株式会社ハングリータイガー 取締役相談役 中田有紀子
大学卒業後、出版社に入社。
出版編集部を経て独立され、
17年間フリーライターとして活動。
51歳のとき株式会社ハングリータイガーに就職、
現在は、取締役相談役を務めている。
竹内:この番組をお聞きで行かれたことがある方は多いと思います、「ハングリータイガー」。横浜を中心に店舗を展開されているので、実際に行かれたことがある方は多いと思います、「ハングリータイガー」。
中田:メインは横浜市内で横須賀とか辻堂をはじめ、神奈川県で展開をしております。
竹内:名前がすごくインパクトありますね。“ハングリータイガー”。
ステーキとか、お肉が美味しいお店?
中田:基本的に肉のお店として、メインとしては牛肉のハンバーグがメインです。日本で今、ハンバーグと呼ばれるもので基本的な形を1番最初に作り出したのは、ハングリータイガーなんです。
竹内:そうなんですね!中田さんご自身のことも、伺えればと思いますが、出版社から、今のハングリータイガーに転職されたっていうことで、どういう経緯があったんですか?
中田:私が出版社に入社したのは27歳でした。過去を振り返ると、初めは大学を卒業して22歳から5年間ぐらいで就職して結婚するんだと思ってたんですね。ただ、実は私の学年で結婚してない人は3人だけで、あとは全員が結婚してるんです。1人は修道女になって、あと2人は仕事をしたんですね。時代も時代なんでね。
竹内:そうだったのですね。今となってはふつうですけどね。
中田:当時は結婚が当たり前の環境でしたので、当然、私も卒業したら結婚するものだと思ってました。お見合いを27歳までの間に30数回しながら過ごしていたんですね。そうしたら友達が「お見合いばかりしてる生活って不健康。仕事を紹介してあげる」って言ってきまして。
竹内:ええ。
中田:それで、できたばかりの出版社で、入社試験がないものの、面接に行ったら入社する事になりまして、そこから始まったんですね。父が新聞記者だった時代もあり、多少そういうものに憧れるような気持ちはあって、出版社だったので「いいわ」と思って行ったんだと思います。そこで、日本で最初のチェーンレストランのようなものを始められたロイヤルの江頭さん(※)とか、日本の外食産業を導いた方々のことを知り、取材をさせていただく方もいました。
※江頭匡一。ファミリーレストランのロイヤルホストなどを展開するロイヤル株式会社の創業者。
竹内:お見合いしていた時期もある、女性らしい生活を送っていた方が、まさかそんな生活になるとは、想像してなかったですよね。
中田:突然やってくると、なるようになるんですね。
竹内:うまく適応できたのですか?
中田:やらなきゃいけないんだと思ってましたね。会社が立ち上がったばっかりで、赤字ばっかりだと本社に怒られるわけですから、その中でなんとか黒字にしなきゃいけないと思うと、何故か分からないけど責任感だけはあったんですかね。
竹内:お好きだったんですかね?
中田:誰も「背負ってくれ」なんて言わないのに1人で、頑張らなきゃと思ってました。それで、7年が経ち、臨時で出たムックがけっこうヒットして、少し黒字になった時に、これでいいやと思って辞めました。
竹内:そうなんですね。やはり今のハングリータイガーに行き着くまでには色々な経緯があったんですね。
中田:なぜハングリータイガーだったかと言いますと、当時辞めたあとも同じ会社の取材の仕事はしてたんですね。取材を10数年やってる企画の中で、ハングリータイガーの社長も出てきてまして、今でこそ言えますけど、そんなに大物ではなかったです。ただ、個人で独立して一生懸命やっていらっしゃるっていうのは社長としては珍しくて、そういう方が2、3ヶ月続けて登場したことがあり、ハングリータイガーにも取材でよく行きました。
竹内:はい。
中田:そうしたら今の会長に「記事が面白かったから、うちも仕事するとき原稿を頼みたい」って言われて、社内報の、文章の原稿をリライトする仕事を頼まれたりして、
竹内:ええ。そこから密に接点が始まったんですね。
中田:そしてバブルが崩壊した時に、外食の世界は壊滅的にひどい状態になりまして、どこも今までと違う方法でやらないとダメだとなりシステムを変えていて、ハングリータイガーも、今までにないシステムを作らないといけない、と取り組んでいるところだったんですね。会長は(当時の社長)そういった考えで進もうとするのに、古い社員がついてこないっていうことでドタバタしてた時に、古い人たちと揉めて、若い人たちがどんどん辞めちゃったんです。そこで、“会社のお母さん”のような、若い人たちの相談に乗ってもらうような人を入れないといけないっていって、私に声がかかったんです。
竹内:そういう繋がりから数々の修羅場を越えてきた中田さんに伺いたいんですが、中田さんにとって「仕事」とは?
