おいでよ!花音道場

2022.08.12

8月12日 御巣鷹の尾根

先週の日曜日、8月7日に、群馬県と長野県、埼玉県の県境に位置する「御巣鷹の尾根」(群馬県多野郡上野村)へ取材に行ってきました。1985年8月12日午後6時56分30秒ごろ、羽田空港発・伊丹空港行きの日本航空123便が墜落した場所です。

この事故では乗客乗員524人のうち、520人が亡くなりました。

 

今回、御巣鷹の尾根に登ったことで、事故への認識が大きく変わり、この事故の“重さ”が心に突き刺さりました。事故の重大さを本当の意味で体感、理解できていなかったのだと、取材を終えて強く感じています。

 

こちらは御巣鷹の尾根の登山口から、尾根に向かっている途中で撮影した写真です。

川の流れる音、風に揺れる木漏れ日がとても穏やかでした。

 

しかし、歩みを進めていくと、尾根に並ぶ墓標や、遺族の方々が記された言葉から、今この穏やかさからは考えられないほどの悲惨なことが起こったのだと現実を突きつけているように感じました。

御巣鷹の尾根にある「昇魂の碑」に至るまで、またそこから下山する過程では、ご遺体が見つかった付近に墓標が設置されたそうで、墓標には名前や年齢が刻まれています。そこには亡くなった方の写真や好きだったと思われるものが供えらえていました。

9歳の男の子の名前が記された墓標の傍には数々の電車のおもちゃが、40代男性の墓標の傍には沢山のゴルフボールが大切に置かれています。

女の子の名前が記された墓標に供えられたぬいぐるみは、何年も前から彼女の傍らにいるのでしょう、色あせていました。

 

何名もの墓標が連なっている場所もあれば、遠く離れた場所に一つだけ墓標が立っている場所もあります。

機体がどう衝突し破損したのか、機体前方は大きく焼損したこと、尾根からスゲノ沢まで機体後部が滑り落ちたことなど、当時起こった状況を考えながらその場に立つと、足が竦んでいることに気づくのが遅れるほど、強い恐怖で頭がいっぱいになりました。

 

捜索拠点の目印として、自衛隊員の方が記した大きな「×」のマーク、その傍にある観音様の見ている方向には、機体が一度ぶつかった「U字溝」が見えます。

観音様はジャンボ機が飛んできた方向を向いて立っているのだと、16年以上に渡って、尾根の管理を担当されている黒沢さんが教えて下さいました。

肉眼では遠く霞がかって見える「U字溝」にぶつかってから墜落するまで、たったの3秒だったそうです。

 

 

見つかった遺品や、遺書の映像は、毎年追悼慰霊式が行われる「慰霊の園」で見ることができます。ひしゃげた眼鏡や6時56分で止まった時計、血がにじんだメモ帳、

123便がたどったであろう経路、機長ら3名と管制塔のやりとり、当時の新聞。

全てのものから、緊急救難信号が出されてから墜落までのおよそ32分間の切迫した様子が生々しく伝わってきました。

 

下山しながら振り返った時、尾根全体を覆うほどの範囲で重なるように、数えきれないほどの墓標が並んでいたことが頭から離れません。

当たり前のように帰ってくると思っていた家族や大切な人が、突然帰らぬ人となったら、

私はどうするのだろうか、どうなってしまうのだろうかと御巣鷹山へ行ってからずっと考えています。

 

私の地元である群馬県で発生した事故ということもあり、

小・中学生の頃は地元紙の上毛新聞による講義が毎年ありました。

事故当時に取材していた方ではありませんでしたが、事故当時の記者たちが感じたこと、

伝えようとしたことを、丁寧に語って下さったことを覚えています。

また、家族から話をきくこともありました。

事故があった昭和60年、私の母は中学3年生。群馬県桐生市の学校で夏期講習を受けていたそうです。

そんな中「群馬に飛行機が墜落したかもしれない」というニュースが入り、教室が騒然となったと教えてくれました。まさかジャンボ機が落ちるわけないと思っていたので、現場の惨状を伝える速報にただただ唖然としたそうです。

身近な家族、新聞を通じて、小さな頃から毎年夏になると必ず事故の話に触れていたものの、実際に御巣鷹山に行くことはなく、今回が初めての訪問となりました。

 

上毛新聞編集局の北島さんにご協力いただき、改めて、墜落が報道された1985年8月13日、生存者が発見された8月14日、発見された遺書が掲載された8月19日の誌面はじめ、当時の新聞記事を読みました。日を追うごとに増えていく遺体の数、泣き崩れる遺族の方の写真も掲載されています。

 

13日、墜落場所を伝える誌面には、31年から37年まで広島カープで捕手だった竹下元章さんが搭乗されていた事も記載されていました。

群馬県にある東京農業大学第二高等学校野球部に所属するご子息を応援するため、甲子園へ向かっていたのだそうです。

 

 

また、東京に帰ってきてから、1985年の事故当日の深夜、生放送で対応に当たった上柳昌彦アナウンサーに、当時の話を聞きました。

朝まで、機体の墜落場所が分からず、スタジオにあるのは羽田空港で上柳アナがひたすらメモした524名の名簿と真っ白なキューシートのみ。お名前をひたすら読み上げていく中で、「隣の部屋に住んでいる学生が地元の大阪へ帰省すると言っていた。もしかしたらこの便かもしれない」「歌手の坂本九さんが搭乗されているかもしれない」といったFAXも届いていたこと、

翌朝、生存者4名が救助される様子を見て、自分は放送を始めてから朝まで何もできなかったと思い、無力感を覚えたことは、今でも忘れられないそうです。

 

 

昔私が受けたような、上毛新聞による学生への講義は、現在行われていないそうですが、

上毛新聞では毎年必ずこの事故のことを取り上げ、今年は遺族や関係者の記憶、証言を展開した連載記事を電子書籍化しています。

地元群馬県でこの事故を伝え続けている人たちがいてくれなかったら、私も同じように何が起こったのか伝えられるようになりたいと、今回御巣鷹の尾根に訪問し、取材を行おうと行動できていなかったかもしれません。

 

 

123便の事故で亡くなった「520名」、生存された「4名」。数字の重みを感じ、毎年振り返ってニュースをお伝えしたり、今回同行した飯田浩司アナウンサーに尾根に向かう途中話を聴いたりしていたつもりでした。

しかし、実際その場に立つと、本当に、ここで沢山の命が一瞬にして奪われてしまったのだという事実が目の前に広がり、感じていた大きな数字が、1つ1つの命の重みに変わったように感じます。

今まで見えていなかった、先も繋がっていくはずの人生や、家族との日常や未来が、墓標に合掌するたびに浮かび、この事故が消してしまったということを噛みしめながら尾根を歩きました。

 

御巣鷹の尾根の「昇魂の碑」の傍には空の安全を願う鐘と共に、メッセージを書き結ぶ場所が設けられています。

この取材を通して、私ができることは、自分のように当時生まれていなかった世代、この事故を知らない人たちに、感じたことをラジオを通じて届けていくことです。

2022年8月12日で37年を迎える日本航空123便墜落事故を絶対に忘れることなく、伝え続けていきます。