高田文夫のおもひでコロコロ

2022.01.31

第23回『日記を書こう』

コロナ禍。2年。時間ができる。そこで私は昨夏から こうして「おもひでコロコロ」を書いている。こういう時代 2行でも3行でも毎日メモ日記をつけておくといい。あとで大変な資料になる。私も そのつもりでこれを書き出したのだが何かと様々、世話を焼いてくれるLFの石Dが「2行3行じゃないでしょ。いきなりドサッと原稿が来るから・・・トホホ」とオミクロン対策で連日代打パーソナリティ探しで大わらわなのに・・・と愚痴りたい気持もよく分かる。気がついたら あの男も石Dから石Pにオミクロンの陰にかくれて少し出世をしていた。小さな処で出世したところで どうなるというものでもないが・・・。「ビバリー昼ズ」も連日代打代打。こんな時こそ老いたる最強代打。”ラジオ界のあぶさん”と言われる私も大忙しだ。イラストの佐野クン曰く「代打でなくプレイングマネージャーのノムさんですよ」だと。

でかい家に住みたいとか、でっかい車に乗りたいとか、おいしい物を食べたいとか・・・そういう田舎臭い下品な物欲が まったくない。都会の暮しは なるべくこざっぱり。生まれてこの方腕時計すら1回も身につけたことがない。高い物を身につけるのが恥しいのだ。田舎者みたいに飾り立てるのが嫌なのだ。生き方も「生成り」。私のこの脳味噌と身体だけが東京人のブランドなのだ。自分がこの芸界で味わった体験こそが私の豊かな財産なのだ。経験・体験だけなら ほとんどの作家には負けない自信がある。そんなこんなで何でも書き記しておいた方がいい。

いまの芸能界で1番のメモの日記者(突破者みたいだ)といえば水道橋博士。ひたすら毎日書きつづけている。田舎者だから根気がある。先輩達を見渡せば昭和の日記王。ストリップ劇場と私娼街に通いつめた粋な老人、永井荷風。かの「断腸亭日乗」は37才の時 書き始め79才の死の前日まで42年間書きつづった(1959年死去)。日記の横綱と言えば作家 永井荷風、芸人では古川ロッパの「ロッパ日記」だろう。エノケン・ロッパと並び称された昭和の喜劇王である。晩年の八ツ当り、愚痴がたまらない。心情を、胸中を吐露しすぎるのが面白い。ひとの日記をのぞくという背徳心がまたたまらない。

老人たちと同じように少年期(青年?)の日記も心をストレートに吐露していて読んでいる こっちがドキドキしてしまう。いつか読まれるという事も少しは意識していたのだろうか。まったく同時期に同い年の人の同じ17歳の時の日記が突然出版されてショーゲキ。ショーゲキ。どちらの出版社の人も知らなかったという奇跡。あの立川談志の17才の記録である。そしてイラストレーターNo.1。和田誠の17才の記録である。この2冊が ほぼ同時に昨年10月11月に出たという事がおどろきなのである。

「談志の日記 1953 17歳の青春」(dZERO)

「だいありぃ 和田誠の日記」(文藝春秋)

つべこべ言わず興味があったら読んでみて下さい。志ん生から100円のこづかいをもらって喜ぶ入門2年目の談志。その頃は柳家小よし。その一方「文楽なんか死んでしまえ」と書く。あの天下の名人に対してですよ。この日記はなんと死の直前まで書かれていたと言う。修行の日々の談志に対して同じ東京の空の下 和田誠は都立千歳高校へ通い毎日イラストを描き映画・音楽をむさぼるように楽しんでいる。私も近所の千歳高校へ行こうとしたが能力が少し足りなかった。ふたりの17才は1953年のこと。その頃私は まだ5才である。たしか2月10日に出る週刊ではなく月刊の「文藝春秋」にこの2冊について短く書いている。最初の発注は ぼう大な原稿量で2人の日記の検証、照らしあわせ、考察をと頼まれたのだが それだけの分量を書く体力もなく短いエッセイにしてもらった。あとは日記博士の水道橋に照らし合わせて検証してもらうしかない。それにしても和田の丸々1冊手書きの日記をそのまま本にしてしまったというところが凄い。これから10数年後には「名人・天才」直前の2人として出会い 世に談志・和田の名を知らしめる。私は和田氏とは談志の落語会の楽屋などで よくおみかけした。お茶をだしたこともある。