中田:結婚もしてないし子供もいないからかもしれないけど、仕事ってやっぱり、人生、生きていく道の必要な乗り物。それがなかったら、無事に歩いていけなかったと思います。仕事があるから、あっちこっちとドタバタしながら、まっすぐに生きていけました
竹内:そんなに強い思いがあったんですね。
中田:ライターとしての自分をちょっと褒めてあげると、辞める年に3冊ぐらいすごく売れる本が出て、印税を思ってるより多くの額を頂いて、これからいよいよ自分が書きたいものを書けるのかなって思った途端に、ハングリータイガーから声がかかりました。面接の時に、当時の社長(今の会長)が「中田さん、老後ね、書きながら生活していくって大変でしょ」って。「会社へ入れば、賞与もあるし、将来もし役員にでもなれば、期末賞与も出るから楽に暮らせますよ」って言ってましたけど、今となっては嘘ばっかり。嘘ばっかりですよ〜。笑
竹内:それにつられて入ったらこんなことになってね。
中田:賞与なんて会社に入ってから1回しかもらってないっていう状態ですよ。笑
竹内:いや〜面白いです。ほんとにもっと聞いていたいです。
中田:今振り返ると、すごい楽しい人生だったと思います。
竹内:でもやはりこれからも一生。ずっと働いていらっしゃる感じですね。
中田:今は83歳になって、80歳過ぎた時にコロナ禍になって、飲食店ってみんな営業できなかったり大変だったじゃないですか。うちの場合はそれほどひどくはなかったけど、でもやっぱり客数はぐんと減ったし、お客様の行動が変わりましたよね。遅い時間に全然入らなくなって、どこも時間を早めに閉めるようになりました。
竹内:そうですよね。。
中田:だからもちろん、売り上げにやっぱり影響するし、こんな状態になってるのに、80歳の人がお給料をもらってちゃ悪いなと思って、社長に「若い人のお給料を確保しなきゃいけないから、私は辞めた方がいいと思います」って実は言ったんです。そうしたら「中田さん、勘違いしないでね」って言われたんですよ。「30年近くいる人が辞めたって言ったら、みんながどう思いますか?」って。「あの人が辞めるぐらいなら会社危ないんだ、って不安になるじゃないですか。辞めないでくださいよ」って言ってくれたんですね。たしかにみんな、不安になるかもしれないなと思いましたよね。
竹内:ええ。
中田:でも、幸いなことに、ハングリータイガーはコロナの影響はそれほどひどくは受けなかったんです。お客様がやはりすごく応援してくださったので。去年の秋に、フードサービス学会からコロナの時に売り上げが落ちないで無事に越えた会社として、ハングリータイガーにその理由を講演してくださいって言われるぐらい話題になったぐらいなんです。
竹内:中田さんが講演にいかれたんですね!
中田:そうなんです。本当に素敵なお客様に恵まれてハングリータイガーは幸せな会社だと思ってます。
竹内:愛されている秘訣が十分に理解できました。貴重なお話をありがとうございました。
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