• 2015年06月24日

    医療・介護改革の怪しさ

     安全保障法制については洪水のように時間、紙幅を割いて報じられていますが、その裏で様々なことが進行しています。財政健全化に関する議論もその一つ。報告書が出たり、会議が開かれるとその時には報じられますが、その後第二報・第三報がなかなか報じられず、結果議論が深まらないまま法律が通ったり、方針が決まったりしています。最近は医療費をどう減らすかというのが主なターゲットになっていて、先日はこんなニュースが出ました。

    『政府、病院ベッド数の削減要求 医療費抑制』(中日新聞 6月16日)http://goo.gl/8MlPLe
    <政府は十五日、有識者が医療費適正化を議論する専門調査会を開き、二〇二五年時点での望ましい病院ベッド(病床)数に関する報告書を発表した。最も低い推計でも病床が過剰になるとして四十一道府県に削減を求める内容で、削減幅二割以上が二十七県、うち三割以上が九県に上った。全国では百三十四万七千床(一三年)から一割余りの約十五万床を減らし百十九万床程度を目指す。

    ベッドが過剰だと不必要な入院や長期療養が増えて医療費がかさみやすい傾向にある。病床の地域格差を是正し、年約四十兆円に上る医療費の抑制を図る。>

     有識者の方々の強い問題意識として、ベッドが過剰だと不必要な入院や長期療養が増えて医療費がかさみやすい傾向にあるというところ。とくに、長期入院しがちな「療養病床」について特に削減することに重点を置いてこの数字が出てきました。では、今まで入院していた人はどうなるのかというと、在宅医療や介護施設で面倒を見るという「地域完結型」の医療が提言されています。

    『医療・介護情報の活用による改革の推進に関する専門調査会 第1次報告』(首相官邸HP)http://goo.gl/Q0y3JI

     在宅と施設、両方を並行して進めて行こうというように報告書では書いていますが、一方で「社会保障費を抑えなくては財政再建が出来ない!」という議論がしきりに言われています。ということは、2025年までのあと10年で介護施設をどこまで増やすことが出来るのか疑問も残るので、結局在宅介護中心に徐々に移っていこうという方針のようにも思えるわけです。

     さらに、「最期は自宅の布団の上で」という感情がこうした議論に絡んでくるのでややこしくなります。私だって、出来ることならば住み慣れた自宅で人生を全うしたいと思うんですが、一方で在宅介護の難しさも冷静に考えなければなりません。今年2月にはこんな統計調査が出ています。

    『「介護に疲れ...」 高齢者虐待、7年連続で最多更新 認知症患者8割超』(2月6日 産経新聞)http://goo.gl/vEqft2
    <特別養護老人ホームなどの介護施設で平成25年度、職員による高齢者への虐待が確認されたのは前年度比で約43%増の221件で、7年連続で過去最多を更新したことが6日、厚生労働省の調べで分かった。被害者の8割超が認知症だった。家族や親族による高齢者への虐待も1万5731件と3年ぶりに増加。厚労省は「職員による認知症への理解不足があるほか、家庭では1人で介護している状況での虐待が目立つ」と分析している。>

     この記事は産経新聞らしく、「家族で看取るのが当然」という保守的な家族観があるので施設職員による虐待が原稿冒頭に来ていますが、本当の問題は施設介護と在宅介護での虐待件数の圧倒的な違い。

     施設介護の221件に対して、家族や親族による虐待は1万5731件。

     実に2ケタの違いで在宅介護の方が多くなっています。厚労省も「家庭では1人で介護している状況での虐待が目立つ」と分析している通り、在宅介護は介護する側には厳しい負担が課せられます。近年は介護休暇などの制度も徐々に整備されてきていますが、ただでさえ人手が足らなくなってきている昨今、働き盛りの現役世代を介護に取られることが果たして国民経済全体にとってどういう影響があるのか?それよりは現役でバリバリ働いたうえで社会保障費・税金をきちんと納めた方がむしろ社会保障全体の制度を維持する上でいいのではないか?あまりこういったことは議論されません。

