高田文夫のおもひでコロコロ

2021.09.24

第8回『正月特番の台本たち』

話が古すぎるのかなあ。若い人が喰いついてきてる手応えがない。もっと”BTS”の話とか「うっせぇ うっせぇ うっせぇわ」とか散りばめた方がいいのかな。只一人手伝ってくれている石Dにきけば「ブログですから読んでる人の数とか年収やなんか気にしちゃ駄目。なっ 志らら」すかさず志らら「あっ 報告遅れました。犬から許諾とれました」まだそんな事やってんのか。どいつもこいつも まったくクソの紙の役にもたたない。誰ひとり私を敬うという気持があきれる程無いのだ。71年からコツコツ台本書き出してTV出てラジオで喋って50年だぞ。芸能マスコミに50年居て、その間ずっとレギュラーが途絶えた事がないなんざギネスものだろ。50年の記念すべきYEARなのに私の周りの連中なんて誰一人「何かイベントやりますか」「記念本でも一冊作りましょうか」びた一文言って来ない。若い頃からさんざんタダメシ喰わせてやってきたのに血も涙も恩義も鼻クソも無い奴らだ。

そんな時「こんなポストカード作ってみました。お収め下さい」と言ってきたのが「週刊ポスト」でもコンビを組むイラストレーターの佐野文二郎だ。㊗が素晴らしいじゃないですか。「バウバウ」も「そんなこんなで」「いけるネ」「ごくろーさんな」も みんな散りばめてあります。私の似顔絵は、いま連載中の「ポスト」で使用しているもの。私の表情だけで数十種あって毎週変えております。そう言えば先日の「敬老の日」、松本明子が紅白のかまぼこをくれたのだが あれはどういう意味だったのだろう。敬ったのか。

ここ20年間くらいの事は番組のスタッフも雑誌の連載担当の編集者達も薄々は私のことを知っているだろうが、これが40年前 50年前となるとほとんど理解不能だろう。自分たちが生まれる前の話だからだ。「高田さんも いいけど古い事ばっかり喋ったり書いたりしてるな」まさか陰で言ってねぇだろうな。面倒くさいかも知れないが昔のことを聞いておくというのが今後の芸能文化、はたまた日本の為には必要な訳。温故知新だ。私だって若い頃は談志から、永六輔から、三波伸介から、三木のり平から、色々聞かされてきて「うっせぇ うっせぇ うっせぇわ」とも思ったが、今になってこういう立場と年令になると何でも聞いておいて良かった、芸能の財産だなと思う訳。芸能IQもあがるしね。

そこで記憶のヒントになる物をと考え   「ウラにある大きな蔵を開けてみてくれ」と爺やと婆やに言うと一日がかりで探してくれましたよ。そこへツルがやってきて「ここは開けないで下さい」。

<閑話休題>

とんでもない珍品の台本がかろうじて残っておりました。レギュラーの番組台本は あまりもう無いのですが珍の珍を   。70年代 80年代のお正月特番からです。

日本テレビの1975年(昭和50年)の元日特番。46年前です。構成の所に私の師であった塚田茂と私の文字が。若き日より いかに才気走っていたか。この時 私まだ26才です。司会が徳光和夫でこの番組のトリは美空ひばりでありました。資料として残してあるだけでも大衆芸能の価値としては莫大だ。

フジテレビのお正月と言えばド定番。「新春スターかくし芸大会」。ナベプロが仕切っておりました。毎年毎年「英語劇」だの「中国語劇」だのを放送し、おとそ気分を盛り上げました。私も様々書きましたが 蔵から出てきたのは作・高田文夫とある「フランス語劇 忠臣蔵」。配役表をみたら「大石蔵之助 五木ひろし」「大石りく 八代亜紀」次がいいなぁ「堀部安兵衛 清水健太郎」「浅野内匠頭 小松政夫」「俵星玄蕃 角川博」「吉良上野介 郷ひろみ」その他オールスター。

次は本当にびっくりですよ。我が身 我が目を疑いました。私が世田谷の坊ちゃんの頃、爺やと貸し切りで見た映画館の銀幕。そこには さっそうと馬に乗る「鞍馬天狗」のお姿。その人こそ大スーパースター嵐寛寿郎です。「杉作」を演じるのは天才子役 美空ひばりでしたネ。晩年のアラカン先生のお姿は高倉健の「網走番外地」でおみかけするのみでした。その人と その天下人と・・・私 一緒に仕事をしていたのですネ。放映はフジテレビ、昭和53年(1978年)1月5日のOA。表紙をめくるとプロデューサー新谷進英の名(当時CXの演芸はもっぱらこの人だった)。その隣に「作・構成 淀橋太郎、高田文夫」です。

