高田文夫のおもひでコロコロ

2022.07.14

第39回『喜劇人の子』

「安倍前首相撃たれる!」の衝撃のニュースが日本列島を駆けめぐっている最中に(7月8日)私の所へ小さな訃報。「小林のり一(71)突然死去」。私が此の芸能界で最も尊敬し愛していた喜劇人であり大演出家(森光子の「放浪記」など)でもあった江戸っ子 三木のり平の長男がのり一なのだ(子供は一男一女である)。のり平は日芸の大先輩でもあり晩年は気難しすぎて子供どころかスタッフも誰も近寄れなかった。奥様に先立たれ四谷のコンビニでお弁当を買っている姿を悲しく見た事があるので 好きな人のふところへはすぐに飛び込んでいける体質の私、気がつくと晩年の2年 のり平先生は私とだけ飲み語った。荒木町のスナック(C)やら四谷の(ホワイト〇〇〇)で飲んだ(森繁氏の話、たけしの話 日本一深い芸談だった)。亡くなった時、「ビバリー」が終って四谷の家へ駆けつけると息子の のり一が「結局 僕が怖がって逃げまわっちゃったから 高田さんの方がお父さんとたくさん話してるネ」「お父さん いつも枕元に高田さんが書いた”笑うふたり”置いてあった。自分が載ってるから嬉しいんだろうネ。何回も見てた。お父さんの子守り・・・ありがとネ」と照れくさそうに言った。のり一と私 しみじみ遺体を見て「このまま焼いちゃうの惜しいネ。ふたりでかついで”かんかんのう”か」「らくだ(落語)じゃないんだから」と笑った。いま調べて分った、のり一は享年71だが のり平先生は74歳での死去だったんだ。今の私と同い年。あの風格、教養、舞台知識    大きな人だった。(1999年1月25日 のり平死去)

ふわふわした一生を終えたのり一。父の存在のすごさ、目に見えぬプレッシャーも すごかったろう。だけどいつもニヤニヤ笑っていた。亡くなる前の晩も 私が昨年「のり平喜劇」を復活し公演させてもらった浜町明治座の担当者H氏と偶然新宿ゴールデン街でのり一夫婦が会い一緒に飲み「昨年は のり平芝居を明治座でありがとう」「高田さんが色々やってくれたから」と のり平と私の話をして のり一は家へ帰り眠り そのまま起きて来なかったらしい。明治座のある浜町、色っぽい所で生まれたのが父 のり平。息子の のり一は のり平公演のある明治座の楽屋を小さい頃からいつも遊び場にしていた。子供のころから日本一の喜劇を見て聞いていたから目も耳も こえるだけこえていた。もう私と「最高の喜劇人・三木のり平」を語れる人が居なくなった。話の分る人が もうみんな居なくなっちゃった。

下の写真は私が編集長を務めた「笑芸人」(白夜書房)。1999年冬号 VOL.1より(この雑誌は充実の17号までつづいた。いい仕事っぷりである)のり平先生の写真の前で若き日の私と のり一。

四谷にあった のり平先生の御自宅。地下に稽古場があるいい家。志ん朝師も真似て矢来町に地下に稽古場のある家を造った。

2020年 珍しく のり一がマジな顔で「お父さんのこと全部語っておこうと思うんだ。戸田学さんがまとめてくれるので・・・高田さんは帯にキチンと原稿書いて。お父さん喜ぶから」と出来たのが下の本。見事な完成度である。

帯文をよーく目をこらして見てほしい。私がキッチリ長文を書いているのだ。

 

のり平、人生最後のボトル。いつもふたりでこれを飲んでいた。秘密のスナック(C)である。入門してきたばかりの談春・志らくに酔いつぶれたのり平先生を背負わせて家までとどけさせたことがある。フトンを敷いて寝かしつけてもどってきた。人生の想い出の宝物をこさえてやった。志らくは感動に涙ぐんでいた。あれ以上の想い出はないだろう。

 

三木のり平 明治座奮斗公演台本(昭和51年・1976年)。酔った のり様は言った「ボクは志ん朝と高田クンが好き。二人共坊ちゃんだから アッ僕も坊ちゃんだけど・・・どんなに悪口言っても下品にならないからいい」これは志ん朝が使用した台本。直筆で<志ん朝>とある。中には自らの手で直しも入っている。

 

名古屋名鉄ホールでの大入袋。十八番「灰神楽(はいかぐら)の三太郎」である。

 

なにはなくとも江戸紫。若き日よりアニメのキャラクターは のり様自ら描いた。自画像なのだ。「日芸」の「美術科」なのだ。舞台美術家をめざしていたらしい。誰ひとり持っていない桃屋本。

ちゃっかりと父が亡くなってすぐに継承したCM。新作アニメの声はずっと のり一がやっていたのだ。声だけはそっくり。(99.2.26のスポニチ)

 

<追伸>

最近意外と「高田さんのもの もっと読みたいんですけど」など言われる。大衆芸能の伝道師(統一しない方)としては さまざま。今回の のり一の他に今出てる「月刊Hanada」8月号では連載の「月刊TAKADA」で「笑点」の56年史を面白く書いてます(4頁)。14日(木)に出た「週刊文春」では1頁「ドリフターズ」について珍しく書いてます。笹山が「ドリフターズとその時代」という新書を出したので。「週刊ポスト」では鎌倉殿の13人など。

<追伸その2>

「安倍さんの増上寺」の前のホテルで「西村賢太お別れの会」(7/11)いい会だった。ワタナベエンタの会長・社長夫婦と玉袋筋太郎らと献杯。玉が元気そうで嬉しかった。玉のあいさつ「ケンタ先生とは よく飲み ケンカをし 人の悪口をよく言い合ったものでした。特に今朝当選した小っちゃいのの悪口はすごかったです」これには会場 不キンシンにも大爆笑。

ケンタ先生 無事天国へ。

 

2022年7月14日

高田文夫

 

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    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。