スポーツ伝説

2月11日~15日の放送内容

【テニス 松岡修造選手】

 1992年に日本人男子として初のツアー優勝を果たすなど、波に乗ったときは世界の強豪相手にも負けない力がありましたが、両ヒザの負傷やウィルス性の病気に見舞われるといった不運が続き、世界ランキングは100位前後を行ったり来たりしていた松岡選手。そんな中で迎えた95年のウィンブルドンは、自身6度目の挑戦で、日本人男子として62年ぶりの4大大会ベスト8が懸かった大一番となりました。その時、松岡選手が大事な場面で叫んだのが、「この一球は絶対無二の一球なり!」という言葉。全日本選手権・初代王者に輝いた、日本テニス界の偉人・福田雅之助選手が残した言葉で、松岡選手はプレッシャ—に押し潰されそうな自分を鼓舞したのです。この叫びのあと、ポイントを連取して見事ストレート勝ち。
 松岡選手はのちに、この時の勝利についてこう語っています。「ウィンブルドン・ベスト8は、僕の第2の人生の夢へと繋げてくれた宝物です。その夢とは、僕の記録を破る選手を育てることでした」
 この言葉通り、引退後は「修造チャレンジ」といった若手育成プランを実施し、後進の育成に情熱を燃やし続けています。

   

【柔道 恵本裕子選手】

 平成の時代に大きく環境が変わったのは、女子競技。男子に続き、女子柔道がオリンピックの正式種目となったのは平成4年(1992年)のバルセロナ大会でした。この時は5階級で日本人メダリストが誕生したものの、金メダルはゼロ。当時16歳で、天才少女として注目を集めた48キロ級の田村亮子選手も、銀メダルに終わりました。4年後、96年のアトランタ大会でも、金メダル大本命といわれた田村選手がまさかの2大会連続銀メダル。そんな中、日本女子柔道界で初のオリンピック金メダリストとなったのが、61キロ級の恵本裕子選手でした。
 アトランタに臨む代表メンバーの内、実はもっとも下馬評が低かったのが恵本選手。前年に初めて出場した世界選手権では、1回戦の開始11秒で一本負けという惨敗。さらにオリンピックの代表選考会でも、1回戦負け。敗者復活戦で3位に滑り込み、なんとか代表の座をつかんだ状態だったのです。そんな周囲の不安をよそに、恵本選手自身は自信に満ちていました。のちに「世界選手権で負けたからこそ、オリンピックで優勝できた気がする」と語った恵本選手。敗戦を糧に、努力を続けたことが金メダルに結びつきました。


   
【プロ野球 ナゴヤドーム開場】

 1997年に開場したナゴヤドーム。その前年まで、中日は長らく屋外球場のナゴヤ球場をホームにしていましたが、老朽化やグラウンドの狭さ、収容人員の少なさなどを解消するため、ドーム移転を決断したのです。セ・リーグの本拠地では、巨人の東京ドームに次ぐ2つめのドーム球場とあって、開場初年度のナゴヤドームには連日、多くのファンが詰めかけました。
 特に中日ファンを沸かせたのは、公式戦初開催となった4月4日の開幕戦、横浜ベイスターズ戦です。超満員のなか行われた試合は、プロ入り初の開幕投手を務めた先発の山本昌投手が好投。3対2で中日が逃げ切り、みごと記念すべきオープニングゲームを制しました。

  
  
【高校野球 沖縄尚学】
 
 「沖縄勢の全国優勝が先か、沖縄選出の総理大臣が先か」という言葉が生まれるほど、甲子園での優勝は沖縄県民にとって悲願であり、長年の夢でした。平成2年と3年には、沖縄水産が夏の甲子園で2年連続準優勝に輝きましたが、優勝にはどうしてもあと一歩届かず。そんな“沖縄の悲願”を叶えたのが、1999年の沖縄尚学高校でした。この年、センバツに出場した沖縄尚学は、初戦からエースの比嘉公也投手が好投。1対0で完封勝利を収めると、その後も勝利を続け、準決勝へと駒を進めます。実はこの時、比嘉投手はすでに満身創痍の状態でした。2回戦で右足首を捻挫し、痛み止めの注射を打ってマウンドに立ったのです。
 そんな手負いのエースを助けようと、準決勝で沖縄尚学は打線が奮起。比嘉投手はケガの痛みにも堪えながら、みごと完投勝利を収めました。翌日の決勝戦。前日に212球を投げた比嘉投手は登板できませんでしたが、チームは勢いそのままに勝利をおさめ、春夏を通じて、沖縄県勢として初の全国制覇を達成。優勝旗は初めて海を渡って、沖縄の地へとたどり着いたのでした。
   
 
 
【プロ野球 最初で最後のON対決】
 
 ソフトバンクの王貞治球団会長が先月、日本記者クラブで会見。「平成の野球界」について、報道陣の前で語りました。その時に質問に上がったのが、平成12年(2000年)の日本シリーズの話です。セ・リーグは、長嶋茂雄監督率いる巨人が優勝。一方、パ・リーグは王監督率いるダイエーがリーグ2連覇を達成。20世紀終わりを告げるミレニアムイヤーに、“ON対決”がついに実現したのです。
 「2000年という区切りの年に、神様も味なことやるな」と当時を振り返った王監督。一方、長嶋監督はシリーズ終了後に、「ON対決は2度とやりたくありません。正直いってやりづらかった」と語っています。この時、2連敗からの4連勝で6年ぶりに日本シリーズで宙に舞ったのは長嶋監督。しかし翌2001年、リーグ連覇を逃した長嶋監督は勇退を決意。結果的に日本シリーズでのON対決は、これが最初で最後となりました。

 

来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!
BACK