スポーツ伝説

2024.01.19

2023年1月15日~19日の放送内容

【サッカー 小野伸二選手】
 早くから才能を発揮し、多くのサッカー人から天才と認められてきた小野選手。中でも強烈な印象を残したのは高校卒業直後、プロデビューした浦和レッズでの出来事です。1998年3月21日、Jリーグ開幕戦でいきなり先発デビューを飾った小野選手は、その4日後の開幕第2戦で当時日本代表のゴールキーパーの一人だった楢﨑正剛選手との1対1を制し、プロ初ゴール。この試合を現地で視察していた当時の日本代表指揮官・岡田武史監督の目に留まり、すぐに日本代表に招集されると、4月1日の韓国戦で国際Aマッチに初出場。デビューからわずか10日ほどで、一気に日本サッカー界の注目選手になったのです。勢いそのまま、2ヶ月後のフランスワールドカップ代表メンバーにも名を連ね、第3戦で途中出場。股抜きからのシュートを放って世界の度肝を抜きます。この時の18歳272日は、日本人史上最年少でのワールドカップ出場記録です。
 国内・海外を問わずいくつものクラブを経験し、その都度、華麗なテクニックでファンを魅了してきた小野選手。2021年からは北海道コンサドーレ札幌でプレー。日本のサッカー史に残る天才フットボーラーは、昨年12月3日、J1最終節での古巣・浦和レッズとの試合を最後に現役生活にピリオドを打ちました。
 

【サッカー 柏木陽介選手】
 2005年、サンフレッチェ広島のユースに在籍していた高校3年生の時、2種登録選手としてナビスコカップに出場した柏木選手。翌年からサンフレッチェのトップチームに昇格。華麗なパスさばきで注目を浴びました。サッカーファンにその名が知られたのは、07年に行われた20歳以下のワールドカップです。この大会で柏木選手は背番号10を背負い、日本のグループリーグ突破に貢献します。10年からは浦和レッズでプレー。17年、アジア・チャンピオンズリーグでチームを優勝へと導き、柏木選手が大会MVPに選ばれます。さらに翌18年には天皇杯で優勝。その活躍ぶりと存在感から“浦和の太陽”と呼ばれました。
 21年からはJ3のFC岐阜に完全移籍。新天地では背番号42を選びます。この番号には、岐阜のホームタウン42市町村の支援で戦えることへの感謝が込められていました。J2昇格を目標にかかげ、若手に積極的に声をかけ、結束を促してきた柏木選手。22年秋にアキレス腱断裂の大怪我を負いますが、そこから見事な復活を果たしチームを引っ張る姿から、“岐阜の太陽”と呼ばれ信頼を集めました。先月2日の現役ラストマッチではキャプテンマークを巻いて先発出場し、全盛期を彷彿とさせるプレーでチームを牽引。引退後はチームに残り、10年・15年後にJ1やアジア・チャンピオンズリーグで戦えるチーム作りを目標に掲げ、第2のサッカー人生を歩み始めました。

       
【サッカー 高原直泰選手】
 日本サッカーが誇る伝説のストライカー・高原選手。1998年にジュビロ磐田でプロデビューすると、日本代表・中山雅史選手とのツートップでゴールを重ね、すぐにリーグ屈指のストライカーへと成長。2002年の日韓ワールドカップでも活躍が期待されていました。ところが大会直前にエコノミークラス症候群を発症してメンバー外に。ワールドカップに出場して海外挑戦、というキャリアプランが崩れてしまいます。それでも高原選手は病気前よりもパワーアップすることを目指して体を鍛え直すと、ワールドカップ後のJリーグで得点王とMVPを受賞。チームの完全優勝に大きく貢献し、ドイツへの移籍にこぎ着けたのです。ドイツでは当初、サイドアタッカーやサイドハーフで使われる不遇を経験しますが、与えられた場所でゴールを積み重ね、シーズン2ケタ得点を記録するなど、海外でも日本人フォワードが通用することを示してみせました
 日本代表では通算57試合に出場し23ゴール。07年のアジアカップでは4ゴールを挙げて大会得点王に輝くなど、大舞台での強さも発揮してきた高原選手。2015年、新たな挑戦としてクラブチーム沖縄SVを創設します。日本では育成システムの環境整備が遅れていると痛感した高原選手は、スポーツの産業化を目指していた沖縄県に住民票も移し、クラブの代表兼監督兼現役選手という1人で3役を務める一大プロジェクトをスタートさせたのです。選手を育てるだけでなくクラブ経営の財政的基盤とするため、コーヒー栽培の事業も立ち上げるなど、実業家としてもチャレンジの日々。さまざまな困難にぶつかりながらも、沖縄リーグを勝ち上がり、九州リーグも勝ち上がって、夢のJリーグ昇格まであと一歩のJFLまで育て上げた昨年、44歳での現役引退を決意しました。

