ニッポンチャレンジドアスリート

2026.01.19

槙原淳幹(身体障がい者野球・日本代表主将)

1989年生まれ、岡山県出身の36歳。生後10カ月のときに事故で右腕が動かなくなり、左手で生活しています。小学3年生から左手だけで野球を始めると、高校時代には軟式野球のレギュラーとして活躍。全国制覇を成し遂げました。2004年、地元の障がい者野球クラブ「岡山桃太郎」に入団。キャプテンとしてチームを全日本選手権6連覇に導き、第5回世界身体障害者野球大会では優勝するなど、国際試合でも活躍。普段は中学校の先生をしています。

◾️小学3年生から左手だけで、大好きな野球を始めた槙原選手。新見高校時代、槙原選手は軟式野球部の9番・ファーストでレギュラーとして活躍。みごと全国制覇を成し遂げた。槙原選手はこのとき「障がいを乗り越えて優勝」という報道に違和感を覚えていた。

「僕は今、野球が大好きな高校球児として日本一に立って、本当に心から嬉しいときに、そんなときに障がいがあるとかないとか、そんなの関係ないっていう風に思っちゃって。そこに違和感を感じた発言だったんですよね。友だちにも聞かれたらしいですけど、そんな仲間も『別にどうってことないですよ』という風に鼻で笑って答えたみたいですけどね」

◾️小学生のときから、健常者の中で左手だけで野球を続けてきた槙原選手。「身体障がい者野球」という競技を知ったのは、中学3年生のときだった。

「近所にお住まいの方から障がい者野球『岡山桃太郎っていうチームがあるんだけど入れないか』というふうにお誘いをいただきました」

「障がい者野球っていうのは、バントがない、盗塁がないっていうルールの違いはあるけど、全国各地のチームが年に2回ある全国大会で日本一になるために、下は小学生から上は7、80代のおじいちゃんまでが、一生懸命に本気でプレーする野球だと。『ぜひ1回見に来てほしいし、岡山のチームに入ってほしいんだ』というふうに熱くお話をいただきました」

◾️最初に誘われたときは、福祉のためのスポーツと思っていた槙原選手。しかし実際にプレーを観て、そのイメージはすぐに変わった。

「ちょっと変わったどころか。180度変わりましたね。初めて行ったのが中学校3年生のときに、神戸のプロ野球選手が使うような本拠地のグラウンドだったんですが、まず目の前に飛び込んできたのが車いすのピッチャーです。ピッチャーとキャッチャーの距離はプロ野球選手と同じ18メートルの距離なのに、もちろんノーバウンドで投げるところか、球速がおよそ100キロ出ていて、その試合に勝利しました」

「また、交通事故によって片足を失った選手が、バッターボックスに松葉杖をついて立つんですね。松葉杖の、本来だったら手の持つところに、もう短くなってしまった足、片足を引っかけて、片足1本で立ってバットで打って、その松葉杖をついて1塁まで走ってセーフになったんですね。松葉杖をついて、片足一本で立ってヒットを打ったぞ、と」

「他にも僕と同じような片手1本の選手が思いっきりバット振り抜いたら、ノーバウンドでホームラン。うわ、自分もまだまだだなっていうことを思い知らされました」

「一番、僕が思い出深い場面っていうのは、股関節が不自由なピッチャーがキャッチャーに向かって投げた、その球速は130キロ台後半だったんですが、健常者でも難しいようなスピードを出したそのピッチャーと対戦したのが、両足をなにかしらの理由で失って、バッターボックスに立てないから、バッターボックスに座るバッター。そのピッチャーとそのバッターがどんな対戦をするんだろう、という風に僕は観客から見ていたんです。キャッチャーのミットに向かって、思いっきりのボールを三球投げて、三球三振を取ったんですよね」

「もうそのときに、障がいが重いとか軽いとか、そんなの関係なくて、オレたちは日本一になるんだと。そのために練習してきたんだと。そんな気迫を感じられて、手加減なんかするもんか。弱点は当然攻めるぞ。というような、熱い強い気持ちを感じて。そのときに、福祉だと思っていた障がい者野球が『いやいや、福祉なんかじゃなくて、ほんとにスポーツだな』というふうに感じたんですよね」