     また、専門家によれば、在宅介護は介護される側にとって決してプラスばかりではないそうです。たとえば、認知症の場合、人間関係の悪化が症状を悪化させることがあるそうで、先ほどの産経新聞の記事のような虐待とまでは行かないものの、介護を負担と思う家族との心理的な軋轢が認知症を悪化させる事例も報告されています。また、施設と違い常時他人と触れ合う機会を持つことが難しい環境の中で外的刺激が少なくなり、結果として症状が進んでしまうことも指摘されていました。

     無駄な病院のベッド数を削減すること自体を反対するものではありませんが、それに伴う負担を在宅という形で押しつけるならば、これは「改革」ではなく「改悪」と呼ばなくてはなりません。いくら財政が厳しいといっても、社会保障費の膨張そのものが悪ということではないでしょう。必要な介護施設を作ることで社会保障費は膨らむかもしれませんが、それにより現役世代の「稼ぐ力」を伸ばすという考え方も必要なのではないでしょうか。
  • 2015年06月16日

    憲法9条は我々を守ってくれるのか?

     安保法制議論は国会内のみならず、先週末には国会外でも大きく盛り上がったようです。

    『「戦争させない」安保法制反対デモ 国会周辺を取り囲む』(6月14日 朝日新聞)http://goo.gl/tefdgf
    <国会で審議中の安全保障関連法案に反対する集会が14日、東京・国会周辺であった。呼びかけた市民団体によると、約2万5千人が参加。「戦争法案成立反対」「9条を守れ」「安倍政権の暴走止めよ」などと訴え、国会議事堂の周囲を取り囲んだ。>

     今回の安全保障法制に反対の人たちの主張は、記事の中のプラカードの描写にある通り、「戦争させない」「9条壊すな!」。すなわち、「せっかく今まで守ってきた平和憲法を解釈改憲するような法制で、日本は戦争する国になってしまう。」というようなものです。今回の反対デモに加わった有識者もそうした主張をしています。

    『「戦争させない」人の輪 国会包囲の動き次々』(6月15日 東京新聞)http://goo.gl/KoiXKD
    <評論家の佐高信氏は「今まで私たちが外国へ行く時のパスポートは平和のパスポートだった。それが戦争のパスポートに変わろうとしている」と危機感もあらわ。野党の幹部も登壇し、「廃案を求めていく」と口をそろえた。>

     今までの日本は、憲法9条によって守られた平和の国だった。だから世界中から平和の国だと信頼されてきた。今回の安保法制はその信頼を根底から崩す、危険で後戻りできないものなのだ。

     仮にそうだとしたら、日本は戦後70年間、独立を回復してからは63年余り、憲法9条によって守られてきたということになります。これだけ暴力が吹き荒れる世界の中でも、様々な勢力から一度も狙われなかったということになります。本当にそうでしょうか?歴史は彼らにとって不都合な真実を突きつけています。

    『ロケット弾1発、陸自宿営地内に着弾 イラク・サマワ』(2005年1月12日 朝日新聞)http://goo.gl/po2V7L
    <イラク南部サマワで11日午後7時(日本時間12日午前1時)ごろにあった陸上自衛隊宿営地への攻撃について、防衛庁は12日、ロケット弾1発が宿営地内に着弾していたと発表した。信管はついていたが爆発はしておらず、隊員や施設に被害はなかった。
    (中略)
    陸自を狙った砲撃は9回目。昨年10月22日の攻撃では、宿営地内で信管が抜かれた107ミリロケット弾を発見。同31日には食料品倉庫を貫通した。>

     これは自衛隊がイラク戦争の後、サマワに派遣された当時の出来事です。結局派遣期間を通じて、自衛隊の宿営地やその周辺が何者かに攻撃されたケースが14回あり、23発が着弾、そのうち4回は、宿営地の敷地内に着弾したとされます。日の丸がはためく自衛隊の宿営地に対して、1度ならず14度も攻撃があったのです。当時も今と同じで、憲法9条は一言一句変わらずに存在していました。イラクのテロリストは、憲法9条がある我が国を現に襲っていたのです。この時は運良く、本当に運良くロケット弾の信管が作動しなかったので事なきを得ましたが、爆発していたらどうなっていたか。憲法9条があるから我々は狙われないんだという人は、こうした事実をどう説明するんでしょうか?

