スポーツ伝説

2024.04.05

2024年4月1日~5日の放送内容

【プロ野球 斎藤雅樹投手】
 埼玉県の市立川口高校から、1982年のドラフト1位で巨人に入団した斎藤投手。入団した時はオーバースローでしたが、プロ1年目の83年、2軍を視察に来た藤田元司監督の勧めでサイドスローへ転向します。すると変化球の鋭さが増し、プロ2年目の84年に1軍デビュー。翌85年には先発・リリーフの両方をこなし、12勝を挙げる活躍を見せました。しかしメンタルの弱さを抱えていた斎藤投手は、絶対にコントロールミスはできないと自分にプレッシャーをかけて腕が振れなくなり、甘く入ったところを痛打されるという悪循環に陥り、その後3シーズンは1軍と2軍を往復し伸び悩みます。転機となったのはプロ7年目の89年。6シーズンぶりに藤田監督が巨人へ復帰したのです。藤田監督は斎藤投手を先発で起用。自信を回復させようという藤田監督の親心が、斎藤投手を大きく変身させました。
 迎えた5月10日の横浜大洋戦。斎藤投手は、7回まで1失点の好投を見せますが、4点リードの8回、ノーアウト満塁のピンチを招きます。しかしピッチャー交代はなし。その後、1点差に迫られ、なおもワンナウト一塁のピンチ。開き直った斎藤投手は、次のバッターを一塁ライナーダブルプレーに打ち取ってピンチを切り抜けると、完投勝ちを飾りました。これで自信をつかみ、以後も完投勝利を積み重ねた斎藤投手。気づけば11試合連続完投勝利という、現在も破られていないプロ野球記録を達成し、この年20勝7敗、防御率1.62という圧倒的な成績で、最多勝・最優秀防御率・沢村賞のタイトルを獲得しました。続く90年も2年連続で20勝を挙げ、巨人のセ・リーグ連覇に貢献。名実ともに巨人のエースとなった斎藤投手は、通算180勝を挙げて平成の大エース呼ばれました。

   
【プロ野球 藤川球児投手】
 1998年のドラフト1位で、高知商業高校から阪神タイガースに入団した藤川投手。剛速球を武器に、プロ2年目の2000年に1軍初登板を果たしますが、なかなか才能を開花させることができませんでした。5年目の03年、開幕直後に1軍へ昇格した藤川投手は、4月11日の巨人戦でリリーフ登板します。阪神が4点リードする9回ウラ、ツーアウト一・三塁の場面。前のピッチャーが仁志敏久選手をノーボール・ツーストライクと追い込んだところで、星野仙一監督は藤川投手をマウンドに送ります。ストライクを1つとればゲームセットでしたが、藤川投手は仁志選手に初球をセンター前へ運ばれ3点差に。さらに代打の後藤孝志選手に、まさかの同点スリーランを浴びました。この年、阪神は18年ぶりのリーグ優勝を果たしましたが、藤川投手は目立った活躍もできず、違う意味で忘れられないシーズンになったのです。
 05年、プロ7年目を迎えた藤川投手は背番号を92から22に変えてシーズンを迎えます。当時の指揮官・岡田彰布監督はこの年から、7回を藤川投手、8回をジェフ・ウイリアムス投手、そして9回は久保田智之投手に託す勝利の方程式‟JFK”をスタート。ゲームは7回に動くことが多いと語った岡田監督。逆転が起こるのもその辺りという理由から、勝負所で強いピッチングができる藤川投手を抜擢したのです。この狙いは見事にはまり、JFKの3人が揃って登板した時のチーム成績は39勝6敗4分け。藤川投手はこの年、当時の日本記録となる80試合に登板して7勝1敗1セーブ。46ホールドを挙げ、最優秀中継ぎ投手賞に輝きました。

     
 
【プロ野球 古田敦也選手】
 1989年のドラフト2位で、ヤクルトスワローズに入団した古田選手。名将・野村克也監督に見出され、90年にキャッチャーでは史上初となるプロ1年目でのゴールデン・グラブ賞受賞を果たしました。そこからさらに、誰もが認める名捕手へとのぼり詰めたのは、プロ2年目の91年のことです。この年のオールスターゲームに選ばれた古田選手。第1戦で先発マスクをかぶり、2回ツーアウト一塁の場面で、スチールを試みたオリックス・松永浩美選手を素早い送球から二塁手前でタッチアウトに仕留めます。3回にも2つ目の盗塁阻止に成功すると、8回は西武・秋山幸二選手を刺し、オールスター新記録となる1試合3度の盗塁阻止を達成しました。この時、セ・リーグでトップの盗塁阻止率を誇っていた古田選手。セ・リーグ6年ぶりの完封勝利へと導いた肩が評価され、オールスターMVPに輝きました。
 キャッチャーでは史上最多となる通算8回のシーズン打率3割超えを記録し、通算2000安打を達成する古田選手ですが、プロ1年目の打率は2割5分。バッティングはまだまだでした。そこでお手本にして打ち方を真似たのが、三冠王を3度経験し、当時中日でプレーしていた落合博満選手です。古田選手は落合選手のバッティングフォームの真似から入り、1年目のオールスターゲームの際は、直接教えを請いました。ライバルチームの選手ですが、落合選手は熱心に説明してくれたそうです。するとプロ2年目の91年は打率が急上昇。師匠の落合選手と首位争いを演じた末に、古田選手の首位打者が決まりました。最終打率3割3分9厘8毛は当時、キャッチャーの歴代最高打率であり、キャッチャーが首位打者に輝いたのは恩師・野村監督以来、史上2人目の快挙でした。