  
【サッカー 本山雅志選手】
 三笘薫選手を筆頭に、ドリブラーの活躍が目覚ましい日本サッカー。過去の日本代表でファンの記憶に残る天才ドリブラーといえば、本山選手です。東福岡高校3年の時にインターハイ・全日本ユース・高校選手権をすべて制覇する高校3冠を史上初めて達成。1999年に出場したワールドユースでは、小野伸二選手を筆頭に“黄金世代”と呼ばれた豪華メンバーの中で背番号10を背負い、準優勝に貢献。国際サッカー連盟主催の世界大会で日本代表が準優勝を飾ったのはこれが初めての快挙であり、本山選手は小野選手とともに大会ベストイレブンに選ばれました。鹿島アントラーズでも、ジーコ選手・レオナルド選手・ビスマルク選手など名選手が付けた10番を託され、チームの主軸として活躍。2007年からJリーグ史上初となるリーグ3連覇を達成し、アントラーズ黄金時代を牽引しました。
 2015年、36歳となり出番が大幅に減った本山選手は、この年限りで鹿島を退団。出身地のチーム・ギラヴァンツ北九州へ移籍を決断します。しかしケガも増えて出場機会は限られ、40歳となった19年シーズンは公式戦での出場試合がゼロに。シーズン終了後に契約満了が発表されました。すると本山選手は41歳で初の海外挑戦を決意。マレーシアのクラブでプレーする道を選びました。43歳までプレーをして、昨年4月に正式に引退を表明。その後は古巣のアントラーズに戻って、下部組織のスカウトや選手育成に取り組んでいます。

 

【サッカー 太田宏介選手】
 サッカー元日本代表・太田選手は東京都町田市出身。2006年に当時J2だった横浜FCでプロ生活をスタートさせます。貴重な左利きの左サイドバックとして期待されながらも、入団当初は練習にもついていけなかったと振り返る太田選手。幸運だったのは07年、横浜FCに左サイドのスペシャリストである、三浦淳寛選手が移籍してきたことです。太田選手は三浦選手を師匠と慕い、三浦選手からもらった「自信と過信は紙一重」という言葉を座右の銘として、日々思い出しては気持ちを引き締めてプレー。12年から在籍したFC東京時代では、左足から繰り出す精度の高いキックを武器に、15年シーズンにはディフェンダーでありながら13アシストをマーク。日本代表にも選ばれるようになり、アジアカップに出場を果たしました。
 その後はオランダリーグでもプレーするなど、決して過信することなく、様々なクラブで活躍し続けた太田選手は、22年、地元のクラブでJ2所属のFC町田ゼルビアに移籍。しかし2年目の昨シーズンは出番も減り、10月上旬には現役引退を表明しますが、ここからが見事でした。10月14日の試合でシーズン初先発を果たすと、3試合ぶりとなる勝利に貢献。以降は先発に定着し、町田のJ2初優勝とJ1昇格を果たす原動力となったのです。

  
来週のスポーツ伝説は……
 1/22(月)プロ野球 門脇誠選手
 1/23(火)プロ野球 森下翔太選手
 1/24(水)プロ野球 隅田知一郎投手
 1/25(木)プロ野球 万波中正選手
 1/26(金)プロ野球 根本悠楓投手
                 お楽しみに!!

    パーソナリティ
    • 滝本沙奈
      滝本沙奈
      滝本沙奈

      滝本沙奈

      生年月日:1984年6月6日
      出身地:東京
      学歴:青山学院大学文学部英米文学科卒
      趣味:マリンスポーツ(ダイビング、サーフィン、釣り)
      資格:PADIオープンウォーターダイバー、おさかなマイスターアドバイザー

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