     そもそも、世界の隅々まで日本国憲法9条が浸透しているなんてことがあるんでしょうか?逆を考えれば、我々は他国の憲法をどこまで知っているのか?私は同盟国アメリカであっても憲法何条に何が書いてあるのか即座に言うことはできません。相手がよほど日本のことが好きならまだしも、普通の人は他国の憲法に関してはその程度の認識ではないでしょうか?

     先日沖縄で取材した自衛隊員たちはこう言っていました。
    「今更自衛隊員のリスクとか、何言っているんだと。現にイラクにもアフガンにも、そうしたリスクを背負って行ってきたんだ」

     さて、安保法制の審議が滞りを見せることで、誰が喜ぶんでしょうか?こんな小さなニュースがありました。
    『安保法案抗議「理解できる」=中国』(6月15日 時事通信)http://goo.gl/6MGWwN
    <中国外務省の陸慷報道局長は15日の記者会見で、日本の安全保障関連法案に抗議する集会やデモが東京で行われたことについて、「多くの日本国民と良識ある人々は平和憲法を守りたいと考え、日本政府の軍事安全政策の動向を強く警戒している。(抗議は)理解できる」との考えを示した。
     陸局長は「日本の軍国主義は先の侵略戦争で中国とアジアの国々に深刻な災難をもたらした。多くの日本国民もだまされ、戦争の被害者となった」と強調した>
     この方、4月に報道局長に就任し、初めて臨んだ記者会見でこうした発言をしたそうです。自国の政府への異議申し立てに対しては徹底的に抑える中国が、日本国内の安保法制反対には理解を示した。これが何を意味するのか?私はむしろ、安保法制の重要性を浮き彫りにしている気がします。
  • 2015年06月09日

    国防の最前線

     先週末、沖縄に出張してきました。その目的は、国防の最前線を取材すること。すなわち、海上自衛隊の東シナ海警戒の現場を、P3-C哨戒機に搭乗取材することでした。

     沖縄本島には、陸・海・空の自衛隊が集まっています。陸上自衛隊の第15旅団については、去年第101不発弾処理隊を取材し、特番を作りました。一方、東シナ海哨戒を担っているのは、海上自衛隊の第5航空群。その中の第52飛行隊に取材をしました。

     かつては対潜哨戒機と呼ばれたP3-C。冷戦当時は北海道に多く配置され、オホーツク海の旧ソ連潜水艦をマークし続けました。旧ソ連の戦略原潜がオホーツク海から外に出ることを許さなかったことで、米ソ冷戦の終結へ一役買ったとも言われています。その当時から海の警備の要であったP3-C。今は波風高い東シナ海の警戒を担うべく、那覇基地に10機以上が集結しています。

    P3-C那覇空港.jpg
    那覇基地に並ぶP3-C哨戒機

     まず機内に足を踏み入れて感じたのは、意外と狭い。そして、人が多い。フライト前の打ち合わせで横一列に整列するとこんなに人がいるんだと驚いたんですが、それぞれが持ち場に就くとさらに驚きました。10人以上がそれぞれの持ち場についているんですが、レーダーを担当する要員やあらゆる無線通信を担当する要員などが、ある人はじっとモニターを凝視し、ある人はヘッドホンに入ってくる音に耳を澄まし、ある人は電信のやり取りを続けています。それぞれが司々で代わりはなく、一人しかいません。

     全員が「ラストマン」。

     最後の砦たちが集まって一機の哨戒機を機能させています。一回のフライトで8時間から9時間飛ぶということで、その間彼らの能力そのものが国を守っているわけです。そのプレッシャーたるや、想像するだけで胃が痛くなりそうです。

