読売のように、質問と回答を全文掲載してくれれば後から検証することもできますから、質問のバイアスを差し引いて結果を評価することも可能です。
     問題なのは、これを記事化し一面で見出しを付けて報じることにあるのだと思います。忙しい現代人は、記事の中身まで読まずに見出しで理解しようとします。インターネットがこれだけ普及した今、ニュース検索やニュースサイトではこの見出しの文言がズラっと並び、見出しだけを見れば何となくニュースを理解した気になります。
     ところが、この見出しにバイアスがかかっていた場合、現実とはかけ離れた理解になってしまう恐れがあります。そうやって世論をリードしていくのが狙いなのかもしれませんが、そうした誘導は結局メディアの信頼を傷つけることになると思います。せっかく貴重なデータを取っているのですから、バイアスをかけずに出せばいいのにもったいないと思うわけです。
  • 2019年04月29日

    引き上げた機体を守れない国

     今朝の放送でも6時台のニュース解説のゾーンでご紹介しましたが、青森県沖に墜落した航空自衛隊のF35A戦闘機について、日米合同の捜索活動が始まると今朝の読売新聞が報じていました。


     残念ながら、リンク先の記事は有料会員限定でまったく読むことができませんので、同じような趣旨で書かれた時事通信の記事もリンクしておきます。

    <航空自衛隊三沢基地(青森県)の最新鋭ステルス戦闘機F35Aが太平洋に墜落した事故で、海上自衛隊は海底にソナーを設置するなど任務上、秘匿性が高いことで知られる敷設艦「むろと」(全長131メートル、4950トン)を現場海域に投入した。文部科学省が所管する海洋研究開発機構(JAMSTEC)の海底広域研究船「かいめい」(全長100メートル、5747トン)も捜索を開始。>

     さらに、アメリカ軍がチャーターした深海活動支援船「ファン・ゴッホ」も現場海域での活動に参加する予定とのことで、日米3隻体制での捜索が始まることになります。これに関連して話題にしたのが、自衛隊法の95条に記載のある「武器等防護」に関する規定。上記、読売新聞の記事を引き写しますと、以下のように指摘がありました。

    <ただ、引き上げられた機体が他国に奪取されそうになった場合、岩屋防衛相は国会で「防護対象の武器等が破壊された場合は、武器使用は認められない」と答弁。壊れた機体は、防護のための武器使用を認めた自衛隊法95条の対象にならないとする見解を示した。>

     この根拠について調べてくれたリスナーの方々がいらっしゃいましたが、95条そのものにはそういった規定はないとの指摘がツイッター上にありました。たしかに、自衛隊法を見ても岩屋大臣が答弁したようなことは条文としては書き込んでありません。

    <(自衛隊の武器等の防護のための武器の使用)
    第九十五条 自衛官は、自衛隊の武器、弾薬、火薬、船舶、航空機、車両、有線電気通信設備、無線設備又は液体燃料(以下「武器等」という。)を職務上警護するに当たり、人又は武器等を防護するため必要であると認める相当の理由がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができる。ただし、刑法第三十六条又は第三十七条に該当する場合のほか、人に危害を与えてはならない。>

     この中の刑法36条はいわゆる正当防衛について、同37条はいわゆる緊急避難について書かれた項目であり、今回の事案には該当しません。となると、武器等防護の範囲については法律の条文には"その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で"としか書かれていないわけです。しかし、こういった曖昧な線引きでは実務に当たる現場が困りますから、具体的にどういったところで線引きするのかが国会への提出資料や各種答弁などで明らかになっています。


     この参考資料は、第1次安倍政権時代に設置された安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会、いわゆる安保法制懇の議論の中で提出されたものですが、その5ページにこういった記述があります。

