高田文夫のおもひでコロコロ

2021.10.11

第10回『そして三波伸介』

「ブログ圧巻ですね」の声しきり。「何でいきなりこの年令で始めたんですか」の質問がサンタク(沢山)。この節 私の友達、同世代の連中が次々死んじゃうんだよネ。前にも書いたけど私の仕事ってのは「送り放し」、放送したらそれで終わりという宿命だから、なにか記しておかないと・・・。親せきも親も皆 出版社をやっていたという血がそうさせるのか文字で残しておかないと・・・と思い、親せき中が出版関係なのに私1人が放送界へすすんだので浮いてはいた。『ラジオビバリー昼ズ』が始まってからのここ33年間なんて誰ひとり記録も記憶もしてないでしょ。今書き進めてるのは そのもっと前の放送界の話だから自分で記しておかなかければ大衆芸能・放送文化のあれこれなぞ誰も気にも留めない。誰もほめちゃくれない。消えてった小さな番組、小さなタレントほどメモっておくと後日、これが大変な役・・・にも立たない。何故 書き記しているのか「未練の断捨離」かな。「働きづくめだった青春への決別」か。そんな格好いいものでもない。「過去の原稿(アイディア)へゴン攻め」。若い人達にどうでもいいような芸能、不要不急とまで言われた文化を、少しでも分かってもらえたらという送りバント的な業界の先輩面かも。言ってみれば「キャリアのセルフカバー」か。「想い出荷物のアリさん引っ越しセンター」か。

出てくる人の話が古いので若い人達には分かりづらく喰いつきにくいのかもしれないが一寸知ってる芸能好き達には「たまりまセブン」らしい。ホラッ出ちゃった。「たまりまセブン大放送」。兎にも角にもニンッ。伊東四朗なら分かるでしょ。現存する喜劇人No.1である。60年前は何をしていたのか。それは知らない?そう「てんぷくトリオ」という3人組の人気コントグループのひとり。トリオのコントって今で言えば・・・「東京03」のようなもの。「ジャンポケ」ではない。トリオの最若手が伊東四朗でリーダーは 私が可愛がられ仕事もいっぱいした三波伸介。私をセンセーと呼んだ最初の人。ヒットフレーズが「びっくりしたなぁ もう」。もう1人が戸塚睦夫。井上ひさし作のコントで売れに売れ各番組からひっぱりダコ。若くしてメンバーの戸塚が亡くなり「てんぷく集団」として活動もしたが、三波・伊東は各々の仕事へ。伊東と小松政夫とのコンビでの「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」は あまりにも有名。「電線音頭」である。一緒に踊っていたのが東MAXの父、東八郎。キャンディーズ。三波は芸ごとに造詣が深く、あの貫禄あの押し出し。かっぷくの良さ、ドスのきいた声の良さ。台詞まわしの滑舌の良さなどで 文句なしの「座長」だった。

