高田文夫のおもひでコロコロ

2021.08.23

第3回『談志の提言』

8月も終りか、今度はパラリンピックだと言うそんな時に芸能界は大変である。

”エンタメ界の重鎮”メリー喜多川死去。

”銀幕のスター”千葉真一死去。

”上方落語の大看板”笑福亭仁鶴死去。

ショービジネス、映画、演芸。各ジャンルのトップofザ・ワールドである。

そんな中ひっそりと本当に小さく載った新聞の訃報に心かき乱された先生が居る。大学生時代最も熱心に読んだ「少年マガジン」の中にあった「ホモホモ7」のみなもと太郎である。私よりたった1歳上という事は読書中の頃の20年もあとになって知るのだが、どれだけ待ちわび笑いときめいたか。昭和40年代前半”ギャグ漫画界”はたしかに赤塚不二夫”ひとり横綱時代”。その大銀杏をねらうふたりの天才ギャグ師が私は大好きだった。

そう「アサーッ」谷岡ヤスジと「ホモホモ7」みなもと太郎だ。007のスパイもののパロディのようなものから大コミックになり劇画調となり東映仁侠映画風にすぐ変わるおもしろさ。作者は20代前半だというのにあれだけの世界を描けるとは相当な素養だろう。豊かすぎる知識だ。その後久しく見ないなと思ったら「風雲児たち」を連載し歴史漫画に新しい方向性を見出した。そのみなもと太郎先生が74歳で亡くなったのである。合掌。

こんな旬のネタも散りばめつつ3回目の「おもひでコロコロ」・・・・・考えてみればこのタイトルは「想い出ぼろぼろ」のようでもあり「コロコロコミック」のようでもあるな。みなもと太郎のようにコロッとこぼれ出る想い出の断片を書き記しておくのもこの年齢になると大事マンブラザーズな訳。

おかけでこの連載も好評で「タカダよくぞ73歳でブロガーデビューした」やら「SNSだYoutubeだの時代に何故今ブログなのか、そこが貴方の憎みきれないろくでなしな所」など賞賛の嵐解散。

 

  下の写真は嬉しそうな我が師・立川談志である。このとびっきりの笑顔がみたくて私は15歳の頃から追いかけまわしていたのかもしれない。(写真:ムトー清次©)

なにかの会の打ち上げで上機嫌な談志と私である。前には生ビール。すぐに師匠はハイボールにする。むこう側に居る白い帽子のあやしい男が談志の盟友・野末陳平。この時代はよく談志がお弁当を作り陳サマの所へ届けていたりした。ひとり暮らしの元国会議員、元プレイボーイ、元ドラマ作家の身の上を心配して・・・男の友情もいいものである。現在89歳の陳平翁の身の回りの世話は弟子の志らくの弟子の志ららが遺産目当てでまめに面倒を見てるが通帳をのぞいたら遺産なぞほとんどなくあるのは太田胃散だけ。もう「卆寿」だというのに心技体すべて元気。

昨日もこんな事を言ってたらしい「オイッ志らら。高田クンにそう言ってさ、浅草ロック座の招待券はまだ伯山センセイから届かないのかって。今劇場もすいてるからチャンスじゃないのか」視力はほとんどゼロなのにまだまだ生のストリップで楽しみたいらしい。いい事だ。

89年に帯で「ラジオビバリー昼ズ」がスタート。40歳を過ぎた頃には私のまわりには若い連中(芸人やら作家やらスタッフやら)が何かというと集まってきていた。

ある日、談志から「練馬の家に来てくれ」との話。そう「ビフォーアフター」で現在志らくが住んでるあの家。以前は談志が書斎として資料を読んだりして使い、若い弟子たちがあれこれやっていたあの家だ。

私が着くと「忙しい処、すまなかった」と私に気を遣った。弟子がモタモタお茶を持ってくると「何やってんだバカ野郎、高田センセーは忙しい中来てるんだ」と芝居がかってどやしつけた。高田40歳、談志52歳の頃の話だ。

「ウ~ッ、オレももう歳をとった・・・」「そんな事もないでしょ」と声に出かかったがやめた。話をきくだけにしよう。

「若い奴ら、若い芸人たちの事がもう分からなくなった。昔だったらやれアンツル(安藤鶴夫)だ、エイロク(永六輔)だ、そこに私も入るでしょう。何だかんだ、いい悪いを言ってやれた。もうダメだ。若いモノはお前に任す。高田が『東京の芸の基準』になってくれ。

高田がいいものはいい、ダメなものはダメ。ガタガタ言う奴ァ俺ン所へ来いと言ってやれ。オレがお前の目と耳にすべて託すんだから逆らう奴ァぶっつぶす。たけしの『たけし軍団』だってついているし、俺の『立川流』だってついてる。大阪の野郎が何か言ってきたら俺が受けて立つ」なんだか「仁義なき戦い」みたいな話になってきた。「組」でも立ち上げなきゃいけないのか・・・。

「うちにも最近デキのいい若いのが2人入ってきたろ。あ奴(いつ)らは噺家のバカ者達とつき合わせたくないんだ。高田に預けるからもっと世間を見れるように。他のジャンルの奴らともつき合わせてやってくれ。落語界なんて狭い世界で育てたくないんだ」

この時のふたりが青年、談春と志らくである。この辺のあれこれは談春の「赤めだか」志らくの「雨ン中の、らくだ」に詳しく書かれている。

ふたりに社会を教えてやるのはやぶさかではないが、”芸の基準”を高田とする・・・・・・か。 夜、事務所に戻り留守電をきくとまたお爺ちゃんの声。これで三日目だ。

「もしもし高田センセ~~(声が震えている)吉本が攻めてくる~~浅草に吉本がくる~~ッ(カチャッ)」なつかしい、マセキ芸能社のマセキ会長の声だ。内海桂子好江をかかえてウッチャンナンチャンらが入ってくる事務所だ。

90年代、新年会は我が家に集まるのが恒例となった。元日は毎年必ずフジテレビで早朝より(7時とか8時)夕方まで私の構成で縁起物の生放送「初詣 爆笑ヒットパレード」があるので暮れから各演者のネタみせなどもあって忙しい。演芸の紅白といわれた。トータルで30年以上ひとりでやってた勘定。司会者も三波伸介の時代から三枝・やすしきよしの時代、たけし・さんまの時代。1回ダウンタウンにもMCをやってもらった事もある。

故に新年会は2日から3日早朝までと決まっていて早い時間には小遊三が来たり(故)左談次が来たり。下の写真は96年のものが出てきたので・・・

東京笑芸界の風物詩となった。皆に料理を用意し(これは明け方。食べる物は片付けちゃった後だ)酒を用意し全員にお年玉。40代でなかなかやれる事じゃないよ。これがおよそ10年つづいた。談春も志らくも皆になじめたのでよかった。他にも大川興業(総裁)やら江頭2:50、林家たい平、ウド鈴木らもよく来ていた。いよいよ「関東高田組」である。

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    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。