高田文夫のおもひでコロコロ

2022.07.22

第40回『4本目を待つ男たち』

スシローへ行っても生ビールが無い今日この頃 コロナや熱中症に気をつけつつ・・・前回の「小林のり一SP」反響も良くホッとしてAOKIでスーツを買っちゃった。

「近頃”おもひでポロポロ”楽しみに読んでるんだけどさ」違うっつーの。「一応タイトルは”おもひでコロコロ”だから。コロコロコミックのコロ、いちコロのコロのつもり。このボーダイな資料付き連載は いつか”古川ロッパ日記”のように無駄に厚い本にでもなればいいなと思いつつ書きつづる。昭和・平成の大衆芸能史の1頁になればと本気と書いてマジと読ませながらそう思う。

古い仲間が亡くなって2、3年経つので暑気払いと奥さんや娘さんらと故人の家の近くの新高円寺のギョーザ屋に集り 相も変わらずバカアホTALK。古くからの私の数少ないファンだったら知っていると思いますが「やなか高田堂」をやっていた谷中の「ギャラリー工」のおやじであり、私の日芸落研の1年先輩でありマッキャン博報堂でコピーライターやらプロデューサーをやっていたH氏。下の写真はその時集まった5人。人呼んで「フール5」。”長崎は今日も駄目だった”である。古い仲間と会うのはこの時期だけに楽しい。蜜をさけ写真の時以外は勿論離れて喋ってました。

写真右。せんだみつおの「ナハ ナハ」にあこがれる佐瀬寿一。私の日芸の同級生。その後居候のようなもの。作曲家として「およげ!たいやきくん」「暑中お見舞い申し上げます」「後(うしろ)から前から」。日本一売れた曲から日本一下らない曲までひっそり手掛ける我が悪友。たいやきのアンコがもうパサパサになっていた73才。右から2人目。御存知 私。「プラン75」の選択に悩んでいる。中央。服部氏。私の日芸落研1年先輩。福島出身やたら訛る。学生時代この人の落語を聞いてひっくり返った。訛るだけ訛って「こつとら、江戸(イド)っ子だべ」。「劇団四季」に長いことつとめた。制作やら営業やら。四季で言えば「冬」のような男である。左から2番目。川村クン。私の小学校からの友人、つきあいは長い。私の家(世田谷)の横の小道の薬屋のセガレ。出版社勤務をつとめあげた。普段は奥方と軽井沢の別荘に居る。山登りばかりしている。コロナ対策もバッチリ。「手塚治虫全集」など作り いつも贈ってくれた。1番左 飯田クン。H氏のマッキャン博報堂の後輩。CMディレクター。一気に酒をあおって私に「いやあ あれ程緊張した事はなかったですよ」に私「なにが?」「ビールのCM覚えてます?アサヒのZ。スタジオにたけしさんと高田さんが入ってきた時 あがっちゃって何も喋れませんでしたよ」たしかにスーツ姿のサラリーマンで たけしと私が「同僚、ヨッ今夜もはしご酒」なんて言って はしごを登っていくんだった。「そっそれじゃ ほ、ほんばん行きまーす なんて声 上ずっちゃって」そりゃそうだ。1番威勢のいい時代のふたりに演出なんてつけられる訳がなかった。皆なにいろんな想いをさせてたんだなぁ。プライベート過ぎる写真ですが記念に載せておきました。すでにワクチン4本目を打ち終えた私と4本目を待ちわびる4人の高齢者でした。ちなみに7月16日のことです。

そんな時 私の所へ手紙が。「とうとう後期高齢者になった」とボヤくのは昔日刊スポーツでバリバリやっていたKさん。渡哲也の後輩で空手をやっていたのが自慢。今はボンヤリ。いつもは「最近観た映画」「おすすめの舞台」「面白い本」などいっぱいレポートしてくれて いい私のブレーンぷりだったのが「体も弱り 表にも出ず おすすめができません。逆に私が週刊文春で読んだ高田氏おすすめのドリフターズの新書を読んでみます」。こんな日常である。

「ドリフターズとその時代」(笹山敬輔・文春新書)いかりやと志村の確執まで書き込んでみごと。”マックボンボン”時代の志村を書いたのは偉い。

「放送作家ほぼ全史」(太田省一・星海社新書)私のような当人すらあやふやだった歴史をきちんと整理して書いてくれた。パイオニア三木鶏郎から60年代の青島幸男 永六輔 70年代歌謡番組全盛 阿久悠 80年代バラエティの高田文夫 秋元康 90年代ドラマの時代の三谷幸喜。高田文夫に憧れた宮藤官九郎なんて章もあってYouTube時代の作家まで。もう1度読み直します。21日発売の文春に著者インタビューがあった。

「昭和史講義・戦後文化篇(下)」(筒井清忠編・ちくま新書)このシリーズが本当勉強になるんだわ。この(下)では森繁の「社長シリーズ」やら加山雄三の「若大将シリーズ」「東映時代劇」「月刊平凡」「スタジオジブリ」など戦後の大衆文化・芸能がミッチリ学べる。

 

<追伸>「西村賢太お別れの会」で配られた その「人生と名句」。出版社の連中がやっているから仕事が 丁寧。巻紙のように横に長いし裏もあるのだが ほんの一部紹介。

みんな なぐられても愛し方がハンパではない。そしてCOTOGOTOBOOKSの木村さんがこさえた「追悼文集」77名の文が集まった。みごとな完成度。私も玉袋も勿論書いているが講談社の柴崎の文も良かった。

『(前略)目つきが異様に鋭く、作品の感触と相俟ってその凄味に圧倒された。その時は、作品の感想などを伝えたと思うのだが、なにを話したのかはあまり覚えていない。

その後、一時、講談社とは疎遠になったようだが(この経緯はよく知らないし、氏にとってはよくあることだ)、再会したのは、高田文夫さんのラジオ番組だった。

芥川賞をとったばかりの西村さんがゲスト出演することになり、高田さんが気を遣って、「小説現代」という雑誌の編集をしていた私をスタジオに呼んでくれたのだ。

あれ、なんでここにいるの?という顔をされたことを覚えている。

   江戸っ子なんだから、「小説現代」で東京についてのエッセイを書きなよ。と声をかけたのは、私でなく高田さんだった。

その連載は、「東京者がたり」として始まった。ちなみに、当初、私は「東京ものがたり」というタイトルを考えていたが、それを「東京者」としたのは、評論家の坪内祐三さんだった。

こうして西村さんとの仕事が始まった(後略)』

名エッセイ集「東京者がたり」はこうして私と柴崎と坪内祐三の手までわずらわして賢太の手から誕生しているのだ。感無量だ。世田谷の話をやたらしたがってきた坪内ももういないんだもんな。

 

まだまだ紹介したい本もあるけど また次回。

 

2022年7月22日

高田文夫

 

 

 

 

 

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筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。