スポーツ伝説

2023.03.24

2023年3月20日~24日の放送内容

【プロ野球  平田良介選手】
 野球の名門・大阪桐蔭高校では1年生の秋から4番を務め、2005年の高校生ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団した、右のスラッガー・平田選手。獲得を熱望したのは、当時の指揮官・落合博満監督でした。落合監督は、右方向にも大きい当たりを打ち返せる平田選手を高く評価していたのです。中日が北海道日本ハムファイターズと戦った07年の日本シリーズ、勝てば日本一が決まる第5戦で、落合監督は2年目の平田選手を先発で起用します。平田選手は2回、日本ハムのエース・ダルビッシュ有投手からライトに犠牲フライを放ち、貴重な先制点を挙げました。中日はこの1点を山井大介投手と、岩瀬仁紀投手の完全試合リレーで守って勝利。平田選手はみごと、チーム53年ぶりの日本一に貢献したのです。
 平田選手はここぞという場面での勝負強さも光りました。08年9月7日の横浜戦、同点の9回に代打で登場した平田選手は、右中間へサヨナラホームランを放ちます。これが記念すべきプロ初ホームランでした。さらに11年6月4日、平田選手は埼玉西武との交流戦でサヨナラホームランを放つと、翌日の千葉ロッテ戦でも2試合連続のサヨナラアーチを放ちます。個人の2試合連続サヨナラホームランはセ・リーグでは23年ぶり、中日では初の快挙でした。平田選手は17年間の現役生活で、通算1046安打、ホームラン105本をマーク。最後の9年間につけた背番号は、尊敬する落合元監督が現役時代につけていた6番でした。

   
【プロ野球  金子千尋投手】
 社会人野球のトヨタ自動車から、2004年のドラフト自由獲得枠でオリックス・バファローズに入団した金子千尋投手。4年目の08年、初めてシーズン2ケタ勝利をあげると、10年には17勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得。オリックスのエースへと成長します。そんな金子投手の目指した究極のピッチングは、バッターを一人一球ずつ、27球で試合を終わらせること。一球必殺の意識で、三振を奪うよりも凡打、特にゴロに打ち取るピッチングを哲学としていました。そのための最大の武器が、抜群の制球力と七色の変化球です。全盛期は、13年からの2年間。バットにも当てさせないキレ味を見せ、13年には最多奪三振。14年には最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得し、沢村賞も受賞しました。金子投手はその圧倒的な投球内容で、オリックスのエースから、球界を代表するエースと呼ぶにふさわしいピッチャーに成長したのです。
 七色の変化球を武器に、オリックス時代の14年間で120勝を記録した金子投手ですが、その変化球が生きるのは、150キロ超えのストレートも投げられたからです。しかし度重なるケガでストレートが走らなくなると、変化球も威力を発揮しきれず、18年にはシーズン4勝に終わります。金子投手は再起をかけ、北海道日本ハムファイターズへの移籍を決断。移籍1年目の19年4月、古巣・オリックス戦に先発した金子投手は、プロ初登板の球場・ほっともっとフィールド神戸のマウンドで、オリックス打線を5回1安打無失点に抑える好投を見せ、移籍後初勝利。この1勝で、史上18人目となる全球団勝利を達成しました。この年、金子投手は8勝を挙げますが、その後は勝ち星に恵まれず。昨年オフに日本ハムを自由契約となり、現役引退を決断しました。

  
       
【プロ野球  増井浩俊投手】
 社会人野球の東芝を経て、2009年のドラフト5位で北海道日本ハムファイターズに入団した増井投手。15年のプレミア12、17年のWBC日本代表にも抜擢され、まさに球界を代表する投手へと成長を遂げていきます。プロ入り1年目は先発でしたが、2年目の11年から、中継ぎとして抑え投手につなぐセットアッパーへ配置転換。この起用が功を奏し、56試合に登板して34ホールド、防御率1.84の好成績を挙げ、才能が大きく開花します。翌12年にはリーグ最多の73試合に登板し、共にパ・リーグ新記録となる45ホールド、50ホールドポイントをマーク。最優秀中継ぎ投手のタイトルに輝きました。14年からは抑え投手に転向し、翌15年には福岡ソフトバンクのサファテ投手と熾烈なセーブ王争いを演じます。最終的には2セーブ差でタイトルを逃したものの、自己最多の39セーブをマーク。パ・リーグを代表するクローザーとなりました。そして17年オフ、増井投手はFA宣言してオリックス・バファローズに移籍。翌年の6月、古巣の日本ハムを相手にセーブを記録し、プロ野球史上4人目の全12球団からセーブを挙げる快挙を達成しました。
 オリックス移籍2年目の19年、増井投手は立て続けに大きな記録を作ります。4月19日の東北楽天戦9回裏 1点リードの場面で登板すると三者凡退に仕留め、プロ10年目にして通算150セーブを達成します。さらにこの年9月2日の千葉ロッテ戦。同点の8回を無失点に切り抜けホールドをマーク。同時にプロ野球史上8人目となる通算150ホールドを達成しました。150セーブと150ホールドのダブル達成は、阪神で活躍した藤川球児投手以来、プロ野球史上2人目。パ・リーグでは初の快挙でした。オフに戦力外となり、今年1月に現役引退を決意した増井投手。通算成績は、551試合に登板して41勝47敗163セーブ158ホールド。2球団でリーグ優勝を4回経験し、2度の日本一を味わいました。

