上柳昌彦 ラジオの人

2026.10.02

倉本聰さんのこと

「倉本聰」という脚本家の名前を始めて知ったのはいつの頃だったでしょうか。

ウィキペディアでテレビドラマの作品を調べると石坂浩二さんと浅丘ルリ子さんの「2丁目3番地」(1971年TBS)は倉本さんや向田邦子さんが書いていたとありました。

当時中学2年の私は母と観ていた記憶があります。

その後は「赤ひげ」(1972年NHK)「勝海舟」(1974年NHK)は自分で観ていました。

大河ドラマ「勝海舟」の主役が渡哲也さんの病気で松方弘樹さんに代わり、その後脚本家も様々あって交代したことを週刊誌の見出しで知り「なんだか大変そうだな」という感じで倉本聰さんの存在を知ったのかもしれません。

北海道に移り住んだ倉本さんが(最初は札幌)テレビ業界の裏側を描いた作品が「6羽のかもめ」(1974年CX)。マスコミ業界になんとなく興味を持ちだした高校生の私はハマりましたぁ。

そこからはもう「前略おふくろ様」(1975年日テレ)「あにき」(1977年TBS)「浮浪雲」(1978年テレ朝)、そしてラジオ局が舞台になった「たとえば、愛」(1979年TBS)と倉本作品の追っかけのようになります。

私がニッポン放送に入社した1981年10月に始まるのが「「北の国から」(CX)です。

2月から始まったアナウンサー研修を終え、先輩について宿直やニュースの初鳴きを体験しいよいよ一人で泊まるという前日の金曜日にこの作品が始まりました。

なぜ詳しく覚えているかというと、CMの収録の業務にも付き始め読んでも読んでも没になっていた頃に「これやって」と一枚の原稿を受け取ります。

そこには「音楽さだまさし 脚本倉本聰 北海道を舞台にしたドラマ『北の国から』 10月9日から放送開始」と言ったような内容が書かれていました。

「倉本さんの新作がはじまるんだ!」「でもさださんの名前の方が先にくるんだなぁ」「これは絶対に観なくては」こんな気持ちで読んだCMはなんとか採用になり電波に乗ることに。

一方的に倉本さんとのご縁を感じて興奮する新米アナウンサーなのでありました。

その後も脚本集やエッセイを読み今で言うところの「推し活」を続けました。

90年代になり「北の国から」の音声をニッポン放送で放送する特番の枠(ただ今の出演)を付けたり、倉本さん演出のラジオドラマにちょい役で出演したり、ついには「北の国から 遺言」ではドラマ内で流れるラジオのパーソナリティ役も仰せつかりました。

インタビューも折あるごとにさせて頂き様々な薫陶を受けました。

戦時中の疎開の苦労、ニッポン放送社員時代の珍談奇談。

富良野で生活をすることの意味、「北の国から」と食品ロスについてなど話は尽きることはありませんでした。

結果的に最後のインタビューなった回で倉本さんから「ウクライナのようなことが日本に起こったとしたら、今の日本人に何ができるのか」と逆に質問をされました。

憲法や武器の事ではなく「君たちには生き抜いてやろうという気概のようなものがあるのか」と問われた気持ちになったことを今でも忘れません。

タバコをくゆらしながら「ニッポン放送の連中は、私が会社を辞めると言っても誰も止めなかったンだ。しかも送別会すらやってくれない。だから最後の日は一人で有楽町駅前の寿司屋横丁に入ってコップ酒を飲んだ。あの恨みは一生忘れないね」とにやりと笑いながら毎回話して下さいました。

しかしフジテレビ志望の青年がニッポン放送に回されてしまったおかげで、音を大切にすることを学んだんだというエピソードは私の宝物であります。

来年テレビ朝日で放送される脚本家を描いたという最後の作品を楽しみにお待ち申し上げております。

倉本聰さん、ありがとうございました。

 

 

 

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