    <・自衛隊法第95条に規定する武器の使用について(平成11年4月23日衆・防衛指針特委提出)
    1 略
    2 自衛隊法第95条に規定する武器の使用と武力の行使との関係
    自衛隊法第95条に規定する武器の使用も憲法第9条第1項の禁止する「武力の行使」に該当しないものの例である。
    すなわち、自衛隊法第95条は、自衛隊の武器等という我が国の防衛力を構成する重要な物的手段を破壊、奪取しようとする行為から当該武器等を防護するために認められているものであり、その行使の要件は、従来から以下のように解されている。
    (1)武器を使用できるのは、職務上武器等の警護に当たる自衛官に限られていること。
    (2)武器等の退避によってもその防護が不可能である場合等、他に手段のないやむを得ない場合でなければ武器を使用できないこと。
    (3)武器の使用は、いわゆる警察比例の原則に基づき、事態に応じて合理的に必要と判断される限度に限られること。
    (4)防護対象の武器等が破壊された場合や、相手方が襲撃を中止し、又は逃走した場合には、武器の使用ができなくなること。
    (5)正当防衛又は緊急避難の要件を満たす場合でなければ人に危害を与えてはならないこと。
    自衛隊法第95条に基づく武器の使用は、以上のような性格を持つものであり、あくまで現場にある防護対象を防護するための受動的な武器使用である。
    このような武器の使用は、自衛隊の武器等という我が国の防衛力を構成する重要な物的手段を破壊、奪取しようとする行為からこれらを防護するための極めて受動的かつ限定的な必要最小限の行為であり、それが我が国領域外で行われたとしても、憲法第9条第1項で禁止された「武力の行使」には当たらない。>

     平成11年(1999年)の日米防衛協力のための指針に関する特別委員会(防衛指針特委)に政府から提出された資料にある記述ですが、これは日米のガイドライン改訂、周辺事態という概念が持ち込まれ、そうした事態に対して米軍への後方支援、物品又は役務の相互提供に関する協定(日米ACSA)を審議する過程での資料でした。ここに自衛隊の武器の防護に関する自衛隊法95条に基づく武器使用がどこまで認められるか、言い換えれば、この資料の中にもありますが、憲法9条第1項に抵触しない範囲での武器使用というのはどういった場合かという法的整理がされています。

     それによれば、(4)に、<防護対象の武器等が破壊された場合(中略)武器の使用が出来なくなること>が明記されています。先に引いた岩屋大臣の答弁は大臣の個人的見解などでは全くなく、むしろ政府内で脈々と受け継がれてきた見解なのですね。放送でも申し上げた通り、この問題点は、今回の事案に当てはめると浮き彫りになってきます。すなわち、F35という機密の塊のような機体であっても、こうして墜落し破壊された場合には、これが他国の手に渡ろうとした際にも武器使用が出来なくなるということ。大臣答弁の通り、今回の事案で仮に引き上げが上手く行ったとしてその墜落機体を奪取しようと他国軍が迫ってきた場合、我が自衛隊は武器使用は出来ません。
     正確には、相手が一発撃ってくれば上記刑法36条の正当防衛により反撃が可能となります。しかし、最初の"一発"が文字通り一発ならば反撃できても、常識的には当初の一発、というか一撃で反撃不能ならしめることを相手は意図し、攻撃してくるわけです。撃たれてはおしまいなわけで、だからこそ抑止力が必要だという議論になるはずなのですが...。

     これを、警察権で守ればいいだろうという指摘もありましたが、となると海上保安庁の仕事ということになります。現場は公海とはいえ日本の排他的経済水域ですから、日本が引き上げた機体を許可なく奪取しようとすれば速やかにその行為を中止させることができるはずですが、海上保安庁法で外国軍艦や各国の公船が相手では手出しができません。また、仮に相手が国籍も公船かどうかも不明の不審船の場合でも、現場海域は領海外ですから海上保安庁の巡視船等が警告射撃を行って相手の被疑者を死傷させた場合、違法性が阻却されずに海上保安官が違法性を問われる可能性すらあるのです。そうしたリスクを背負ってまで身体を張って阻止に動くのか?これは海上保安官の士気云々の話ではなく、法の立て付けにより現場での対応は放水が限度となるのではないかと思います。