    P3-Cコクピット.jpg
    P3-C哨戒機のコクピット。1960年代の設計のまま、ご覧の通りのアナログさです。


     航空機で海上を哨戒するということで、肉眼でじっと監視しているのかと思ったんですが、レーダーやソナーなどを駆使していることが分かります。レーダーで反応を見、ソナーでスクリュー音を聴いて、音の波形でどんな船舶か判断するそうです。私もスクリュー音を聞かせてもらいましたが、素人にはそのわずかなスクリュー音を聴くだけでも一苦労。さらにそれを聞き分けるというのは一朝一夕でできるものではありません。まさに職人芸。そうして潜水艦を発見した時には、「いた!」と、隊長曰くまさしく「吠える」そうです。そして、一度見つけたら二度と逃さない。もし逃してしまったらどうなるか?恥ずかしくて基地に帰れないと隊員は口を揃えます。

     中国との間でせめぎあいが続く東シナ海。隊員に対して隊長が口を酸っぱくして言い続けているのは、「国際法を熟知し、遵守せよ」ということ。彼ら中国は国際舞台に出てきたばっかりで立ち振る舞い方を知らない。だから、無茶な膨張をしたり国際法を自分のいいように解釈して行動したりする。それに対して国際法を教えるのであれば、自分たちが国際法に則って行動しなければならない。相手の挑発に乗って事態をエスカレートさせるようなことが万に一つもあってはならない。国際法を知らないのなら、P3-Cに乗るなということを原則としています。

     やはり、現場の最前線は非常に自制的。

     昨今の安保法制議論の中でも法律が変われば戦争になるという批判がありますが、現場を知らない批判と言わざるを得ません。自衛隊員は好戦的なんてことはなく、むしろ自制的に、非常に忍耐強く対応していることがよくわかりました。

     さて、今回の搭乗取材でもう一つ感じたのは、那覇空港の過密さ。一通りの体験搭乗を終えて那覇に帰投したとはお昼12時過ぎ。この時間帯は那覇空港では一番の過密時間帯の一つで、2分に1回以上のペースで離着陸が設定されているそうです。しかも、梅雨時期で空港上空に激しい雷雲が発生。雲の切れ間に離着陸双方の飛行機が殺到していました。

     そうなると割を食うのが自衛隊機だそうで、一説によれば民航機は離着陸を待たせたり、着陸をやり直したり他の空港に行き先変更したりすると、燃料代やら乗客への補償やら余分にコストがかかる。それを考えると、自衛隊機が後回しになるケースが多いそうです。我々のP3-Cも、滑走路上に離陸直前の民航機がいて、これがなかなか離陸しなかったので、ギリギリまで粘りましたが結局着陸のやり直しとなりました。やはり、一刻も早い第2滑走路の完成が待たれます。

     いずれにせよ、どんな条件でも黙々と任務をこなし続ける海上自衛隊P3-Cと隊員たち。その献身を目の当たりにすれば、右も左もなく自衛隊が国を守っていることを実感できました。
  • 2015年05月30日

    安保法制議論に欠けているもの

     先週から集団的自衛権の行使を容認する安全保障法制改正に関する審議が始まりました。どうやって我が国を守るのか、今後日本はどのように世界と関わっていくのかといった議論よりは、揚げ足取りのようなやり取りに終始しています。そして、総理のヤジや外相、防衛相の答弁に対する批判の応酬などが飛び交い、揚句先週末にはついに審議が空転してしまいました。

     この議論が地に足の着いたものになっていないというのは議論のそこここに見られるわけですが、典型的なものが共産党の志位委員長の質問の中に見ることができました。

    『「後方支援」=兵たんは武力行使と一体 戦争法案の違憲性浮き彫りに 衆院特別委 志位委員長の質問〈上〉』(しんぶん赤旗 5月30日)http://goo.gl/jSuk74
    <イラクには、対戦車弾、無反動砲、重機関銃を携行――これが戦闘でなくて何なのか

    (中略)

    志位 いま、初めて、持って行った武器の内容が示されました(パネル2)。パネルにどんなものか写真を掲げております。持って行った武器は、ピストルや小銃にとどまらないんですよ。110ミリ対戦車弾、84ミリ無反動砲、12・7ミリ重機関銃など、文字通りの重装備ですよ。「人道復興支援」といわれたイラクのサマワでも、これだけの武器を持って行ったんです。

