高田文夫のおもひでコロコロ

2021.09.17

第7回『談志十年』

 上から読んでも「だんしがしんだ」。下から読んでも「だんしがしんだ」。「談志が死んだ」。2011年11月21日 午後2時24分 逝去。75歳だった。あらかじめ自分で作っておいた戒名が「立川雲国斎家元勝手居士」(たてかわうんこくさい いえもとかってこじ)。あれから10年の歳月が流れようとしている。私もあと2年で談志師匠の享年となる。亡くなった時 色々とあって ひと月後の12月21日「立川談志お別れの会」(ホテルニューオータニ)が開かれ、たくさんの善男善女が集まった。石原慎太郎が友人として「談志への言葉」を語っていた。その時、やたら私の周りがバタバタ。お別れの会を取材に来ていた記者達が皆 私の所へとんで来て私の耳元で「森田芳光監督が亡くなりました」「森田さんが・・・」「えーッ」その場へ へたり込んだ。師匠のお別れの会で私の一番弟子だと名乗っていた森田の死を知るとは・・・。たしかに2011年は東日本大震災があって変な年、嫌な年ではあったが。私と森田との若い頃の先輩後輩の関係を描いた落語家のようなものであり人生のようなもの、青春のようなもの、まだ何ものにもなっていないものをみごとに描いた「の・ようなもの」で衝撃の監督デビューをした森田。学生時代はよく「談志と志ん朝は本当はどっちがうまいのか」なんて青くさい事を論争したものだ。

何だか分からない内に年を越し、ある意味 談志と私との呑み友達でもあった中村勘三郎から「浅草の”平成中村座”使えるから師匠の追悼落語会を一緒にやろうよ」という男気のあるありがたい言葉。ちなみに浅草のこの地に中村座を建てる為 浅草中をとりまとめ尽力をつくすだけつくしたお兄(あにい)さんが中村屋さんの盟友 浅草”文扇堂”の荒井修(私の大学の同級生。これまた親友)である。名代の扇子屋。しかし修ちゃんも早逝。2012年2月20日 浅草平成中村座にて爆笑のうちに追悼落語会。

下は2012年4月の前に発刊した 私が編集長の「落語ファン倶楽部 VOL.16」。「談志だいすき」のタイトルで付録には「立川談志のオールナイトニッポン」のCD。私と丁々発止やりあっている。

右下は笑顔がすこぶる可愛い談志のパネル前。センターに居るのが勘三郎と私。三本〆めをする左から談笑、志らく 右は談春、生志。

そして過労がたたって この4月11日に今度は私が倒れた。不整脈から心肺停止8時間。ICUに3ヶ月。今なにかと話題のエクモだがこの時 私はすでに付けていた。時代を先取りしすぎである。ニッポン放送もパニックに陥ったらしい。私は3ヶ月も意識不明だから何も分からない。あとから分かったことだが三途の川からUターンしてきた時、仲の良かった小野ヤスシ、安岡力也とすれ違った。いつ放送に戻れるかも分からないのに編成の檜原さん達は「いつでも戻れるよう番組は対応しておきます」と心強い言葉。私がきいた訳ではないが・・・。待ってくれるのが嬉しい。はげみになる。人生で最もセミの鳴き声をきかなかった夏も過ぎ、秋に杖をつきながら仕事に復帰。勘三郎さんと会えるかなと思っていた矢先「勘三郎入院」のニュース。そのまゝ息をひきとった。2011年2012年 怒涛の年となった。東北で大震災があって 談志が亡くなり(WITHビンラディン) 森田芳光が亡くなり 年があけて私が倒れ 中村勘三郎が亡くなり・・・才能のある人が居なくなり 私のようなものがUターンして戻って来る。そしてこの翌年か(?)。私との「ラジオの友」「演芸の友」福生の怪人・才能だけでできていた男、同い年の大瀧詠一が早逝した。果たして「幸せな結末」だったのだろうか。

”あっさりと 恋も命もあきらめる

   江戸育ちほど 哀しきはなし”

ごめん。大瀧さんだけは東京の人ではなかった。心意気とあの歌い方は江戸前だったけどネ。東京の人間は なんにでもあきらめが早いんだな。生き方もせっかちなのかもしれない。

珍しい写真もサービス。ビンラディンを着てご機嫌な師匠。2002年2月4日「ラジオビバリー昼ズ」。アシスタントは永田杏子だった。

右は新宿末広亭の余一会。2006年3月31日 私が大喜利をやっているときいてフラリ遊びに来た談志。左より上方の桂あやめ、桂竹丸、昔昔亭桃太郎、私の後ろに昇太、勢朝、談志、志ん駒、小遊三。写真は彦いち。

最後に私が持っている珍品中の珍品、珍ハガキを。世の中はコロナそっちのけで総裁選で大騒ぎ。これは昭和46年(1971年)参議院全国区選挙に立候補した時のハガキだ。相当配ったんだろうな。談志35歳の時の夢多き顔だ。ウラを見れば「伝統を現代に」のキャッチフレーズ。推薦するは石原慎太郎である。

この時の選挙結果はご存知の通り。最下位の50位でギリギリ深夜に当選。やっとカメラの前に現れた談志「真打は最後に出ると決まってるンだ」うまいんだか苦しまぎれだったんだか。噂だが・・・当選確実が出るまで談志は何をやっていたのか・・・万が一 落ちた場合も考え、部屋にこもって落語の稽古をしていたとか・・・ある人からきいたのだが、談志はずっと志ん朝のテープをきいて結果を待っていたとか・・・。いい話だ。

これからの話はまた。

 

2021年9月17日

高田文夫

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    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。