     さらに、このF35は生産国アメリカの海・空・海兵隊のみならず、イギリス、イスラエル、ノルウェーなど先進国を中心に10か国以上にすでに実戦配備しています。この機体の情報が他国に渡るということは、日本一国の安全保障に重大な影響を及ぼすのみならず、こうしたF35を採用している他国も重大なリスクに晒すことになるのです。それは、取りも直さず世界平和への脅威となってしまうでしょう。

     平和を愛するがゆえに憲法9条を守ろうとしているはずが、結果的に世界平和への脅威になってしまう。この矛盾こそが、昭和から平成、そして令和へと引き継がれていく日本の安全保障議論の貧弱さ、安保の議論=戦争しようとしている!というステレオタイプの批判の成れの果てではないでしょうか。個別具体的な事案では、憲法9条による矛盾が噴き出てきます。しかし、それをどう解決していくかという話になると、途端に小手先で何とかする、法改正に改正を繰り返して屋上屋を作り出すことに血道を上げてきたのがこの国の安保議論の歴史でした。あれだけ改革大好きなこの国のメディアも、なぜか憲法に関しては"抜本的改革"を避けて通ってきたのです。令和の時代は、この宿題にそろそろ解答が出せるといいのですが...。
  • 2019年04月22日

    令和に持ち越す就職氷河期世代問題

     平成から令和へと変わる直前、まるでアリバイ作りのように経済財政諮問会議で就職氷河期世代が議題に上りました。

    <政府は10日、経済財政諮問会議を開き、バブル崩壊後の就職難で正社員になれなかった「就職氷河期世代」の就労支援を本格化させる方針を示した。今後3年間の集中支援計画を作り、フリーターなどを半減させる方針。就職氷河期の初期世代が50代になる前に本格的な対策を打ち、雇用の安定化を狙う。>

     就職氷河期世代については、今担当している「OK!Cozy Up」、かつて担当していた夕方の番組「ザ・ボイス そこまで言うか」で再三取り上げ、拙ブログでも話題にしてきましたが、ようやく政府の審議会で取り上げられるようになりました。中身云々はいろいろありますが、まずはこの政策課題を取り上げたというだけでも一歩前進と評価したいと思います。
     何と言っても、今まで就職氷河期世代の課題については他の政策課題の陰に隠れて埋もれたまま捨て置かれてきました。社会に出るタイミングでデフレの真っただ中。当時は団塊の世代がまだ引退する前で、企業も労組も声も大きく数も多いこの世代の正社員を守ることを最優先。結果、上の世代を切れなければ下の世代の流入を抑えるということで、新卒採用を大きく絞り、学部卒の就職率は低迷の一途をたどりました。
     その後、2000年代の半ばから日本経済は一時的に回復しましたが、そのタイミングで団塊世代の引退も加速。人数を補うべく、企業が中途採用を活性化させていればよかったのですが、企業は今まで通りまずは新卒の門戸を大きく開放。それでも足らなければ氷河期世代も採用していたのでしょうが、日本経済もそこまで力強い回復を遂げてはおらず、ここでも氷河期世代はチャンスを逃します。その後、リーマンショックを受け、非正規雇用の多い就職氷河期世代は最も影響を受けます。
     第2次安倍政権発足後、特に雇用市場は引き締まりを見せ、大卒正社員就職率が統計を取り始めて初めて1を超えるほど雇用環境は改善したのですが、その時氷河期世代はすでに30代後半から40代に差し掛かっていました。若手と呼ぶにはトウが立ち過ぎた我々の世代は、このチャンスにも相手にされず今日を迎えているわけです。今回の経済財政諮問会議で民間議員から出された資料には、この動きがグラフで如実に表れています。


