1977年生まれ、徳島県出身、北海道在住の47歳。アウトドアスポーツが好きで、夏はカヤックやサーフィン、冬はスキーやスノーボードという生活を送っていましたが、2008年3月、スノーボード中の事故で脊髄を損傷。車いす生活に。しかし、「障がいがあってもここまでできる」ということを示そうと、夏はパラカヌー、冬はチェアスノーボードの選手としてスポーツを再開。2021年、パラカヌーで東京パラリンピックに出場。3年後のロスパラリンピックへの連続出場を目指しています。
◾️脊髄損傷で車いす生活となった辰己選手。それでも、アウトドアスポーツを諦めなかった。
「リハビリのリハ室に車が置いてあったんですね。運転席のドアを開けて、中に乗ったところに、今まで見たこともなかったようなレバーが1個ついてて『これなんなの?』って聞いたら、そういうのがついてる手動運転装置っていうんですけど、その手動運転装置を車につけることによって『足動かなくても運転できるんだよ』って」
「で、『車乗って出かけることもできるよ』っていうのを聞いたときが、僕の中ではケガをしてから一番希望を持った瞬間で。『移動を自分で車に乗って行けるんであれば、まだ自分の好きなように好きなところに行けるな……』『アウトドアスポーツっていうのもできるんじゃないか』っていうのを最初に思った、一番大きいきっかけは、やっぱり車が運転できるってことでしたね」
◾️脊髄損傷で腰から下が動かないなか、スポーツを再開しようと決意。まず始めたのは、カヌーだった。
「なんでカヌーかっていうと、時期が……。僕がケガをしたのが3月で、で、退院したのが7月だったんですが。そのときに何ができるかってなったら、やっぱり水物のスポーツだったので」
◾️辰己選手は、2012年からパラカヌーのスプリント競技にも挑戦するようになった。
「僕、初めて出た試合で、そのときの2番になって。海外派遣選考会、日本代表を決める選考会だったんですが、その1番の人が出場を辞退したので、僕に自然とその権利が降りてきたんですよね。で、その権利が降りてきたときに、その世界をやっていくんであれば、1回ちゃんと世界のレベルであったりとか、自分の立ち位置を見る必要があるっていうときに、うちの妻が背中を押してくれて」
「初めて行ったときに、そのときはまだそのパラカヌーっていうものの世界のレベルがそんなに高くなかったので、たしか僕、10位とかだったと思うんですけど。現地でもひっくり返ったりとかいろいろして大変な部分があって、フィッティングとかもうまくいかなかったりとか、いろいろあった中でその記録が出たってことは『俺は世界に通用するのかもしれないな』って思ったのが、一番最初、競技としてやろうかなって思ったきっかけですね」
◾️また、冬は椅子に座って滑るチェアスキー、チェアスノーボードを始めた。
「やっぱり僕の滑りのイメージっていうのが、ぱっと斜面の上に立って、下まで降りるラインを見たときの、頭の中の滑るイメージがスノーボードだったんですが。スキーだと、そのスノーボードのイメージのラインをうまくたどれなかったので。で『GENTEMSTICK』っていうスノーボードのメーカーがニセコにあるんですが、そこの代表の玉井さんっていう方と知り合うきっかけがあって『スノーボードしたいんだよね』っていう話をしたら『じゃあ、板はサポートしてあげるよ』って」
「でも、そのスノーボードとチェアスキーの椅子をくっつけるビンディングになるようなパーツがそのときはなかったので。それをじゃあ自分で作りな、っていうところから、その『GENTEMSTICK』の出会い、玉井太郎さんとの出会いが始まって、スキーからスノーボードに変わったっていうところですね」
◾️2021年、辰己選手はパラカヌー・カヤックの代表に選ばれて、念願の東京パラリンピックに出場した。
「正直、パラリンピック出場を目標に掲げて競技活動してましたので、ほっとしましたね。『よし、出れる』。で、東京でパラリンピックが開催されるってことは、これを逃したらもう次のチャンスはないだろうとは思っていたので、最大のチャンスを掴めたかなって。まあほっとしたっていうのが、ほんとに一番正直なところではありますね」