80年代にBIG3(たけし・タモリ・さんま)がブラウン管に登場する前、70年代は間違いなく3大座長がTVの中に居た。私が言うのだからほとんど・・・間違いかも知れないが。それが「三波伸介」「萩本欽一」「(ドリフの)いかりや長介」である。その時代その現場に居たのだから間違いはないと思う。三波伸介。NHKで「お笑いオンステージ」”御存知てんぷく笑劇場”と”減点パパ(ファミリー)”で構成されていた。日本テレビでは「笑点」の司会。緩急の効いたつっこみ、段取りの手ぎわ良さ それはもう見事であった。昇太に一度 生で見せたかった。そこでフジTVでも三波で何かやりたいという話になり「スターどっきり㊙報告」(昭和51年4月1日~54年)のメインMCを依頼した。スタッフは疋田・渡辺・井上という「夜のヒットスタジオ」の名物トリオ。構成の私とで色々考えNHKでは「座長」、「笑点」では司会。何か役を与えた方がやりやすいだろうと三波を「キャップ」とした。レポーターのメンバーは私好みで当時の若手お笑い陣、小野ヤスシ・宮尾すすむ・青空球児ら。ダン池田、夏木ゆたか等も居た。”モコ・ビーバー・オリーブ”で売れた高橋基子も居たっけ(この三人組はLFの「パンチパンチパンチ」で人気)。番組では現在につながるあらゆる定番のどっきりを試みた。「寝起きシリーズ」「瞼の父シリーズ」「ヤクザシリーズ」「ブーブークッション」「ジェットコースター」タレントを乗せカメラマン逆向きで撮らえる。それを編集してマンボのリズムで踊らせる。MAといって編集の時、台本を書きながら渡辺Dと録音室へ入り「ミ・ミ・ミヤオは飛ンデイケーッ」など声入れをしていた。何でもやる作家なのだ。郷ひろみ、西城秀樹、桜田淳子、山口百恵らトップアイドルは勿論どんなタレントでも「夜のヒットスタジオ」とのバーターとなればプロダクションはどっきりを拒否できなかった。文句ひとつ言わせない こわもてのスタッフだった。プロデューサーの疋田は日大空手部。私の先輩だった。「とりあえず1本目を何にするか」いつも会議室で煮詰まっていた。ふと私が「山口百恵のパンツ見たいな」とつぶやいたら一斉に「それだ!!」どこが「それだ」なんだ?どうやったら合法的にカメラで撮らえることができるのか。そこで皆で考えついたのが今日(こんにち)までにつながる名作「寝起き」である。大磯のロケだとホテルに泊め スタッフとマネジャーで打ち合わせ 勿論ホテルもグルで・・・スヤスヤ眠っているアイドル。そこへホテルからもらった合鍵で入っていくレポーター。これは あの当時としては大発明だった。第1回放送ラテ欄には「山口百恵の寝起き」とあって視聴率ドッカーン。いま若い連中が作っている”どっきり番組”は ほぼ我々のパクリである。言い方が悪ければオマージュである。昭和54年タイトルもOA日も木曜から金曜となり最終回。Vをタップリ用意して基本的に生放送。前日にマネジャーに台本を渡しキャップに届けてもらうのだが下にあるのは最終回。表紙に私あてにサインをしてくれる三波伸介。私もラストだと思い出演者とスタッフだけが笑うようなラフでくだけた台本の書き方。それだけいいチームワークだったという事なのだが・・・頁をめくっていくと、その私の原稿に逐一つっこみを書き込んでくれる三波伸介なのだ。「減点パパ」で知ってる通り絵もうまかったが、いたずら書きの字も達筆。涙が出てくる。懐の深い人だった。

これだけの台本、書いた私も31歳で、すごいと思うが ここまでつっこんでくる三波伸介が優しい。わたしは「芸」というものを三波からたたきこまれた。そして作家への思いやりというものも教えられた。前日に台本が届くと1枚の少し小さめの画用紙みたいなものに赤ペンで すべて自分の台本の中の台詞を写してくるのだ。「こうすると巨匠(私)の言葉が頭に入るんだよ」と言われたときは 嬉しくて絶句した。

東京12チャンネル(テレビ東京)でも「ゴールデンで三波伸介を」と  。プロデューサーは常田久仁子。フジテレビを辞めフリーになったばかり。伝説の女傑プロデューサー。あの「欽ドン」で有名。欽ちゃんも著書で「芸能界の母」と書いている。ディレクターは林良三。先日亡くなった すぎやまこういちとCXで「オールスターかくし芸大会」を発案。林春生のペンネームで「サザエさん」やチェリッシュ、欧陽菲菲などの作詞家としても高名。このスタッフと三波伸介とで大久保の旅館に集まり番組立ちあげのアイディア会議をしたのだが なかなかキャラも浮かばないところへ明け方いきなり それまで黙っていた三波がサラサラと描いた。ハゲ頭、長グツ、手ぬぐい、チョビヒゲ、メガホン!「これで校長はどう?巨匠どうかネ」「教室セット作りましょう!」それが下のイラスト「三波伸介の凸凹大学校」(昭和52年~57年)の誕生である。