     この資料では、就職氷河期世代の定義として「バブル崩壊後の新規学卒採用が特に厳しかった1993年~2004年頃に学校卒業期を迎えた世代」としています。具体的な年齢としては、「(浪人留年がない場合、2019年4月現在、大卒で37~48歳、高卒で33~44歳」。私は大卒で現在37歳。まさに氷河期世代の終わりに位置しています。そして、この世代の人口規模ですが、2018年時点で1,689万人、15~64歳人口に占める割合は22.4%。この氷河期世代は大部分が団塊ジュニア世代と重複していますから、これだけ大きなボリュームを占めるわけです。生産年齢人口の4分の1弱ですから、決して無視できない大きな存在です。

     そして、この氷河期に未就職卒業者がぐんと増え、減ったといえど高止まりしました。ピークの2000年3月卒で高校・大学等卒業者に占める未就職者の割合が12%。
    その前後の年も10%前後という高い比率を示しています。そして、このグラフの山はこのデフレ期の他の経済指標でも同じように表れる動きを見せています。たとえば、完全失業率。こちらはピークが少し後ろにズレますが、90年に2.1%だったものが徐々に上がっていき、2002年のピークには5.4%にまで悪化しています。


     また、「経済・生活問題」を原因とする自殺者数もこの完全失業率の推移とかなりシンクロすることが分かっています。国全体のマクロ経済が悪くなると、当然失業率が上がり、それらを起因とする自殺者数も上がり、また新卒採用に目を向ければ採用そのものが全体の失業率以上に非常に悪くなるということが分かります。これは肌感覚通りの結果であって、何も目新しいことを言っているわけではありません。

     ただ、こういうことを主張すると、それは個人個人の自己責任であろうという反論が返ってきます。それは、上の世代のみならず、同世代で話をしても、この厳しい競争の中で勝ち抜いてきた(と本人は信じている)新卒で大手企業に採用されたような人ほど「自己責任」を主張します。
     が、これが自己責任で片付けられないのが、かつての不景気時のようにその後好景気がやってきて企業が採用活動を活発にするようになり、結果として再チャレンジすることが出来たかどうかがかつてとは大きく異なるからです。チャンスが豊富にある中でチャンスをつかみきれなければ、それはある程度自己責任と言われても仕方がないかもしれません(もちろん、個々の事情を勘案せずに十把一絡げにすることはできませんが)。ただ、前述の過去の経緯を見てきた通り、この世代には再チャレンジのチャンスはほとんど巡ってこなかったといっても過言ではありません。2000年代半ばに日本経済が一息ついたときにチャンスがあったのかもしれませんが、この時に巡ってきたチャンスはかつての景気拡大期(オイルショック後の景気回復局面や円高不況後のバブル景気など)と比べても大きく劣ることは肌感覚からしてもわかるというものです。今回諮問会議に出されたペーパーにも、そのことが分かるデータがありました。

     就職氷河期世代がそのまま雇用の調整弁的な世代と化していたことが白日の下に晒されたのです。学卒未就職者のグラフの脇に、就職氷河期世代の就業状態の推移という表がありますが、見事に氷河期世代の非正規雇用者がそのまま年齢を重ねる一方で、下の世代の非正規雇用者は大幅に減っていることが分かります。つまり、我々就職氷河期世代を雇用のクッションとして、上の世代は定年まで逃げ切り、その空いた椅子に下の世代が正社員として座るという構造が固定化してしまっているのです。これは、果たして自己責任なのでしょうか?マクロ経済運営に失敗した時の政府の責任は?業績が回復しても一向にこの世代を顧みなかった企業の責任は?企業は今になって現在40代前後の中間管理職世代の不足を嘆いているようですが、今まで採用せずに育てもしなかったそのツケが回ってきているとしか言いようがありません。

     経済財政諮問会議のペーパーの序文には、こう書かれています。
    <新卒時にバブル崩壊や不良債権問題が生じていた、いわゆる就職氷河期世代は、学卒未就職が多く出現した世代(人口規模で約 1700 万人)である。本来であれば、この世代も、景気回復後には、適切な就職機会が得られてしかるべきである。しかし、当時の労働市場環境の下ではそれは難しく、その後も、無業状況や短時間労働など不安定就労状態を続けている人々が多く存在し、現在、30 代半ばから 40 代半ばに至っている。>

