高田文夫のおもひでコロコロ

2022.09.16

第44回『三国一の幸せ者』

「待たせたなぁ」。コント赤信号のリーダーなら こうやって入ってくるところ。玉置宏だったら「1週間のごぶさたでした」(古かった?)。この「おもひでコロコロ」は およそ3週間ぶり?こっちだって女王は亡くなっちゃうし香川は何処かへ行っちゃうしで なにかとバタバタ忙しい。そんな折「オールナイトニッポン」(以下ANN)が55周年記念らしい。「ニッポン放送が こんな本を作りましたのでチラっとでもいいので見て頂ければ」と石田電機が1冊の本をくれた。すぐにドローンで消えた。

いまOAしているANNのパーソナリティのタレントや芸人、それを担当する若き放送作家の証言集。みんな若い、若すぎ千夏。若すぎ晋作。『深解釈 オールナイトニッポン ~10人の放送作家から読み解くラジオの今』「今」を語るのも大切だけど55年という実績、過去、歴史、型を知っていないと「型」を破る”型破り”な今を作れない。「オールナイト」で「放送作家」と言えばこの”私”でしょ。私が世に出たので今のラジオ・深夜放送の形ができたと自負している。まずこの本には私へのリスペクトがまったくないアハハ 失礼な話だ。帯に曰く『パーソナリティの横には いつも放送作家がいた』と書いてあるが私はドーンと真正面に居てビートたけしの話、ネタおろしをすべてアドリブで受けとめ話を広げ番組を生の最中に構成していった。これが生。これがライブなのだ。今から41年も前の話だ。1981年「ビートたけしのANN」スタート、90年までつづいた。あの頃は田舎から出てきたフォークシンガーみたいな人が「ラジオの前の貴方へ」なんて したり顔で深夜にぬかしてたがツービートの片っ方にそんなインチキくさい事はやらせられない。根っからの板の人、舞台の人なので何か言ったらすぐにドッと反応が来ないと喋れない 進めないのだ。それでもニッポン放送側は「高田さんは声を出さないで。筆談でお願いします。紙に書いて次の指示。たけしさんはラジオの向こうの人にささやいて下さい」そんな事できる訳がない。しゃべってうけてのっかって笑って   深夜のネタおろしライブをこちらはきかせたいのだ。いちいち筆談してたらテンポが出ない。リズムがこわれる。数ヶ月して私も声を出して笑うようになって つっこみも入れた。たけしも調子が出てきた。ニッポン放送と真逆の方法をとったらうまくいった。私は第1回の最初の宣言にこう書いた。たけしは力強く読んだ。「この番組は ナウでヤングな君達の番組ではなく完全に私の番組です!」このひと言で その後のビートたけしの芸能活動のあり方が決まった。以後独走する事となる。私は放送作家の初代とも言える青島幸男、永六輔、大橋巨泉らが常々言っていた「放送作家ってのはタレントと同じ位面白くてタレントの10倍アイディアがなけりゃ駄目」台本だけ書いて本番に立ち会わないなんてのは”放送”の作家ではない。構成台本書いて 生で喋っても面白い それがこの仕事と青島も永も言う。巨泉はもっと言う。自分が1番面白いと思っていた節がある。私は50年も前から「書き手」と「喋り手」の二刀流だった。それがこの仕事だ。モノを書くだけなら家にこもって売れない小説でもシコシコ書いていりゃいい。原稿を書く、アイディアを言う、面白く伝える、スタジオをあたためる・・・全身で表現をしてこその放送作家なんだと思う。我々は”放送”、ブロードキャスティングなんだよ(私は日芸 芸術学部 放送学士だ)。

「ビートたけしのANN」で出した本10冊を特別に公開しちゃおう。温故知新ってヤツだ。若い放送作家諸君は知らないだろう。

 

「ビートたけしの三国一の幸せ者」

(昭和56年7月・1981)

スタート当時の勢いがすごい。「村田英雄コーナー」「たまきん全力投球」etc。不幸の尺八を背負ったたけしがグッド。あきれる程売れた。局からはスタートして3ヶ月だけと言われていたのでヤケで作った。木曜深夜が伝説となった。笑芸文化の革命だった。

 

 

 

 

 

「ビートたけしの幸せひとり占め」

(昭和56年12月・1981)

1冊目が売れたので慌てて2冊目をデッチあげるもインチキ商法にほとんど売れず。たけしと高田の台湾旅行の写真集など。

 

 

 

 

 

「ビートたけしのおもわず幸せになってしまいました」

(57年10月・1982)

「この世のものとは思えぬあの世コーナー」など。たけし&高田 天狗になって絶頂期。私34才である。

 

 

 

 

 

 

「ビートたけしの無条件幸福」

(58年・12月・1983)

表紙イラストはここまで日暮修一。もはや超伝説「戦場のメリークリスマス」のラロトンガ島ロケの話など。

 

 

 

 

 

「ビートたけしのニッチも幸も」

(59年12月・1984)

表紙は これより小槻さとし。著者名もこれより「オールナイトニッポン&高田文夫篇」となっている。フロッグマンが大パニックさわぎ。

 

 

 

 

 

あっ時間だ。延長料金とられちゃうから今日はここまで。すぐに続きを書いて載せます。特別サービスとして「幸せひとり占め・ハクションカメラ術」より。たけし初の海外旅行写真。今では「世界の北野」と呼ばれているが人生初のパスポートは私が有楽町交通会館へ連れて行き とってあげた。あどけない少年のように機内で眠るふたり。いたいけすぎる。もう1枚は機内でバッタリ会ったロケ帰りの ぼんち・おさむ、白都真理と。あの頃は飛行機の中でも煙草が吸えた。いい時代。

「ANN」については また機会をみてゆっくり書きます。次回は出版本のつづき。

 

2022年9月16日

高田文夫

 

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。