高田文夫のおもひでコロコロ

2022.01.24

第22回『江戸に生まれて 東京に育つ』

私が40才の時。そう「ラジオビバリー昼ズ」が始まって少したってからである。89年か90年の頃だ。談志が「家に来てくれ」という。「なんでしょう?」「少し前までは東京の役者も芸人も何かあればクボマンだ アンツルだ エイロクだと言ってくれる人は居たでしょう。まっ そこに談志を入れてもいいでしょう。いわゆる芸の規準です。しかし さすがにオレも歳をとった。これからの東京の”芸”の規準を高田とする。それでいいでしょう。文句ある奴ァ オレン所へ言ってこい   」と。略語で呼ばれてこその東京のうるさ型である。江戸から明治の東京の文化を伝えて来た人達である。あの永井荷風を師とするのがクボマン(久保田万太郎)その流れからのアンツル(安藤鶴夫)そして浅草のお寺の子 我らがエイロク(永六輔)である。「オレももう歳だから若い奴らの芸が分らなくなった」と言った談志はその時まだ52歳。私が40歳なのである。芸界へ入ってきたばかりの談春・志らくを育てるべく「関東高田組」を結成。「ビバリー昼ズ」にもどんどん出演させ 世に東京の若手芸人の心意気をアピールしていった。まだ全く無名だった男達が「新選組」のように集まった。集結した。昇太、竹丸、勢朝、浅草キッド、大川興業総裁・大川豊、江頭2:50、松村邦洋、その他、出川哲朗やらウド鈴木ら色んな若手が顔を出していた。彼らの為に私とニッポン放送で主催したのが「高田文夫杯争奪 お笑いゴールドラッシュ」である。この項目は後に詳しく述べます。下北沢タウンホールである。M-1よりもずっと前のシビアなこの勝ち抜きライブの完成形の寄席として「我らの高田”笑”学校」を日刊スポーツと共に開催していった。こちらは できたばかりの新宿紀伊國屋サザンシアター。これと同時にテレビでは爆笑問題を復活させた「GAHAHAキング」(テレビ朝日)の審査員をつとめた。2代目のチャンピオンは、文句なしと太鼓判を押した「フォークダンスDE成子坂」である。彼らはゴールドラッシュでも勝っていた。ふたり共早逝。惜しい。みごとなコントであった。先日 テレ朝の「お笑い実力刃」で1時間 サンドウィッチマン アンタッチャブルらで特集していた。あの さまぁ~ずの三村をして「後輩だけど オレは少し盗んだ」と”関東つっこみ”の雄が言っていた。「GAHAHA」はレベルの高い闘いとなった。芸人達からなめられないようにと芸人より面白レベルの高い審査員が集った。口だけで論評するような頭でっかちなインチキ作家たちと違って 実戦でもすこぶる強さを発揮する連中、私、テリー伊藤、みうらじゅん、なぎら健壱、島田洋七らが集った。グゥの音も出ないメンバーである。10週勝ち抜きチャンピオンは初代 爆笑問題、2代目 フォークダンスDE成子坂、3代目 ますだおかだ。以上。本気のバトルは短期間で終わった。そこで爆笑の復活、成子坂へのスポットライト、ますおかの確かさを伝えた。吉本からはひと組も入らなかった伝説の番組となった。ちなみに・・・本当にちなみに余談ですが 司会は田代まさし、久本雅美だった。いまマーシーの名を書いて想い出したので写真を探す。誰かの結婚披露のパーティの席だろう。左から大竹まこと、高田文夫、田代まさし。なかなか見られない並びである。

業界の人間で相当”通”な人なら判るだろう。目を細めて私の左肩の後ろの席を・・・。そう、この腕組み、テレビ朝日の皇(すめらぎ)氏である。その隣こそ先日亡くなった水島新司先生である。「スポーツ大将」やなんかで世話になった関係だろう。で    結局これは誰の披露宴だったのだ?中山秀征?ヒロミ?ガタルカナル・タカ?73才ともなると写真1枚見てもそれがいつで何だったのか想い出せない。想い出す必要もない。

いま書いていても何故マーシーの話になったのか分らなくなった。今回は江戸明治の東京の香りを残してくれた作家について書こうと書き始めたのに・・・。私の知り合いの出版社の男が「岩波文庫で また久保田万太郎俳句集が出ましたよ。作った小唄も載ってます」と親切に教えてくれた。こういう世話焼きがまだ周りに居るから私の文化IQは保っていられる。「1977年の浅草喜劇人まつりのDVDが手に入りました。東八郎と深見千三郎がキレキレのコントやってます」「ノーパン喫茶の女王イヴちゃんのデビュー作、昔はよく一緒に学園祭まわってたでしょ」「八波むと志のいい絵が描けました」色んな みつぎ物が届き損得でなくこの歳になると嬉しい。久保田万太郎、安藤鶴夫、永六輔から私達へ。あまりにも有名すぎる久保田万太郎の句。

”湯豆腐や いのちのはての うすあかり”

73歳。そう私と同じ年令の時の句です。享年が73でした。どうです この奥深さ落着き。人生の達観。ツメの垢でも煎じて呑ましてやりたいオレに!最初の妻の死やら一人息子の逆縁やら妾のことやら老境の恋やら色々ありすぎる人生だから書ける、詠める句なのでしょう。私のお気に入りを紹介していきます。昔の子供達の姿が可愛いです。

”竹馬や いろはにほへと ちり゛ に(ちりぢりに)”

”時計屋の 時計春の夜 どれがほんと”