ほとんどの人が分からないと思いますが「淀橋太郎」のこの名前、喜劇マニアはゴクリとツバを吞み込んだ事でしょう。東京喜劇界の大レジェンド作家です。その大先生と正月早々、私は作者として看板を並べているのです。当時の東京喜劇界は大さわぎでした。私が29歳の正月でした。そう「漫才ブーム」が来る2年前の話です。配役表をみると「座長 嵐寛寿郎」「座員 山城新伍・林家木久蔵・松島トモ子・・・」「座付作家 伊東四朗」「小料理屋おかみ ちあきなおみ」「旅人 西城秀樹」「チンピラ 球児好児」その他オールスター。

フジテレビの元日といえばこの番組。私も30年以上ずっと構成をやって来ました「初詣爆笑ヒットパレード」

時間は毎年少しずつ変わる場合もあるのですが、朝8時くらいから夕方まで。延々生放送で「東西の演芸人」がネタをみせるのです。「お笑いの紅白」とも呼ばれました。必ず明治神宮の中継先には青空球児好児。縁起物と言われる空のヘリコプター東京レポート。これに乗った人はその年”バカ売れ”するというジンクスを私が作り、古舘伊知郎やら稲川淳二、片岡鶴太郎らが乗っております。元日の生なので暮れの12月29日30日31日は演者のネタみせ。大みそか遅くに関西勢が来るので宿泊先のホテルで順にネタみせ。これが大変。台本一番上に構成 高田文夫の文字。偉かったのだ。

「爆笑ヒットパレード」では ほとんどの演芸人と仕事をした。司会が三波伸介の時代、三枝・やすしきよしの時代、ツービートの時代、たけし&さんまの時代、鶴瓶さんまの時代、ダウンタウンもMCをやった事がある。1日はCXで「爆笑ヒットパレード」(生)。2日はVだがTBSで「初笑いうるとら寄席」と節操がない。プロデューサーは「笑ってポン」でおなじみ「ビートたけしのオールナイトニッポン」でさんざんネタにされた桂邦彦。構成で私の上にいる「田村隆」とは青島幸男の弟子で昔の放送業界ではもっとも有名な作家。いかりや氏からは「おいっ タムセン」と呼ばれていた方。”田村先生”って呼ぶのが面倒だから略してタムセンである。私はタカセンとは呼ばれない。センセーである。これは三波伸介がそう呼び出し、たけしがラジオで使い始めた。

そして1月3日は また生放送でCXで午前中「放送演芸大賞」が15年間ほどつづけられた。東京と大阪のスタジオに作家がたしか・・・30名ずつ位集められて年間の大賞を毎年決めるのだ。東京のスタジオには塚田茂やら神津友好、矢野誠一ら超ベテラン。その中に最年少審査員として私が居た。大阪のスタジオには えらそうにして藤本義一が居た。各年大賞には柳家小さん、古今亭志ん朝、ツービート、明石家さんまら錚錚たる顔が並ぶ。

お正月の珍品見て頂きましたが大みそか部門でも珍しいものが。婆やが蔵から見つけてきた台本。そこへ作家の和田尚久からTEL。「子供の時にVTRでとってあったものが出てきましたので喜ぶと思って送ります」とDVDにして送ってきた。気がきく奴だ。

平成元年の大みそか。紅白のウラ。CXで19時から22時44分 生放送。CX開局およそ30年という事で私が作り、バラエティ史を語るならMCは永六輔の娘しか居ないと永真理にお願いした。生でからむ「たけし・島田紳助・さんま」が圧巻。クイズ回答者にデビューしたて初々しいダウンタウンの姿が。

大みそか 果たして「笑って逃げ切る」事ができたのか。そう言えば今年の大みそか(2021年)日テレの「笑ってはいけない」は やらない事になったらしいネ。やっぱりコンプラというヤツか・・・。時代も変わるネ。あゝ 方正ビンタくらわないのか・・・。

 

2021年9月24日

高田文夫

 

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。