スポーツ伝説

4月17日~21日の放送内容

【プロ野球 村山実投手】

 “ミスタージャイアンツ”長嶋茂雄選手の宿命のライバル、“ミスタータイガース”村山投手。1959年に関西大学から大阪タイガースに入団すると、4月14日に甲子園球場で行われた国鉄戦で、村山投手は初回、先頭打者にいきなりデッドボールを献上。続く2番打者にもフォアボールと、不安な立ち上がりとなりました。しかし、4番・5番から連続三振を奪ってピンチを脱すると、6回までノーヒット。3対0でみごとデビュー戦を白星で飾ったのです。許したヒットはわずか2本。初登板初完封の見事なピッチングでした。5月21日の巨人戦では毎回の14奪三振を奪い、一本のヒットも許さずに完投。本来なら「新人の年にノーヒットノーラン」の偉業達成でしたが、味方のエラーで失点し、記録上はただの「完投勝ち」。このほかにも、村山投手は毎試合のように相手打線を抑えて完投しながら、味方打線の援護に恵まれずに負け投手、という不運なパターンを繰り返しました。それでも、シーズンを通してみれば、54試合に登板して18勝10敗。防御率は圧巻の1.19で、ルーキーながら最優秀防御率のタイトルを獲得。先発投手最大の栄誉である、沢村賞にも輝きます。ところがこれだけの成績を残しながら新人王には選ばれず、当時の新人記録となる31ホーマーを放ってホームラン王に輝いた、大洋ホエールズの桑田武選手に譲る形となりました。
 翌年以降も毎年安定した成績を残した村山投手。タテ縞ひとすじ、現役通算14年で積み重ねた勝ち星は222勝。70年には、兼任監督を務めながら戦後唯一のシーズン防御率0点台を達成するなど、さまざまな偉業を成し遂げました。
   


【プロ野球 権藤博投手】

 これまでに多くの球団で投手コーチを歴任。1998年には監督就任1年目で横浜ベイスターズを38年ぶりの日本一に導いた名伯楽、権藤さん。選手の自主性を何よりも重視し、中継ぎ投手にもローテーション制を導入。こうした指導法、起用法を採用するに至った理由は、自身が新人時代に過酷な連投を経験したから、といわれています。
 権藤投手は社会人野球で評価を上げ、1961年に中日ドラゴンズに入団。当時の野球界には投手の分業制といった考え方はなく、先発投手でも翌日にリリーフに回ることが当たり前でした。1日に2試合行うダブルヘッダーで両方の試合に投げることも当たり前。雨で中止の日以外はマウンドに立ち続けたことを意味する『権藤、権藤、雨、権藤』というフレーズは、あまりにも有名です。結局、1年目はシーズン130試合中69試合に登板。今であれば登板イニング数が200回を超えれば“大エース”と言われますが、権藤投手は1年目にしてすでに、その倍以上の429回と1/3を記録したのです。結果は35勝。防御率1.70。310奪三振は、いずれもセ・リーグ1位の数字で、権藤投手はこの年、新人王・沢村賞・ベストナインにも輝きました。翌62年も、セ・リーグ最多勝となる30勝を挙げた権藤投手。しかし、肩の酷使の影響で3年目は10勝に激減。その後、二ケタ勝利に届くことはなく、野手転向を経て、現役生活わずか8年でユニフォームを脱ぐことになったのです。
   
  

【プロ野球 山口高志投手】
 
 対戦した往年の名選手たちがこぞって、「大谷よりも速かった」と語る伝説のルーキー・山口投手。1975年~82年までの8年間、太く短く阪急ブレーブスで活躍した剛速球投手でした。
 山口投手がまず注目を集めたのは、関西大学時代のこと。4年生で出場した全日本大学選手権で関西大を日本一に導き、関西六大学リーグでも4年間で通算46勝。通算防御率0.49という無敵ぶりでドラフト会議でも注目の存在となり、ヤクルトから指名を受けます。しかし、入団を拒否して社会人野球の門を叩いた山口投手。結局は社会人でも結果を残し、74年のドラフト1位で阪急に指名され、プロ入りを決意しました。日本ハムの安打製造機・張本勲選手も舌を巻いたという剛速球を武器に、デビュー初年はリーグ最多の4完封を含む18完投を記録し、12勝をマーク。新人王を獲得します。更には日本シリーズで6試合中4試合に登板し、先発、抑えとフル回転。阪急に初の日本一の栄冠をもたらし、シリーズMVPにも選出されました。現役引退後は、阪神の投手コーチに就任。当時まだ伸び悩んでいた藤川球児投手の投球フォームを見直し、のちに“火の玉ストレート”と呼ばれる剛速球誕生のきっかけを作っています。
  


【プロ野球 谷沢健一選手】

 早稲田大学2年生の時、東京六大学野球・春季リーグ戦で48打数19安打・打率3割9分6厘のハイアベレージで首位打者に輝き、プロのスカウトたちの注目を浴びた谷沢選手。1969年のプロ野球ドラフト会議で目玉候補の一人となり、中日ドラゴンズから1位指名を受けてプロ入りを果たします。その1年目、70年に中日の指揮を執っていたのは、巨人軍監督を11年にわたって務め、8度もリーグ優勝に導いた名将・水原茂監督でした。
 水原監督は有望なルーキーに活躍の場を与えるのがうまく、巨人では広岡選手・長嶋選手・藤田元司投手・堀本律夫投手が監督在任中に新人王を獲得。その後に指揮を執った東映フライヤーズでも、尾崎行雄投手・高橋善正投手が新人王に輝いており、水原監督は谷沢選手を7人目にすべく、チャンスを与えます。70年、谷沢選手は巨人との開幕戦に七番・レフトで先発出場。プロ初打席でいきなりヒットを放つなど、5打数2安打の活躍で鮮烈なデビューを飾りました。1年目の成績は打率2割5分1厘・ホームラン11本・45打点に終わりましたが、シーズンを通じて試合に出続けたことや、リーグトップとなる6本の3塁打をマークしたことも評価され、“水原チルドレン”7人目のセ・リーグ新人王を獲得。みごと、名将の期待に応えました。

   
 
【プロ野球 野茂英雄投手】

 ドラフト会議で史上最多の8球団が競合した、近鉄バファローズの野茂投手。プロデビュー戦は、1990年4月10日の対西武戦。初回からフォアボールとエラーでノーアウト満塁と、絶体絶命のピンチを迎えます。この回はなんとか1失点に抑えたものの、1イニングで投じた球は36球。結局、6イニングで出したフォアボールは7つ。158球も投げてしまい、勝敗のつかないまま降板というデビューになってしまいました。その後も、なかなか勝ち星がつかなかった野茂投手。しかし開幕から1月後、4月29日のオリックス戦で、野茂投手は伝説に残る投球を披露。ストレートと得意のフォークを武器に、圧巻の三振ショーを演じます。終わってみれば、当時の日本タイ記録である1試合17奪三振を記録。完投でプロ初勝利を挙げたのです。1年目のシーズンは、18勝8敗・防御率2.91・287奪三振。野茂投手は新人ながら、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占。さらにはベストナイン・新人王・沢村賞・MVPにも選出されるという、文句のつけようのないルーキーイヤーを過ごしました。
 野茂投手はその後、活躍の場をアメリカのメジャーリーグに移します。メジャー1年目の成績は13勝6敗。リーグ最多の236奪三振で、新人王を獲得。日米両方で新人王に輝いたのは、野茂投手一人だけです。


   
来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!
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