高田文夫のおもひでコロコロ

2023.05.12

第62回『笑いの黄金時代』

「早い 安い うまい」
いつの時代も これは吉野家と私のキャッチフレーズ。若き日ものすごく量産する私の書く台本は「誰よりも速くて 人一倍ギャラは安くて ベテランの作家達より全然うまかった」江戸っ子は何だって早いのが好きだ。「出前と お礼は早い程いい」とは私の金言。しくじったら何でもいいから すぐ謝っちまえ である。以前スタジオに早く入るロケット団を見て私が贈った言葉。「入りは早いが売れるの遅い」今でも私の言葉を大切にロケット団は売れないよう生きている。
報告・レポートも早い方が喜ばれると思いまして。「右朝ふたたび」の会も私の情の深さが伝わったのでしょう。とてもいい会になりました。「22年も経つのに友人の為にこんな会開いて一夜皆で想い出すなんてこと めったにないですよ」「大いに笑って なんだか最後にジーンときたなあ」などの感想。私も調子に乗って ついつい学生時分の話など想い出したり    
大学1年の時の田島(右朝)と私は先輩の命令で千葉の富浦の海へ。ここを金持ちで道楽者の先輩が7月8月借り切り ふたりで民宿のようなものをやっていけ    と。2年間 夏は丸々富浦。何でも器用な田島は何でもできるが私は身体で奉仕するだけ。毎日10名ぐらいやって来る客(ほとんどアホな学生)。
朝5時 自転車で私は畑の中を買い出し。ハクサイやら大根やら魚(干物)やら買ってくると田島がすぐさま それを調理。私が客を起こし配膳してメシ喰わし、海へ送り込んで その間にフトン干して洗濯。午後になると私は浜へ出て「とうもろこし」を焼いて売り、客の為ボートを出し夕方前に買い出し。田島が10人分 夕飯を作り食べさせ その後が大変。「ショータイム」と称して全員に落語をきかせるのだ。私が「爆笑落語」をやって田島がキッチリとした「古典落語」これだけで満足しない客に田島がギターを弾いて伴奏するのだ。これが丸60日間。これが2年間。当然の様にバイト代ゼロ。カコク。「落語の勉強にもなって良かったろ」とは先輩の談。いつも一緒だった田島の事を想い出す。52才での早逝は私にとって辛かった。

何でも早く、せっかちな私は結婚も早く たしか25才の修行中(もうすでにバカ売れしてたけどネ)に結婚。明治神宮で式。両家の親せきやなんかとの食事会は椿山荘で(カミさんが近くの日本女子大の出だったので目白。だからって割引きになる訳でもない)別日に私の仲間とパーティ。赤坂プリンスホテルの旧邸とは粋だね。私の本籍が赤坂だから   。司会が田島と志ん三(のちの志ん五)仲間がとりしきってくれた楽しい若い連中だけのパーティ。終って司会やら手伝ってくれた仲間に何かお礼をと思ったら田島が「トルコって行ったことがないから行ってみたいよな」(トルコとは今のソープランド)すぐ店を探して10人ぐらいがゾロゾロと同じ引出物の大きな袋をもって待合室で並んでる姿は爆笑だったなあ。佐瀬寿一(「およげ!たいやきくん」「暑中お見舞い申し上げます」などの作曲家)も ついてきて前をふくらませていた。なにやら今では とんでもない話だ。カミさんは自分の仲間達と何処かへ行っていた。コンプライアンス的に大問題でしょ。

1988年 落語協会で右朝が真打となり私が「落語立川流」で人気真打となる。翌1989年4月「ビバリー昼ズ」スタート。

終演後 楽屋にて。
右から一之輔、志らく、私、右朝夫人、松村邦洋、佐瀬寿一。ワタナベエンタの吉田会長が横から「高田センセ 次は右朝師の33回忌ですね」だと。あと10年後?その前にオレが死んでるわ!

5月10日には国立演芸場にて「漫才新人大賞」審査員が私、渡辺正行(リーダー)、倉本美津留。MCがロケット団、ゲストが ねづっち。8組での闘いだったのですが結果は   優勝「ミーナ」(三人同意見)受賞後のあいさつでミーナが気のきいたことを。「今から6年前 若手でこの会の裏を手伝っていたんですが その時 高田センセにそっとトロフィーを渡す役が私でした。そのトロフィーが今 高田センセから私に渡されたのです 6年かかって   」だと。帰ろうとすると私の耳元で「ビバリーずっと聞いてます。いつか呼んで下さい」こんな事言われると嬉しくなっちゃうネ。

<仲入り・箸休め>

先日行った「みうらじゅん展」の写真が届きました。見ます?

 

こちらの感性を刺激する「マイブーム男」である。

さぁそして そして 待ちに待った号が完成しました「昭和40年男」6月号は いよいよ「俺たちのお笑い黄金時代」です。表紙は70年代ほんの一瞬だが笑いを独占した「せんみつ湯原」です。このふたりが表紙なんて ありえないでしょう。編集部の力の入れ具合が違います。「せんみつ湯原 ドット30」というとんでもなくスピーディで30分で30曲の歌。その間にショートコントをすべて放り込むという神業の番組があったのです。(私も台本チームの一員でした)

すべてのTVの笑いは80年の「漫才ブーム」から語られ書かれる。その流れの「ひょうきん族」と真向勝負の「全員集合」(ドリフ)だが この特集の目のつけどころが結局素晴しいのは80年の前、70年代は一体何で笑っていたのか 一切インテリ、もの書きからふれられなかったTVの70年代の「笑い」のすごさを取材しまくっているのだ。私がこの世界に入った71年からツービート出現の79年まで一体どれだけアナーキーな笑いをやっていたのか。一家に一冊。たいへんな写真資料と原稿の量。巻頭でいきなり4頁も私がぶちあげている。こんな本が欲しかった。

昔の「笑い」「TV」も大々好きな太田光もクドカンも是非読んで欲しい。君らが大好きだった「三波伸介」やら「せんみつ」「あのねのね」「鶴光」「ずうとるび」「ケーシー高峰」「伊東四朗」「うわさのチャンネル」「笑アップ歌謡大作戦」「ぎんざNOW」「キャンディーズ」他 お腹いっぱいになるくらい てんこ盛り。ここまで70年代を追い込んだ編集部の熱量がみごと。私なんかより全然若くても70年代をこんなに愛してくれる人達って居るんだなと感激。私にも責任があるかもしれないが あまりにも80年から語りすぎていた。雑多でエネルギーだけが渦巻いていた あの時代をこそ、私自身の20代と重ね合わせ もっと語り書かなければいけない。

 

追伸 一応載せておきます。

2023年5月12日

高田文夫

 

 

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。