◾️初めてのパラリンピック。辰巳選手は運動機能障がいKL2クラスの、男子カヤックシングル200mに出場。結果は11位だった。
「もう結果は結果なので。で、その中で自分のベストは出せた試合ではあったので、僕はその結果については満足ですね」
「残念ながらやっぱ無観客だったので。でも、ネット中継はできたので、そこでみんな集まってくれて、そこで見たよって言ってくれて、帰ってきてから『良かったね、頑張ったね』ってみんな言ってくれて。すごい良かった部分はあるんですけど、やっぱり人を入れてやってほしかったなっていうのは今でもすごく感じてます」
「東京大会で印象に残ったこと……これ、すごいなって思ったのが閉会式のときですかね。閉会式の会場に選手村からバスに乗って移動するんですが、そのバスに乗って移動するときの高速道路が全面閉鎖されていて、専用バスしか通れない道っていうのが選手村から会場まで続いてて。その沿道に応援してくれてる人が立ってて、旗振ってくれたりとかしたのを見たときには『あ、これがパラリンピックなんだな』って、やっぱりちょっとすごい大会に僕は出たんだなっていうのは、改めてそのときには感じましたね」
◾️パラカヌーでは、残念ながらパリパラリンピック出場を逃した辰己選手。3年後のロスパラリンピックを目指している。
「条件としては、パラパリのときも東京のときもリオのときも全部一緒なんですが、基本的には世界選手権で10位っていう記録を持っていれば、出場権を得られるっていうことですね」
「東京大会が終わってから大きく変えたところっていうのが、力に頼った漕ぎをしないっていうことなんですよね。自分の使える能力を精一杯使って。あと、水の掴み方であったりとか、体の使い方によっての、船の進め方ですね。そういうところを今、東京が終わってから重点的にずっとやってきていて、それがちゃんとできてきた、体に染み付いたところで、パワーをつけていくっていうようなところが必要かなと思って今は取り組んでいて」
「その中で、カヌーに乗る時のシート、あとフィッティングですね。それをより自分がうまく使えるように、自分の漕ぎであったりとか、テクニックを磨いていかなきゃいけない時期かなとは今は思っています」
◾️カヌーとチェアスノーボード、二刀流で競技を続けている辰己選手。その相乗効果は大きいという。
「僕がスノーボードをやるっていうのは、もちろんスノーボードが好きだからやるのはもちろんなんですが、そのスノーボードをやることによって、カヌーに活かされることっていうのがやっぱりすごくあるんですよね。体の使い方であったりとか、重心の落とし込み方であったりとか」
「あと僕、サーフィンもやるんですけど、サーフィンをやりながらカヌーのことも考え、スノーボードも考えっていうような形で。その全部をやることによって、全ての能力が上がるし、全てを競技に活かせるようにと思ってやっていってます」
◾️辰己選手に、夏のパラカヌーの魅力を聞いてみた。
「カヌーの魅力としては、競技以外の練習のところでですね、朝夕が風が止まる時間帯が多かったりとか、夏、暑い時期には日中漕ぐのが大変だから、夕方、早朝に漕いだりすることがあるんですけど。そういうときって人がいなかったり、あと風がなくて水面が鏡みたいになってる。もう自然の中の自然の音を感じながら鳥の声とか聞きながら、もう本当に鏡みたいな水面をスーッと進んでいく舟。あの感覚はやっぱカヌーに乗ってる人しかわからない。その自然を感じながら漕げる時間帯っていうのが、僕の中ではカヌーの魅力かなってすごく思います」
◾️冬のチェアスノーボードの魅力は?
「そもそもがなぜニセコ、この倶知安町っていうところに住んでるかっていうと、家から10分とかで車で行けるところで、朝早く起きて、リフトに並び、朝1時間とか2時間だけ、さっと滑って、いいとこ滑って、自分の体のコンディションとかを確かめながら、帰ってきてから、また今度はカヌーの練習をするっていうような生活ができる。その環境と、やっぱりパウダースノーですね。スノーボードはもうそれに尽きます、本当に」
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