これはイラストレーターの村松正孝クンが私の為に描いてくれたもの。これで三波は「座長」「司会」「キャップ」「校長」という4つの役を楽しむことになる。三波伸介の絵のセンスを生かし「エスチャー」コーナーやら「教室コント」。アシスタント岸本加世子、ずうとるび、金井克子らがレギュラー。途中から若手で売り出し中の「ツービートを入れてほしい」とおそるおそる言うと三波は「たけしか(少し考えて)いいだろう」とOKしてくれた。「巨匠がやりやすいならいいよ」。夢だった三波、東八郎、たけしの”東京三大突っ込み”のコントを書き、客前で演じてもらった時は嬉しくて嬉しくて・・・山野ホールのドアを蹴っとばした。ここから少したって三波は逝き「東京の笑い」は たけしの時代へとバトンタッチしていく。その日は私が地方ロケで夜 帰京し羽田空港に着くとテレビから「凸凹大学校」が流れていた。嬉しくながめているとそこへテロップが突然流れた。「三波伸介さんは 本日の〇時〇分 亡くなりました。ご冥福をお祈り致します」ガーン その場へ へたり込んだ。三波伸介 享年52。あまりにも若過ぎる座長の死だった。後日、日記をみせてもらったら晩年の2年間、「高田がこう云った」とか「高田のシャレ」などほとんど毎日のように私のことが短く書かれていた。余談だが三波さんの死去から10数年たち自分で立ちあげたライブ「我らの高田笑学校」という命名は「三波伸介の凸凹大学校」への私だけのオマージュなのである。三波伸介がやった「校長」を私がその遺志を継ぎ「先生役」をやったという訳だ。三波はずうとるび、ツービートという生徒に手を焼いたが私は浅草キッド、松村邦洋という生徒に手を焼いた。

同じ頃 私には教室という設定でバカ当たりした番組がある。山城新伍がMCで辛口ジョークが毎週さく裂する「笑アップ歌謡大作戦」(昭和53年~57年)。テレビ朝日で日曜昼やっていたのだが教室トークだけ独立して最後は火曜夜8時という大ゴールデンへ。中尾ミエ・和田アキ子・研ナオコ・相良直美・由紀さおり等が大喜利よろしく答えるのだが最後は「あのブス」やら「くさい」やらの大ののしりあい。爆笑ゴン攻め。同時期にフジテレビで山城新伍の「アイアイゲーム」という”チョメチョメ番組”のおもしろ問題も作っていた。昭和54年~60年。若手作家でコツコツ問題を作っていたのが 今や本物の巨匠三谷幸喜。「笑アップ」の方では私の下で大喜利を考えていたのが今や本物の巨匠 秋元康。みんな私をふみ台にして大きくなっていく。

爆発的な「漫才ブーム」が起きるのが昭和55年。「ビートたけしのオールナイトニッポン」が56年元日、その秋からレギュラー化するのが「オレたち ひょうきん族」この笑いの夜明けが来る直前のテレビ界で私は本当に乱作していた。三波伸介、山城新伍の番組ばかりでなく日本テレビで「スター誕生」が当たれば即パクりCXで「君こそスターだ」。おりも政夫のMC。ここから「異邦人」の久保田早紀、高田みずえ、林寛子が出た。欽ちゃんが少し休みたいと言うので「全員集合」のウラで急拠伊東四朗、おりも政夫、ヒゲ辻らでそのまんまのタイトル「がんばれピンチヒッターショー」(昭和52年)がんばってみたのだが・・・。坂上二郎の初MCで「さあどうする!?」というのも立ちあげたが3ヶ月でどうしようもなかった。番組が  「とびます とびます」だった。勝手に「民謡ブームが来る」と嘘八百言い出しNHKの「昼のプレゼント」やらCX「火曜ワイドスペシャル」NTVの「木スぺ」などで民謡特番連発。私が売り出す為につけたコピーが「民謡界の山口百恵・金沢明子」。これは少し喰いつかれた。MCの玉置宏さんからは絶賛された。「巨匠、いいコピー考えたネ。笑顔でこんにちわ」。原田直之なんていう達者な民謡歌手も居た。金沢明子は私と民謡番組をやっていたディレクターのマヌケなMと結婚したが 新婚だというのに私がMを台湾につれてったりして、もめて離婚した。さっきの「どっきり」のディレクターWも麻丘めぐみと結婚。軽井沢で式。渋々、友人代表として私と小野ヤスシが列席。これも即離婚。左ききでもなんでもなかったし・・・。書き出したら止まらないので今日はここまで。

2021年10月11日

高田文夫

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。