スポーツ伝説

2月12日~16日の放送内容

【スピードスケート 橋本聖子選手】

 1980年代から90年代にかけ、夏・冬合わせてオリンピックに7回出場した、“オリンピックの申し子”橋本選手。実は聖子という名前も、橋本選手が生まれた5日後に開幕した東京オリンピック聖火の「聖」の字を取って名付けられました。
 幼い頃から「お前はオリンピックに出るために生まれた」と言い聞かされて育った橋本選手は、84年に19歳でサラエボオリンピックに出場。88年のカルガリーオリンピックでは、女子スピードスケートの実施5種目すべてに出場し、5レースすべてで日本新記録をマークして入賞を果たします。同じ年にソウルで開催された夏季オリンピックでは、自転車競技の選手として出場。冬と夏、両方のオリンピックに出場したのは日本人初の偉業で、前代未聞の挑戦として大きなニュースになりました。また92年のアルベールビルオリンピックでは、1500mで銅メダルを獲得。冬季オリンピックでのメダル獲得は、日本人女子選手では初の快挙でした。
   

 
【スピードスケート 岡崎朋美選手】

 オリンピックに5大会連続出場した岡崎選手は、会心のスケーティングを終えたあとの笑顔が代名詞。“朋ちゃんスマイル”と呼ばれたその笑顔は海外でも大人気で、スケート大国・オランダにファンクラブができるほど、人気と実力を兼ね備えた選手でした。
 高校を卒業後、名門・富士急行スケート部で、女子スピードスケートの第一人者・橋本聖子選手と共に練習を重ね、1994年、22歳の時に初のオリンピックとなるリレハンメル大会に出場。しかし、結果は500mで14位と惨敗に終わります。このとき味わった悔しさを生かし、4年後の長野オリンピックで見事に銅メダルを獲得。レース後の“朋ちゃんスマイル”で日本中のファンをとりこにしました。

      
   
【スピードスケート 清水宏保選手】

 1998年に開催された長野オリンピックで国民的ヒーローとなった清水選手は、スピードスケート男子500mで金メダル、1000mでも銅メダルを獲得しました。しかしこの偉業を手にするまでには、いくつものハンディキャップを乗り越え、努力を重ねる苦しい日々がありました。清水選手は幼い頃に喘息を患い、体を鍛えるために様々なスポーツを試した、その一つがスケートでした。その結果、肺が鍛えられて体調がよくなっただけでなく、才能が花開いてスケート選手としても頭角を現します。
 しかし視野に入れていた92年開催のアルベールビルオリンピックは、最終選考会の前日に喘息の発作が再発したことで出場を逃してしまいます。二度と同じような失敗をしたくないと、これまで以上に体調管理に気を配るようになった清水選手。すると93年のスピードスケートW杯で、初出場初優勝の快挙を達成。94年には、リレハンメルオリンピック出場も果たしました。96年には清水選手の代名詞“ロケットスタート”を武器に、世界ではひときわ小さい身長162cmの体ながら、500mで世界新記録を樹立。長野オリンピックでもオリンピック記録を叩き出し、日本スピードスケート界初となる金メダルを獲得。たとえ体が小さくても、持病があっても世界一になれることを証明してみせたその姿は、日本中に大きな感動を与えました。
 

  
【女子モーグル  上村愛子選手】
 
 1998年に行われた長野オリンピック。フリースタイルスキー・女子モーグルでは、里谷多英選手が冬季オリンピック日本女子史上初となる金メダルを獲得しましたが、この快挙と共に世間の注目を浴びたのが、18歳で出場した新鋭・上村選手です。結果は7位入賞でしたが、実力と共に、その愛らしいルックスでモーグル界のアイドル的存在になった上村選手。2002年のソルトレークシティー大会では、長野より1つ上の6位。続く06年のトリノ大会は5位と、順位は1つずつ上がるも、メダルにはなかなか手が届きません。
 応援する人が増えていくほど、だんだん強くなっていくプレッシャー。そんな中でも他の国際大会では結果を残してきましたが、メダルの有力候補だったバンクーバー大会では、表彰台にあと一歩の4位。大会後、1年間休養して一時は引退も考えましたが、元金メダリストで、当時日本代表を指導していたヤンネ・ラハテラ・コーチの言葉に救われました。
「オリンピックが終わっても人生は続く。人生が終わるわけではないんだから、勝負を楽しんでおいで」
 それからは力みが消え、14年に34歳で出場した5度目の大舞台・ソチオリンピックでは、自信を持ってスタート台に立ち、結果は同じ4位でも、納得の滑りを披露することができました。

   

【フィギュア ジャネット・リン選手】
 
 1972年、国内初の冬季オリンピック開催となった、札幌オリンピック。抜群の表現力と愛くるしい笑顔で人気を集め、日本中を魅了したのが、アメリカの女子フィギュアスケーター、リン選手です。その頃のフィギュアスケートは、前半のコンパルソリー(規定)と、後半のフリーの合計点で争うシステム。規定は音楽もなく、課題によって変化を付けながら氷の上にいくつかの円を描いていく地味な競技で、フリーよりも規定をいかに上手くこなせるかでチャンピオンが決まっていました。
 リン選手は規定を苦手にしており、この時も4位と出遅れてしまいます。オーストリアのベアトリクス・シューバー選手に、172.4点差という大差をつけられ、期待されていた金メダルは絶望的に。直後こそ泣きじゃくったリン選手ですが、「金メダルを獲ることがすべてではない。ベストを尽くそう」と気持ちを切り替えました。結果、優雅な演技と表現力豊かな表情で、観客の心をわしづかみにしたリン選手。“札幌の恋人”と呼ばれたその笑顔は、当時の日本人の心の中に深く刻み込まれたのです。


   
来週のスポーツ伝説は……

  2月19日(月) サッカー 小林悠選手
  2月20日(火) サッカー 昌子源選手
  2月21日(水) サッカー 杉本健勇選手 
  2月22日(木) サッカー 中村憲剛選手
  2月23日(金) サッカー 長谷川健太監督

                       お楽しみに!!
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