     この文章に冷たさを感じるのは、まるで氷河期世代が生まれたのが天然自然現象で致し方なかったというのがにじみ出ているからです。そうではなく、政治の不作為、政府の不作為、そして企業が社会の一員であることを忘れ、コストカットにひたすらに走ったあのデフレの時代のツケをこの世代が一身に背負っているということを認め、社会全体としてどうサポートしていくか、底上げしていくかを考えなくてはいけません。企業は今、分厚い資本の鎧をまとっています。先日金融の専門家と話をしましたが、これから先世界経済の減速や日本の消費増税で景気は間違いなく落ち込むが、しかしかつてのような恐慌的に大手企業が倒産するようなことにはならないと言っていました。それは取りも直さず、企業が分厚い、分厚過ぎる資本をまとっているから。現預金、有価証券、不動産などなど、いざとなったら向こう何年かを支えるだけのものを持っているからだと。
     これらを一部だけでもいいから、氷河期世代のサポートに使えないものか...。自前でOJTをするのはリスクが高すぎるというのなら、基金のような形にしてスキルアップを目指したり、あるいはインターンのような形で採用するなりやり方はあるはずです。50代60代の雇用を保証するためには、若い世代を採りづらいという声はいまだに聞こえてきますが、ウラを返せば50代60代の流動性が全くないから、そのツケを氷河期世代非正規雇用者に押し付けているような構造なわけです。働き方改革をもう一歩進めて、この上の世代の流動性を増すことで、氷河期世代によりチャンスが回るようにするというのも政策的に取れる手かもしれません。それで、非正規雇用者も正社員も給料が下がってしまっては元も子もないので、そこは慎重な目配せが必要でしょうが...。
     いずれにせよ、今でももう手遅れだという声もありますが、だからといってそのまま何もしなければもっと悪くなるのは目にみえています。

     ちなみに、今回指摘されていた氷河期世代が将来社会問題を引き起こすという警鐘は、10年も前にすでに鳴らされていました。


     ちょっと長文なのですが、今読んでも全く色あせない内容。ということは、当時から問題が放置されてきたことを示しています。そして、この報告書の当時20代後半~30代前半だった氷河期世代は、そのまま10年が経過し、30代後半~40代前半。このまま行くと、報告書にもある通り、20兆円規模での生活保護費がこの世代のために必要になることでしょう。その時にも、自己責任論をこの国は振りかざすのか...?今ならまだ間に合うと信じて施策を打つことがこの国の政府・企業の責任ではないでしょうか?
  • 2019年04月19日

    日程面から見る衆参ダブル選挙の可能性

     自民党の萩生田光一幹事長代行の発言が波紋を広げています。

    <自民党の萩生田(はぎうだ)光一幹事長代行は18日のインターネット番組で、10月に予定する消費税率10%への引き上げに関し日銀の6月の企業短期経済観測調査(短観)で景況感が悪ければ3度目の延期もあり得るとの考えを示唆し、増税先送りの場合は「国民に信を問うことになる」と述べた。>

     第2次安倍政権が発足後、総裁特別補佐や官房副長官を歴任し、現在は幹事長代行に就いている萩生田氏。総理側近と言われる人物の発言、さらに「国民に信を問うことになる」と総理でもないのに解散・総選挙にも言及しているだけに、ご自身の考えだけでなく官邸の意向が濃厚にあるのではないか!?という憶測を呼び、何となく浮足立つ雰囲気になっているわけです。一方で、菅官房長官は一連の萩生田発言を即座に否定しています。

    <菅義偉官房長官は18日の記者会見で、10月に予定する消費税増税について「リーマン・ショック級の出来事が起こらない限り、予定通り引き上げる」と述べた。自民党の萩生田光一幹事長代行は同日、6月の日銀の全国企業短期経済観測調査(短観)次第で増税延期もあり得るとの考えを示しており、菅氏の発言はこれを否定したものだ。>