     「戦闘地域」での「後方支援」となれば、さらに強力な武器を持って行くことになるでしょう。必要な場合は、こうした武器を使って反撃するということになります。相手方が、仮に戦車で攻撃してきて、必要に迫られた場合には、自衛隊はこの110ミリ携帯対戦車弾を使って反撃するということになるでしょう。これが戦闘でなくて何なのか。こういう武器を持って行っているんですよ。場合によっては使うから持って行っているんです。>

     記事中では審議で使ったパネルと同じ写真が掲載されています。この質問こそまさに、現場を知らずに国民に恐怖のイメージを植え付ける質問です。

     「対戦車弾」「無反動砲」「重機関銃」という単語とともに写真を見せられれば、たしかにこんなに物騒な武器を持って行く必要はなかろう...と大部分の人が考えてしまうかもしれません。しかし、ここで決定的に抜け落ちているのはこれらの武器の具体的な性能、あるいは現場ではどのように使うのか?というところです。

     たとえば、84ミリ無反動砲(カールグスタフ)は射程700m~1000m。110ミリ個人携帯対戦車弾(パンツァーファウスト3)は射程300m~500m。ずいぶん遠くまで飛ぶじゃないかと思われるかもしれませんが、軍事の常識から言うとこれらの武器は『盾』にあたる武器で、難民や各国のPKO部隊などを守りながら襲撃集団の侵攻を遅らす「遅滞行動」をとる時には必需品です。襲撃集団を追撃し、蹴散らすために使うにはあまりに射程が短すぎて、敵に近づきすぎ、結果として反撃にあうリスクが高まります。そうした局面がもしあるとすれば(今審議されている法律ではそうした事態は想定されていませんが)、射程30キロ~40キロの自走榴弾砲などを持って行くはずです。しかし、そうした武器は過去の国際貢献活動でも持って行きませんでした。

     というわけで、これらの武器は、もっぱら襲撃集団の進撃を遅らせたり、その場に釘付けにしたりしながら安全地帯まで下がるために使われるものです。そうした武器を持って行くことですら「戦闘に行くつもりか!?」と批判するということは、危険地帯で丸腰で退却せよと言うのでしょうか?

     今回の国会審議は上滑りの議論だ!政府の説明不足だと言われ批判されているわけですが、果たして現実に即した議論が出来ているのか?野党側も政府側も、果たして現場のことをどこまで承知して議論しているのか、甚だ疑問です。
  • 2015年05月26日

    世界遺産を見に行って

     世界遺産への登録を勧告された『明治日本の産業革命遺産』。その中でも、最も注目されているのが軍艦島(正式名称:端島)です。南北およそ480m、東西およそ160m、面積およそ6万3千平米という狭い土地に、最盛期で5000人を超える人が暮らしていて、当時の東京の人口密度のざっと9倍を超えるという超過密都市だったということです。世界遺産に登録される見通しとなったということで一体どれだけの賑わいなのか、実際に行ってみました。

    軍艦島遠景.JPG
    軍艦島遠景。右手が艦首、左が艦尾、真ん中に艦橋というまさに戦艦のようなシルエットをしている。

     狭い土地に沢山の人が住んでいたわけですから、土地の有効利用のために住居はほとんどが高層アパート。大正5年には日本で最初の鉄筋高層アパートが完成しています。これは、東京で初めての鉄筋高層アパートだった同潤会青山アパートの10年前にすでに完成していたとのこと。要するに、当時の最先端建築は東京でも大阪でもなく、この長崎の沖の炭鉱の島、軍艦島にあったというのは驚きです。さらに驚きなのが、その日本最古の鉄筋高層建築が朽ちているとはいえ今だに残っているということ。軍艦島ツアーでは、やはりこの30号アパートがツアー最大のハイライトとなっています。

    軍艦島30号棟.JPG
    軍艦島30号アパート。ちなみに、各部屋は6畳一間で非常に狭かったという。

     さて、大正時代の鉄筋高層建築ですから、軍艦島の30号アパートのように海水や潮風に洗われてご覧のとおり朽ちているのが当然ですが、同じ長崎には世界遺産ではないですが大正時代に建てられた姿そのままの建築があります。それが、佐世保市の針尾島にある『旧佐世保無線電信所(針尾送信所)』です。

