2020年03月17日

震災9年の浜通り

 震災から9年たった3月11日。

 この日の朝日新聞の東京最終版一面トップの見出しは『避難なお4.7万人 人口34万人減』でした。
 一方、地元福島の新聞、福島民友の一面トップの見出しはというと、『きょう震災9年 桜並木 再生の息吹』
 同じ3月11日を迎えるにあたり、どうしてこんなに違ってしまうのでしょうか?
 政権に批判的な立場からすれば、現政権が手掛けている復興政策が上手く行かない方が、「この政権は復興を成し遂げるにあたり不適切であるから、交代した方がいい」という主張に沿うのでしょう。そして、本当に復興が話にならないほど上手く行っていないのであれば、その主張に正当性が出てきます。

 朝日の見出しにある、震災後人口が減ったまま戻らないという問題。まずは、震災前から東北各県は人口減、過疎化が問題となっていたことを考える必要があります。
 そのうえで、原発事故でしばらくの間町に入ることもできなかった福島浜通りはインフラの整備がされなければ人が帰ってこないでしょう。
 避難指示が解除されたとしても、その時点でインフラがすべてピカピカに元通りになっているわけではありません。そこから人の出入りが自由になるわけですから、インフラ整備もそこから始まるわけです。当初は学校も、雇用の場も買い物の場もそろっていません。近隣地域にそういった施設がある場合はいいのですが、それでも居住圏からあまりに遠いと帰還をためらう要因になります。
 また、就学児を持つ家庭が典型ですが、引っ越しをするタイミングは新たな学年が始まる4月。多くの企業で新年度が始まるのも4月。人事をそこに合わせる企業も少なくありません。
 したがって、3月11日の時点で出てくる人口のデータ、1月か2月のデータとなるでしょうが、それらは4月になると大きく変わる可能性があるわけです。
 「なお○○人」という見出しはその時点としては間違っているわけではありません。が、過度に復興が進んでいない印象を与えるものになってはいないでしょうか?

 私が今年の3月11日に向けて取材した福島県の浪江町を例にとりますと、2017年の3月31日に町の中心部などで避難指示が解除されましたが、震災前2万人あまりを数えた人口は、1200人あまりにまで減っています。帰還率は7%程度と1割に満たない数字です。
 ただ、町を回ってみるとようやくインフラが整ってきた段階。学校は、なみえ創成小・中学校が2018年4月に開校し、次の4月で3度目の春を迎えます。買い物に関しては、先日NHKのドキュメント72時間でも取り上げられたイオン浪江店が去年7月にオープンし、ようやく整いました。雇用に関しては、震災前は原発関係の雇用者が中心でしたが、現在の廃炉作業で往年のような大規模な雇用を生み出すことは期待できません。新たな産業を起こさなくてはいけないということで、町の北側の海沿いに産業団地を新たに整備し、今月完成しました。

<浪江町が同町北東部の棚塩地区に整備している棚塩産業団地の利用が7日、始まる。利用開始を前に町は4日、同団地を報道陣に公開した。
 東北電力から無償譲渡された浪江・小高原発の旧建設予定地を、2018(平成30)年4月に産業団地として整備を始めた。約47ヘクタールの用地に、世界最大級の水素製造拠点「福島水素エネルギー研究フィールド」と福島ロボットテストフィールドの無人航空機滑走路、木材製造工場「福島高度集成材製造センター」が整備されている。>

 東京ドーム11個分という広大な敷地の大部分にソーラーパネルが敷き詰められていて、ここで作った電気で水を分解。水素を取り出し、それをエネルギーとして活用するそうです。雇用を考えると、かつての原発のような人口集約型ではなくイノベーション型の新産業ですから一気に爆発的な雇用を生み出すわけではありません。ただ、こうした未来へ向かっての新産業は目先の雇用だけでなく、今の子供の世代を根付かせることも期待されているようです。

 町の産業振興課・課長補佐の磯貝智也さんは、
「この福島県浜通りで育った子供たち、高校生や高専生が卒業後、地域で魅力ある仕事を見つけられるかどうか。若い世代を出ていかずに、ここにはこんな夢のある仕事があるんだ。そのために勉強しよう、努力しようというきっかけになってほしい。新産業を誘致するのは、そんな狙いもあるんです」
と語ってくれました。10年、20年先の浪江を見据えて今種を蒔き、育てていく。今は小さな一歩であるかもしれません。しかし、そこから千里の道を見通すような関係者の情熱に触れることができました。何よりも、どうせ被災地だからとあきらめるのではなく、ゼロからなんだから挑戦してみようという前向きな姿勢に共感しました。

 こうした前向きな話は、産業団地の開所などが出来事として触れられるだけで、東京ではあまり触れられてきませんでした。一方で、この3月に避難指示が解除された双葉町の様子は写真や映像で大きく報道されました。
 直近まで人も帰れない、9年間自由な人の出入りがなかった町ですから、震災直後の建物の様子が今も残っています。崩れたブロック塀や潰れた屋根、海沿いに行けば津波で流されひっくり返った自動車や1階部分を津波で抜かれてしまった家、倉庫...。
 2013年に警戒区域から再編され、許可を受けた人の立ち入りが認められた直後に取材に入った浪江町がまさにこうした風景でした。このような写真や映像に触れれば、「福島県浜通りはいまだにどこもこうした光景が広がっているのんだ」と思う人がいても不思議ありません。
 しかし、実際は避難指示が解除されたタイミングの違いこそあれど、それぞれの町が再び住民を迎える体制を整えつつあります。
たしかに復興は道半ばです。

 それを、「まだ半ばまでしか来ていない」と嘆くのか、半ばまでの道のりを見つめて「ここまで来た」と言うのか?今までの取材もそうですが、今回の取材でも現地で嘆く人はほとんどおらず、「ここまで来たんだ」、「こんなことやっているんだ」と自分の町を誇らしげに紹介してくれる人がほとんどでした。
 前述の磯貝さんも、
「帰還率を考えると凄く小さい数字のようにも思えるんですが、平成29年(2017年)3月31日に避難指示が解除になって、最初は100人に満たないぐらいだった。そこから3年で10倍以上人口が増えているエリアって日本全国でどこにもない!そうやって明るく考えていくことが大事だと思っていて、この浪江で新しいことがこんなに起こっているんだ。それに携われるんだよと明るい話題をどんどん提供していきたい」
と話してくれました。拙著『「反権力」は正義ですか』(新潮新書)でも書きましたが、困っている人に寄り添う段階から、立ち上がった人に寄り添う段階になったと思います。
書籍
プロフィール

飯田浩司(いいだ・こうじ)

1981年12月5日生まれ。
神奈川県横須賀市出身。O型。
2004年、横浜国立大学経営学部国際経営学科卒業。
現在、ニッポン放送アナウンサー。
ニュース番組のパーソナリティとして政治経済から国際問題まで取材活動を行い、ラジオでは「議論は戦わせるものではなく、深めるもの」をモットーに情報発信をしている。
趣味は野球観戦(阪神タイガースファン)、鉄道・飛行機鑑賞、競馬、読書。

■出演番組
≪現在≫
「飯田浩司のOK!COZY UP!」

≪過去≫
「ザ・ボイス そこまで言うか」
「辛坊治郎ズーム そこまで言うか」

■Twitter
「飯田浩司そこまで言うか!」

■会員制ファンクラブ(CAMPFIREファンクラブ)
「飯田浩司そこまで言うか!ONLINE」

最新の記事
アーカイブ

トップページ