「手加減なしの、普段自分が健常者と一緒にやっている中学校の野球となんら変わりない、こんなまっすぐな野球で日本一になったら、仲間とともに喜び合えて、本当に嬉しいだろうなという風に感じて、僕は障がい者野球を本気で始めることになりました」

◾️ 中学3年生のときから身体障がい者野球を始めた槙原選手。故障などもあり、なかなか日本代表に選ばれず、初めて代表に招集されたのが、2023年。33歳のときだった。

「日本代表は縁がないんだろうなという風にも思っていたし、日本代表というよりも、自分のチームに対してできることをこれからもやっていくことが大切だろうなという風に思ってプレーを続けていたときに、33歳でしたか、その時に声がかかって。もう『今なんだな!』というふうに驚きましたね」

◾️槙原選手の代表デビュー戦は、2023年、バンテリンドームナゴヤで行われた「第5回世界身体障害者野球大会」だった。槙原選手はチームの副主将を任された。

「おそらく自分の中で解釈しているのは、周りの選手が力が発揮できるように声をかけたりとか気を配ったりとか、そういうところの役割を任されていたのかな、という風に僕は思って、世界大会に臨んでいましたね」

◾️日本はみごと決勝に進出。そこに至るまでの4試合で、槙原選手が最も印象に残ったゲームは?

「初戦の韓国戦が4試合の中で最も印象に残ってる試合になります。初戦だったんですが、僕は一塁手として試合に出させていただいておりました。7対0、圧勝の試合展開だったんですが、気付けばですね、最終回の裏。韓国の攻撃でツーアウト満塁っていう場面。7対6で日本が勝っている。もしヒット1本でも出れば、出れば同点どころか負けにもつながるような、そんな緊迫した場面でした」

◾️楽勝ムードが一転、予想もしなかった大ピンチに陥った日本。槙原選手は、今までに経験したことのないプレッシャーを感じたそうだ。

「スタンドを見ると『お前、ここでエラーしたら日本におらせんけんな!』みたいな声に聞こえてしまってですね、プレッシャーを感じました。人生で初めてでしたね。『頼むから今だけは僕のところにボールを飛んでこんでほしい』という風に思った場面……」

◾️日本は絶体絶命のピンチをしのいで、7対6でなんとか韓国に勝利。勢いに乗った日本は初戦から4連勝で決勝進出を決めた。決勝のアメリカ戦は、控えに回った槙原選手。出場機会はなかったが、副主将としてベンチでチームを鼓舞し続け、みごと世界の頂点に立った。

「決して試合に出られなくて悔しいなとか、そんなことは申し訳ないんですけど、1つもなくて。まずこの世界一というものを最高のメンバーとともに一緒にできたことが幸せでした。自分自身をここまで支え、育ててくださった、そういった人たちの顔が浮かんできて、感極まるものがありましたね」

◾️現在、中学校の先生でもある槙原選手。教師になろうと思った理由は?

「一生野球に携わる仕事をしたいなという風に思っていました。プロ野球選手は厳しいと思ったときに、野球を教えるっていう中学校の教師だったらなれるんじゃないかなという風に思って。それが教師になろうと思った理由、きっかけですね。子どもたちからは『厳しい』『熱い』。そんなことをよく言われますね」

「今、私が住んでいる岡山県新見市っていうところは、少子高齢化も激しい地域なんですが、何かそんなときに野球に、子どもたちと一生懸命に取り組んでいく中で、この街を野球を通じて活気づけたい、元気にしたいな。そんな思いがありますね」

◾️そんな槙原選手に、身体障がい者野球の魅力を聞いてみた。

「全国各地の、障がいも、年齢も、性別も、様々な方が、ほんとにそれぞれに工夫と努力を繰り返しながら、それぞれの個性、特徴……それを最大限に発揮して、チームとして心を1つにして戦う。大会で本気でぶつけあう。こんな幸せな空間はないんじゃないかなっていう風に思いますね」

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