    『旧佐世保無線電信所(針尾送信所)』(佐世保市HP)http://goo.gl/1vQut5

     こちらは、大正11年に完成した無線送信施設で、日露戦争を契機として海軍艦船の無線連絡体制の強化を狙って建てられたものです。無線施設、要するに無線アンテナは鉄塔が常識ですが、ここは鉄筋コンクリート製。高さ136mの塔が3つ、正三角形の頂点に立っていて、巨大な煙突がそびえたっているように見えます。太平洋戦争の海戦を告げた海軍の秘密暗号「ニイタカヤマノボレ1208」を送信した施設と言われていますが、それに関する資料は残っておらず、送信したかどうかは不明だそうです。

    針尾送信所3号塔その2.JPG
    針尾送信所無線塔。畑ばかりの周りと比べて異様な存在感。

     ご覧のように、ヒビひとつなく全く綺麗なコンクリートの塔が残されています。なぜこれほどまでにきれいに残っているのかというと、当時は鉄筋コンクリート建築の黎明期。日本海軍はその技術の実証実験の意味も含めてこの無線塔を造営したようで、ヒト・モノ・カネを惜しげもなく投入しました。現地ガイドの方によると、延べ100万人を超える職人を投入し、総工費は155万円(現在の価値でおよそ250億円)、塔一本が30万円(現在価値で50億円)かかったそうです。材料にもこだわり、コンクリートに使う砂はきめの細かい良質の川砂を使ったそうです。阪神大震災の時には新幹線の高架橋に海砂のコンクリートが使われて想定以上にもろかったことが問題になりましたが、こちらはきめの細かい川砂。その上、その川砂を網を使ってさらに粒を揃える念の入れよう。そのおかげで、今でも震度6強の地震まで耐えられ、向こう100年は朽ち果てずに持つという専門家の診断が下ったそうです。平成の世まで海上保安庁、海上自衛隊が現役の無線塔として使用し、2年前の平成25年になってようやく国の重要文化財に指定されました。

    針尾送信所無線塔内部.JPG
    針尾無線塔内部。左に見えるハシゴはメンテナンスのために使っていたもの。立ち入り自由だった時代には、地元の子供の格好の度胸試しの場だったそう。

     日本の技術、現場の力、坂の上の雲をつかもうと走り続けた当時の日本人の息遣いが聞こえてくるような産業遺産の数々。他にも、三菱長崎造船所の戦艦武蔵を作った第三船渠、ジャイアント・カンチレバークレーン、三井三池炭鉱などなど、九州には今も現役だったり少し前まで現役で働いていたからこそ残っている遺産たちがたくさんあるのです。

    三池炭鉱万田坑.JPG
    三池炭鉱万田坑の第二竪坑櫓。明治期の建築がそのまま残っている。

     それらの遺産は、全くのアナログ。コンピューター制御では一切ありません。現場の作業員の熟練度、力こそが産業の力に直結した時代の遺産は、人の力の偉大さを語りかけてくれます。効率化、IT化の流れの中で我々が忘れがちな、人の力。産業遺産の数々は、そうした「人の力」の偉大さを再確認させてくれます。
書籍
プロフィール

飯田浩司(いいだ・こうじ)

1981年12月5日生まれ。
神奈川県横須賀市出身。O型。
2004年、横浜国立大学経営学部国際経営学科卒業。
現在、ニッポン放送アナウンサー。
ニュース番組のパーソナリティとして政治経済から国際問題まで取材活動を行い、ラジオでは「議論は戦わせるものではなく、深めるもの」をモットーに情報発信をしている。
趣味は野球観戦(阪神タイガースファン)、鉄道・飛行機鑑賞、競馬、読書。

■出演番組
≪現在≫
「飯田浩司のOK!COZY UP!」

≪過去≫
「ザ・ボイス そこまで言うか」
「辛坊治郎ズーム そこまで言うか」

■Twitter
「飯田浩司そこまで言うか!」

■会員制ファンクラブ(CAMPFIREファンクラブ)
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