2019年08月16日

8月15日と、その後

 先の大戦が終わって74年となった昨日8月15日、令和となって初となる全国戦没者追悼式が日本武道館で行われました。
 
<74回目の終戦の日を迎えた15日、令和で初めてとなる政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京都千代田区)で開かれた。天皇、皇后両陛下のご臨席のもと、安倍晋三首相や全国各地の遺族ら計約7千人(付き添い含む)が参列。先の大戦で犠牲となった軍人・軍属約230万人、一般国民約80万人の計約310万人の冥福を祈り、平和への誓いを新たにした。>

 日本ではこの日に戦争が終わったとされていて、先の大戦に思いを馳せ不戦の誓いを新たにする日と受け止められていますが、国際法上戦争が終わったのはこの日ではないと指摘する向きもあります。連合国が発出したポツダム宣言を、日本政府は前日の14日に受託刷する旨通告、15日はその事実を広く国民向けに知らせた日でありました。
 翌16日には即時戦闘行動の停止を命令しましたが、その命令には但し書きで「自衛のための戦闘行動は之を妨げず」とあり、実際には15日以降も局地的な戦闘は続いていたわけです。その後、9月2日、戦艦ミズーリ艦上で日本政府を代表して重光葵、大本営を代表して梅津美治郎がそれぞれ降伏文書に署名しました。国際法上は、この9月2日が連合国にとっての対日戦勝記念日、日本にとっての敗戦の日となるわけです。
 8月15日から9月2日までの間は、現在の日本の領域とされる範囲では武装解除が行われ、ほぼ平穏に占領体制への移行が進んでいきましたが、他方「外地」と形容された朝鮮半島、満州(中国東北部)、東南アジア、南洋諸島各地ではここから過酷な引き上げが始まり、多くの同胞が命を落としたこともまた、我々は心に刻まなければならない辛い歴史のひとつでありましょう。そして、その一つが、千島列島、北千島の占守島、幌筵島でした。
 
 先日根室を取材した際、北方領土の戦後の経緯や住民の暮らし、戦後の返還要求運動の変遷を紹介する北方館の小田嶋館長にもお話を伺いました。その中で千島列島の終戦直後の歴史もジオラマなどを使いながら詳しく説明してくださいました。
 占守島には終戦当時、満州から転属した精鋭戦車部隊である戦車第11連隊などがおり、隣の幌筵島には第91師団主力が配置されていました。想定された敵軍はアメリカ軍。アラスカ方面やベーリング海から上陸してくるであろうことを想定していたのです。終戦の玉音放送とそれに続く戦闘停止命令を受け、終戦作業に当たっていた現地の日本軍は、当然アメリカ軍が武装解除に来るのだろうと考えていました。
 ところが、そこへ現れたのはソ連軍。どうしてアメリカではなくソ連だったのか?戦後随分たってから発覚したのですが、ヤルタ秘密協定によってソ連は対日参戦の見返りに千島列島を得る約束でした。ところが、日本軍の降伏受け入れ分担ではそこが明確になっておらず、降伏文書調印までの間に勢力下にあるという既成事実を作るためにスターリンが軍を進めたと言われています。

 占守にいた日本軍は、北方での戦闘がほとんどなかったために弾薬・糧食ともに比較的豊富にありました。その上、この夏の季節は缶詰工場が操業中。女子工員400~500人を含む漁業関係者など、2千人規模の民間人が島内に留まっていました。上陸し、蹂躙しようとしたソ連軍に対し、自己防衛と民間人防衛のためにも、日本軍はやむ無く再び銃をとったのです。
 数の上ではソ連軍の方が圧倒的に有利でした。が、多数の戦死者を出しながらも押し返し、要地を奪還したところで一旦進撃を止め、停戦に向けて使者を差し向けます。なぜなら、自己防衛のための必要最低限の反撃以上は認められていなかったからです。そして、降伏、武装解除。2万を越す兵力だった91師団のうち、実際に戦闘に参加したのは8千人強でした。
 その後ソ連軍は千島列島を南下しつつ日本軍を次々と武装解除していきました。それとともに、千島列島にソ連各地からソ連人を移住させていきます。千島で暮らしていた日本の民間人はしばらくの間ソ連人とともに暮らしていましたが、2年後の1947年、日本への帰国を希望する日本人は樺太経由で北海道へと帰還しました。戦後の千島での暮らしは厳しく、栄養状態も悪く、北海道につくまでに命を落とした方もいたということです。

 では、武装解除された軍人たちはどうなったのか?そのまま日本に帰れたわけではありませんでした。ソ連は目的も告げぬまま旧日本兵たちを船に乗せ、使役労働するためにシベリアに連れていきました。シベリア抑留です。また、占守に散った日本兵の亡骸は弔われることもなく、そのまま千島の土に還っていきました。南方や硫黄島での遺骨収集がニュースになることがありますが、千島や樺太にも取り残されたご遺骨がまだそのままになっています。戦闘があったのですからそうなのですが、小田島館長にそう言われたときに、私は衝撃を受けました。戦後74年、ここでもまだ戦後は終わっていないのです。現在は、ロシアの団体が遺骨収拾を行っています。

<ロシア・サハリンや千島列島北東端のシュムシュ島(占守島)で、第2次大戦で犠牲になった旧日本兵や旧ソ連兵の遺骨を現地の団体「ロシア探索運動」が収集している。厚生労働省によると、同団体は日本人とみられる遺骨49柱を返還した。サハリン支部長のアルチョム・バンドゥーラさん(37)は「祖国に遺骨を返したいとの思いで活動している」と語る。>

また、来月には占守島で慰霊祭も企画されているようです。
<1945年(昭和20年)8月の終戦直後、千島列島北東端のシュムシュ島(占守島)で旧ソ連軍と激闘を繰り広げた旧日本軍守備隊の遺族や関係者が9日、「占守島戦没者追悼慰霊の会」を設立した。戦闘が始まった8月18日に毎年、札幌市内で慰霊祭を開くほか、今年9月には現地への慰霊の旅を予定。若い世代などの参加者を募っている。>

 8月15日を境に戦中と戦後がくっきりと別れたわけでもなく、日本人すべてに平和な世の中が訪れたわけでもありません。終戦の日に思いを致すとき、その日以降に幾多の苦難に向き合った同胞がいたこともまた、忘れてはならない事実であろうと思いました。
書籍
プロフィール

飯田浩司(いいだ・こうじ)

1981年12月5日生まれ。
神奈川県横須賀市出身。O型。
2004年、横浜国立大学経営学部国際経営学科卒業。
現在、ニッポン放送アナウンサー。
ニュース番組のパーソナリティとして政治経済から国際問題まで取材活動を行い、ラジオでは「議論は戦わせるものではなく、深めるもの」をモットーに情報発信をしている。
趣味は野球観戦(阪神タイガースファン)、鉄道・飛行機鑑賞、競馬、読書。

■出演番組
≪現在≫
「飯田浩司のOK!COZY UP!」

≪過去≫
「ザ・ボイス そこまで言うか」
「辛坊治郎ズーム そこまで言うか」

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