昭和14年 泉鏡花先生逝去せらる   で詠む

”番町の 銀杏の残暑 わすれめや”

私の家の近くに鏡花先生宅の跡がある。私の窓下から見える小道は「文人通り」と呼ばれ たくさんの有名作家、役者が住んだ。今は私だけ。私の知り合いが「文人通り」の看板の「人」の所を2本横線を入れ「文夫通り」にして町内会長におこられた。次も面白い。ロシア料理店にて詠める

”ゆく春や 鼻の大きな ロシア人”

私もこんな頃あったなぁと思えるのが

”飲めるだけ のめたるころの おでんかな”

30代40代の頃は私も本当に毎晩明け方まで飲んでいた。色んな方が死に向き合っている。菊池寛の告別式にて。

”花にまだ 間(ま)のある雨に 濡れにけり”

寄席ができた。柳ばし柳光亭 再建。

青すだれ むかし   の(むかしむかしの) はなしかな”

つねに正しく、つねに不幸なる菊田一夫に

”世のそしり 人のあざけり 野分(のわき)かな”

「そしり」とは人のことを悪く言う、陰口をたたくこと。「野分」とは台風のことだな。震災にも戦災にもあわずに東京のおもかげを残す湯島天神町を詠む

”さみだれや 門をかまへず 直(す)ぐ格子”

いかにも正しい下町ですね。「直ぐ格子」という いさぎよさがいい。稲荷町の三軒長屋に住んでいた正蔵(のちに林家彦六)師匠の家を思い出します。双葉山20年の土俵生活を捨てる

”一生に 二度と来ぬ日の 小春今日(けふ)”

「仮名手本忠臣蔵」始まる

”いろは仮名 四十七文字 寒さかな”

とうとう永井荷風先生が亡くなった。先生の若き日を語れと言われて   

”ボヘミアン ネクタイ若葉 さはやかに”

「ボヘミアン」とはジプシーと同じ。俗世間の掟に従わず気ままな生活をする人。芸術家。葛城ユキの大ヒット曲にも「ボヘミアン」がある。これを同メロディで「おてもや~ん」と歌ったのが「ひょうきん族」の山田邦子。永遠の別れが多い冬にこんな句も

”人のよく 死ぬ二月また 来りけり”

”また人の 死んだしらせや 冬ごもり”

友達、知り合いが多いとそれだけ別れも多くなる。いまの若い連中達みたいに友達も居ない人達は おいしい通夜の酒も知らないのだろうな。神田伯龍追悼の句に

”人柄と 芸と一つの 袷(あわせ)かな”

こんなにいい句もあるアハハ

”皿は皿 小鉢は小鉢 年の暮”

落語ファンの皆様お待たせしました。伝説の名著 安藤鶴夫の「落語鑑賞」の序にかえて   と詠んだ久保田万太郎の句

「船徳」

”四万六千日の暑さとは なりにけり”

噺家さんがマクラでも使ったりしてますからファンはよくご存じの句ですね。

「明鳥」

”大門といふ番所あり ほととぎす”

「酢豆腐」

”たゝむかと おもへばひらく 扇かな”

知ったかぶりの若旦那の姿が浮かんできますネ。「うーん 酢豆腐はひとくちに限る」<ドンドーン>お仲入りです。箸休めの意味も含めて 江戸の匂いのする私の3枚を特別に・・・。

ラジオに乗った永六輔。「火の用心」の半天。中は刺子(さしこ)私も母方の父が渋谷の鳶(とび)の頭で「なかむら」を名乗り町内を取り仕切ってました。今でもジャンジャーンときこえると私も真先に飛び出して行ってしまいます。「火事とケンカは江戸の華」。血が騒ぐのでしょう。志ん宿 末廣亭の札。浮世絵と同じ刷りものです。右橘らがやっている納札会(千社札の交換などする江戸っ子の遊び。私も名だけ会員)。なんともいい色味に仕上がっています。永の立体同様 佐野文二郎作の太地喜和子。「男はつらいよ」に出てきた太地の芸者”ぼたん”である。いい女。一度だけ・・・本当に一度だけ 新宿ゴールデン街「しの」で朝までふたりっきりで飲み明かし語り明かしたことがある。深夜2時過ぎ、いつもの様に”しの”は(私の大学の女先輩)飲みつぶれカウンターにつっぷして「グゥーグゥー」。他の客も帰ってしまい私と太地さんふたりだけ。「いい男ね」「いい女だね」そんな会話も無かったと思う。ひたすら呑みひたすら「芸」の話をする。朝6時。明るくなってきた。あれから太地さんは何処へどうやって帰ったのだろう。あれ以来 太地さんに会うことはない。

人柄がいいのに量産しすぎる作家 夢枕獏がガンと闘っている。ガンとつきあいながら連載を始めた月刊「オール読物」の「仰天・俳句噺」も楽しく読んでいたのだが この2月号で最終回だと自分で書いている。私のこのブログの初期の頃に昇太のパーティで私と戸田恵子らと一緒に嬉しそうに写っている。最後だと言いながら作った句がいっぱい。タイトルは「黒翁(くろおきな)の窓」だそうな。

”我が肉に からむチューブを 遍路する”

”死しししし 口にするなよ やつが来るからな”

”点滴てんてんてん 花冷えの夜”

”点滴の 古き恋かぞえるごとく”

”咳ばかりの ひと晩で窓しらしら”

”新縁を 凝っと見ている ガンである” 

”点滴の窓に 桜ラジオから昇太”

ずっとずっと「ビバリー」をきいてくれています。ガンバレ獏。夢を喰え。

 

2022年1月24日

高田文夫

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。