     ただし、この否定も解散風を完全に吹き飛ばすものではなく、官房長官と役割分担で観測気球を上げているのではないか?という疑念がぬぐえずにあります。今年の通常国会が開会する1月の時点でも衆・参ダブル選挙について話題になっていましたが、萩生田氏は今回、「20カ国・地域(G20)首脳会議もあるので、なかなか日程的には難しい」とダブル選を否定したと見られています。G20が6月の28、29日。一方、確定はしていませんが、参議院選挙の投票日と目されているのが7月21日。たしかに、ここでダブル選挙に打って出るのはちょっと日程的に窮屈です。
     ただし、それは「7月21日が投票日なら」という話。ここで日程面から頭の体操をしてみたいと思います。

     まず、今回改選となる参議院議員の任期について。参議院のホームページによれば、今年7月28日とのこと。


    公職選挙法第32条には、参議院議員通常選挙について、
    <参議院議員の通常選挙は、議員の任期が終る日の前三十日以内に行う。>
    と規定しています。7月28日から数えて30日前だと、6月29日。6月29日から7月28日までの間に選挙を行わなくてはならないわけですね。
     ところが、国会の会期と選挙の投票日があまりに近いと選挙に向けてのパフォーマンスが与野党ともに激しくなったり、また与党側が火事場泥棒さながらに選挙に有利な立法をしてしまうのではないかなどの懸念から、この32条の規定には2項に留保が付いています。

    <前項の規定により通常選挙を行うべき期間が参議院開会中又は参議院閉会の日から二十三日以内にかかる場合においては、通常選挙は、参議院閉会の日から二十四日以後三十日以内に行う。>

     今国会の会期は延長がなければ6月26日まで。選挙を行うべき期間のスタート日、6月29日とは3日しかありませんからこの2項の規定が適用となり、選挙投票日は7月20日~7月26日までの間となります。投票日は日曜日にすることが慣例となっていますから、結果として投票日は7月21日に固定されるわけです。延長がなければ7月21日参院選と報道されているのはこうした理由からなのですね。

     ところで、通常国会は1度だけ延長することができます。集団的自衛権の一部容認を柱とする平和安全法制を審議した2015年の通常国会は史上最長の95日間延長を行ったこともあります。ですから、6月26日会期末といくら言っても、それは仮置きされたものに過ぎないとも言えます。ただし、参議院議員の半数は任期満了が迫っていますから、そう長い期間延長することはできません。
     先ほども挙げた公職選挙法32条の規定を踏まえれば、任期満了よりも前に選挙をして新たに参議院議員を選出するのが望ましいのですが、一方で2項の規定を援用すると任期ギリギリまで国会を開会していれば、そこから起算しておよそ1か月後の選挙も法的には問題がないということになります。では、任期ギリギリまで伸ばしてみると、会期末は7月28日。公選法の「○○の日から」というのは初日を算入しないと解されているため、7月29日から数えて24日以後30日以内、すなわち8月21日~27日が選挙可能日となり、その中の日曜日は8月25日となります。衆議院の解散に伴う総選挙は解散から40日以内に行うという規定(公選法31条3項)については、前述の参院選投票日の規定"30日以内"で十分にクリアすることができますから、純粋に法解釈だけで考えれば、大幅延長&延長会期末解散のテクニックを使って8月25日投票日まで後ろ送りが可能です。

    ここで、萩生田発言をもう一度見てみますと、

    <夏には参院選も予定されている。萩生田氏は増税を「やめるとなれば、国民の了解を得なければならないから信を問うということになる」としたが、衆参同日選の可能性については「ダブル選挙というのはなかなか日程的に難しい。G20(20カ国・地域)サミットもある」と否定的な見方を示した。>