  
【プロ野球 谷繁元信選手】
 1988年のドラフト1位で、島根県の江の川高校から横浜大洋ホエールズに入団した谷繁選手は、中日ドラゴンズで引退するまで27年間プレー。日本のプロ野球で歴代最多・通算3021試合出場の記録を作り、キャッチャーで2963試合出場ももちろん史上最多記録です。ただ、一時は外野手にコンバートの構想もあったといいます。そんな谷繁選手の野球人生が変わったのは、プロ5年目の93年。この年、市民球団を目指して横浜大洋ホエールズは球団名を横浜ベイスターズに変更。正捕手を固定すべく、元ヤクルトの名捕手・大矢明彦さんをバッテリーコーチとして招聘し、谷繁選手にキャッチングからスローイング、ブロックの仕方など、プロのキャッチャー技術を叩き込みました。
 実は球団から、谷繁を一人前にしてくれという注文を受けていた大矢コーチ。技術的なことだけでなく、試合で自分がどんな配球をしたか、完璧に言える記憶力を身につけること。勘を大事にすることなども指導しました。また谷繁選手がチームに心から信頼されていないと感じた大矢コーチは、ピッチャーの信頼を得るためにはアピールが必要と諭し、谷繁選手にピッチャーが見えるところで練習するよう提案。というのも、不動の守護神だった“ハマの大魔神”こと佐々木主浩投手が登板する際は、よく他のキャッチャーに代えられていたからです。それは、佐々木投手の鋭く落ちるフォークボールを、谷繁選手はうまく捕れないという判断からでした。谷繁選手は大矢コーチの教えを実践。その結果、佐々木投手は自分が投げる時もキャッチャーは谷繁でと認めるようになったのです。93年、谷繁選手は114試合に出場し、以降ベイスターズ不動の正捕手へと成長。チームが38年ぶりの日本一に導くのはその5年後のことで、最後を締めくくったのは、佐々木投手・谷繁選手のバッテリーでした。

 

【プロ野球 前田智徳選手】
 広島カープのレジェンド・前田選手は、高校野球の古豪・熊本工業高校出身。甲子園に3度出場を果たし、1989年のドラフト4位で入団します。非凡な打撃センスで1年目から1軍を経験するなど、将来を大きく期待された前田選手がその才能を大きく開花させたのが、プロ2年目の91年です。この年、2月に行われた千葉ロッテとのオープン戦で、前田選手はツーベース4本を含む5打数5安打を記録しました。開幕戦でもスタメンを勝ち取り、1番で先発出場した前田選手。第1打席、バットを振り抜くと打球はスタンドへ。嬉しいプロ初ホームランは、開幕戦先頭打者アーチという球史に残る一発になりました。幸先のいいスタートを切った前田選手は、走攻守3拍子揃った外野手として、この年129試合に出場・レギュラーの座をつかみます。また守備でもファンを魅了し、記憶に残るスーパープレーも飛び出しました。
 1991年6月15日の巨人戦。勝負どころの5回、広島はワンナウト満塁のピンチを迎えます。打球は前田選手が守るセンターへ。普通なら犠牲フライになる打球でしたが、前田選手はボールを取るやいなやホームへ大遠投。みごとタッチアウトに仕留めます。このプレーはメディアが選ぶ球団別ベストプレーにも選ばれ、前田選手は守備の名手に贈られるゴールデン・グラブ賞を受賞。20歳4ヵ月での受賞は、外野手部門では現在も史上最年少記録です。レギュラーの座をつかみ、カープ5年ぶりのリーグ優勝にも貢献した前田選手。以後2013年に引退するまでのプロ24年間で、規定打席に達しての打率3割を11度も記録し、生涯打率は3割超え。07年には通算2000安打も達成しました。
 

来週のスポーツ伝説は……

4/8(月) プロ野球 千葉茂選手
4/9(火) プロ野球 与那嶺要選手  
4/10(水) プロ野球 広岡達朗選手
4/11(木) プロ野球 藤田元司投手
4/12(金) プロ野球 高田繁選手

お楽しみに!!

    パーソナリティ
    • 滝本沙奈
      滝本沙奈
      滝本沙奈

      滝本沙奈

      生年月日:1984年6月6日
      出身地:東京
      学歴:青山学院大学文学部英米文学科卒
      趣味:マリンスポーツ(ダイビング、サーフィン、釣り)
      資格:PADIオープンウォーターダイバー、おさかなマイスターアドバイザー

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