さて   私の17才の頃は調べてみたら明大前下車、世田谷区は松原にある日本学園の学生。世田谷の若旦那高校とも言われた男子校。歴史だけはひたすらあって名前からの響きは日大の付属のようだがとんでもない、とてつもなく日大より古いのだ。1885年 東京英語学校として創立された男子伝統校と資料に書いてある。古くは日本学園中学。OBは あの吉田茂、岩波書店創業者の岩波茂雄、日本画の横山大観ら沢山。戦後は荒井注、高田文夫、斎藤工、ダンカンの息子ら。そこへこんなニュースが飛び込んで来た。2026年から日本学園が明治大学の系列校になるという。オイッ オイッ きいてないよ。「日本学園」という学校名すら無くなっちゃうの?明治の下に入るってこと?オレが三宅裕司や志の輔の下に?世田谷の男子の少子化ってことなのか。生徒が居ないの?冗談じゃないよ。吉田茂が悲しむと思うと切ない。事前にひと言 言って欲しかったトホホ。

私の「17才」と言うと下の写真の通り。昭和40年前後 世の中はエレキブーム。”ベンチャーズ”そしていよいよやって来る”ビートルズ”である。17才の時の学園祭の模様。学校中の人気者でトンチマン。土日になれば銀座へ行ってみゆき族。何しろみんな坊っちゃんで都会の子、山の手の子だったから気が合った。

自分のバンドで歌いまくる私。プログラムにはたしか「歌ととっても楽しいおしゃべり・高田文」とあった。安岡力也の居るシャープホークスが主題歌を歌う「勝ち抜きエレキ合戦」(フジテレビ)にもチャレンジしたが即予選落ち。南新宿にある山野ホールで収録をしてた。なんたって毎週ぶっちぎりで「ザ・サベージ」が強かった。そう寺尾聰の居たバンドである。のちの「ルビーの指環」である。学園祭では私 エルビスからビートルズまで歌ったが「セイ・ママ」とか「のっぽのサリー」とか「悲しき願い」(英語バージョン。日本版は尾藤イサオで大ヒット)などもレパートリーにあった。私を目当てに近所の女子高生(JK)もいっぱい駆けつけた。

右の写真は私の”芸能IQ”の高さを物語る1枚。歌ったあとは盟友・山村クンと「国定忠治」のコントである。国定忠治をやるというのが時代だネ。今は分らない。(SE)効果音を時々エレキ音で入れてもらったりする凝りよう。この山村(頬っかむりしている)というのが本当に面白い男で、我が人生の中でも3本の指に入る爆笑王。先日 放送していたバナナマン設楽の高校時代「あいつ今なにしてる」とそっくりだったので笑った。お調子者で バンドをやっててずっと面白い男。男子校の醍醐味である。バンドの連中もひっくるめて皆な今なにしてるのか全然わからない。親のあとを継いで八百屋をマーケットにした奴とか取立屋とか何もせず家と土地をもらってボンヤリしてる奴とか自衛隊から本物のヤクザになって今では大親分になっている奴とか 本当に皆な自由に生きている。次に機会があったら載せるが私は小学校の頃から仲間を集めてコントを作っていた。高校でも御覧の通りだし日大芸術学部へ行けば落研で江古田の師匠と呼ばれていた。道を楽しむと書く本当に私は道楽者なのだ。プロ野球選手が小学生の頃からずっと野球だけやって来てるのと同じように私も小学生の頃から「笑い」を作り、演じ、今でも大好きでかかわっているのだ。ある意味「この道ひと筋」なのかもしれない。しかし極めたりする野暮な事はしない。”ユーモア”を評価はしない。面白いと感じる心が大切。

で、今回は「17才」とか「日記」について書いてきたので 私も「日記」関係の出版物はないかと本棚を探していたら・・・あらっびっくり。出してましたネ。

「笑芸日記 一九九六~二〇〇五」(ちくま文庫)です。私が48才から57才の男盛り、働き盛りの記録です。帯には たけしさんの「HANABI」からクドカンの「タイガー&ドラゴン」まで とあります。よく働き よく遊びの日常でした。たくさん体験して何でも書いとくもんですネ。

 

<P.S.>佐野クン新作「佐藤蛾次郎」。いい表情。

 

2022年1月31日

高田文夫

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。