     日程的に難しいというのは、G20があり、その直後に選挙戦となると窮屈だと考えるのが一般的な理解でしょう。さらに、6月の日銀短観の発表が7月1日であるということを踏まえ、そこまでに何の動きもなければ6月26日に国会が閉まっていることも考えると、日銀短観発表後、わざわざ解散のために臨時国会を召集するのはいかにも無駄であり、ならばもはやダブルは難しい、解散するにしても秋か?ということになります。
     ただし、こちらもお尻は切られていて、増税延期で信を問うなら、増税予定の10月1日よりも前にやらなくては意味がありません。ダブル選をスキップして、後日臨時国会→解散・総選挙というシナリオもこちらはこちらで日程が窮屈になります。延長なく予定通りに参院選を7月21日に行うとすると、新しい参議院議員の任期のスタートは7月29日。ここから30日以内に臨時国会を召集しなければならないと国会法第2条の3の2項にあります。


     これをギリギリまで引っ張れば8月27日までに臨時国会を召集し、解散・総選挙となりますが、9月の終わりには国連総会などの外交日程や8月末には横浜でアフリカ開発会議(TICAD7)が予定されています。この日程の合間を縫うように衆院選の12日の選挙期間を引くのは至難の業。かなりピンポイントの日程となり、公示前の事前準備も考えると、こちらも日程的にタイトですね。

     そう考えると、手っ取り早くダブル選挙をすればいいという風に戻ってくるわけですが、法的には8月25日投票日までのダブル選挙が可能とは言え、参院選の選挙期間17日間を取るとお盆休みに選挙期間がかぶってしまいますし、告示直前の運動期間は丸々お盆休み中ということになります。世の中の大半が休みに入るお盆中に選挙となると受けが悪いし、何となくの不文律でお盆中は政務はお休みということになっていますから、8月25日まで引っ張るのは難しい。となればお盆前投票日を探ると、8月4日か7月28日と絞られてきます。このうち、G20や日銀短観からより遠いのは8月4日。8月4日に投票日を持ってくるためには、若干だけ国会を延長し、会期末解散をしようと思うと、最も短くて7月4日会期末で30日後の8月4日投票日が可能です。

     そして、この日程を見ると、俄然6月の日銀短観の意味が出てくるのです。今までダブル選挙を判断する材料としては、5月20日発表予定のGDP速報値が言われてきました。この数字はおそらく相当悪いものになると言われていますが、一方で、それだと実際の投票日まで間が空きすぎてしまいます。そこで、その間を埋めるように7月1日発表の6月の日銀短観の存在価値が高まってくるのです。「5月20日のGDPの数字が悪い→最終判断はしないが6月の短観を待ちたいので念のため延長→短観発表→ダブル選挙最終判断」というシナリオもあるかもしれません。

     ただし、そのためには増税の延期法案を国会で通す必要があります。複数の与党幹部は、
    「いざとなれば、数日で国会を通せる」
    とも語っていて、会期を7月半ばまで延長すれば日銀短観の発表を待って増税延期法案を審議にかけ、成立を持って衆議院解散・ダブル選挙も物理的には可能です。あとは、6月26日までの通常国会を延長するか否か...。ちょっとザワついてきました。

    日程シミュレーション.jpg
書籍
プロフィール

飯田浩司(いいだ・こうじ)

1981年12月5日生まれ。
神奈川県横須賀市出身。O型。
2004年、横浜国立大学経営学部国際経営学科卒業。
現在、ニッポン放送アナウンサー。
ニュース番組のパーソナリティとして政治経済から国際問題まで取材活動を行い、ラジオでは「議論は戦わせるものではなく、深めるもの」をモットーに情報発信をしている。
趣味は野球観戦(阪神タイガースファン)、鉄道・飛行機鑑賞、競馬、読書。

■出演番組
≪現在≫
「飯田浩司のOK!COZY UP!」

≪過去≫
「ザ・ボイス そこまで言うか」
「辛坊治郎ズーム そこまで言うか」

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