 

【プロ野球  門田博光選手】
 王貞治選手・野村克也選手に次いで、ホームラン歴代3位の567本を記録。今年1月に惜しまれつつこの世を去ったパ・リーグを代表するスラッガー、門田選手。プロ1年目の1970年は、野村克也選手が南海ホークスで兼任監督を始めた年でした。門田選手のバッティングの才能を高く評価していた野村監督は、翌年から門田選手をレギュラーに抜擢。4番バッターだった自分の前を打たせ、3番・門田、4番・野村のコンビが誕生します。この年、門田選手は打率3割、ホームラン31本、120打点を挙げて初の打点王に輝き、4年目の73年には南海のリーグ優勝にも貢献しました。
 身長は170㎝と野球選手としては小柄で、ホームランは2年目の31本が最高だった門田選手ですが、79年の春季キャンプでアキレス腱を断裂したことをきっかけに、打っても走らなくて済むホームラン狙いのバッティングに発想を変えます。小柄な体格のハンディを打球の威力でカバーしようと、重さ1kgのバットを使いフルスイングした門田選手は、80年に自己最高のホームラン41本を放ちます。さらに翌81年には、44本を放って初のホームラン王に輝きました。40歳になった88年には、44本・125打点をマークし2冠王を獲得。門田選手は史上最年長でパ・リーグMVPに輝き、”不惑の大砲”は流行語にもなりました。門田選手が40代になってから放ったホームランは133本で、もちろん歴代1位。ホームランを愛し、全打席で徹底してフルスイングを貫いた門田選手。44歳まで現役を続け、中高年の野球ファンに大きな勇気を与えました。

   
【サッカー ペレ選手】
 サッカーワールドカップ・カタール大会の興奮醒めやらぬ昨年12月29日、”サッカーの王様”ペレ選手が82歳でその生涯を終えました。1956年、ペレ選手は15歳でブラジの名門クラブ・サントスに入団。抜きんでた得点能力で頭角を現すと、16歳でブラジル代表としてデビューします。翌58年のワールドカップ・スウェーデン大会に17歳で出場し、準決勝でハットトリックを達成するなど、大会6得点をマークしてブラジルを初優勝に導きました。この大会でペレ選手がつけた背番号10は世界中でサッカーのエースナンバとなり、数々のスター選手が背負うようになりました。続く1962年のチリ大会、ペレ選手は1次リーグで負傷しましたが、ブラジルはワールドカップ連覇を達成。しかし66年のイングランド大会では、ペレ選手が徹底的なマークに遭い、ブラジルは1次リーグで敗退。3連覇を逃してしまいました。
 70年のメキシコ大会、ペレ選手は6試合で4得点と目覚ましい活躍を見せてブラジルを3度目のワールドカップ優勝に導きます。優勝を3回も経験した選手はペレ選手だけです。ペレ選手が戦争を止めたこともありました。69年、所属するサントスがナイジェリアでの親善試合に招待されたときのこと。会場のスタジアムへ安全に到着できるよう、ナイジェリアの地方政府が当時交戦中だったビアフラ戦争の一時停戦を決定したのです。ペレ選手はヨーロッパのクラブから何度も高額のオファーを断り、74年までの18年間サントスでプレー。翌75年から2年間は、アメリカのサッカーを発展させるためニューヨーク・コスモスでプレーして現役を引退しました。ペレ選手の10番を受け継いだブラジル代表・ネイマール選手はこう語っています。「サッカーとブラジルは、王様のおかげで地位を確立できた。ペレは永遠だ」

 

来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!

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    パーソナリティ
    • 滝本沙奈
      滝本沙奈
      滝本沙奈

      滝本沙奈

      生年月日:1984年6月6日
      出身地:東京
      学歴:青山学院大学文学部英米文学科卒
      趣味:マリンスポーツ(ダイビング、サーフィン、釣り)
      資格:PADIオープンウォーターダイバー、おさかなマイスターアドバイザー

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