上柳昌彦 ラジオの人

2022.01.30

大船「観音食堂」に寄せて

先週の25日火曜日の夕方、自宅でビールを飲みながら早めの夕飯を食べていました。

ラジオを聴きながらテレビは音を小さく流して観るという典型的なニュース番組おっかけおじさんのスタイルです。

テレビの画面に「鎌倉で火事」というテロップが出たので「おや?どのあたりで?」と何気なく火災現場の映像を見ると「なんかここ知っている!」という既視感が。

音量を上げるとやはりそうでした。慣れ親しんだ大船駅前のにぎやかな商店街だったのです。

火事があったの大船観音とは反対側の出口を降りて、細長い商店街に向かう角にあるお菓子屋さんとその隣の「観音食堂」であることが判明します。

私が大学1年の時に父が初めて家を買ったのが大船でした。池袋の大学まで通いきれないとすぐに家を出ましたが、ニッポン放送に入社した2年目から3年間ほどは大船の実家から有楽町に通っていた時期もありました。

大船と言えば「観音食堂」といわれるほどのランドマーク的存在で歴史ある飲食店であることは勿論知っていましたが、その店がもらい火で焼けてしまったのです。

次の日の番組には大船近辺のリスナーの皆さんから「あの観音食堂が!」というお見舞いのメールが多数寄せられ5時の冒頭で私の思いとともに紹介をしました。

するとなんと「観音食堂」と隣の魚屋さん「魚廣」を経営する方から番組にメールが届いたのです。

「火事を知って室内に入ったがそこまで火は回らないだろうと思いご両親の位牌や通帳、印鑑などを持ち出さなかったことが悔やまれます」「幸い誰もケガをしなかったのでなんとか再会に向けて歩みだしたいです」とありました。

今は実家も無く大船の駅に降り立つことはほとんどないのですが、かつてはいつも当たり前のように前を通っていた「観音食堂」と「魚廣」の方が「あさぼらけ」のリスナーで、横浜の市場に早朝仕入れに行く際にお聞きになっているという事でした。

携帯の番号があったので大変な時とは思いつつお見舞いの電話をさせて頂いたところ「もともとあの場所で祖父が魚屋をやっていて父親の代から食堂になりました」「姉が観音食堂を経営しながら上に住み、自分は横浜から隣の魚屋に通っています」とのことでした。

その話を番組で紹介したところ「店が再会されることを心から願っています」というメールがこれまた多数寄せられました。

私に何ができるという訳でもありませんが再開の折には是非お力になれればと切に願っています。

ここまで書いてから実は鎌倉に今年初めて墓参りに行きました。
時期が時期だけにどうしたものかと思ったのですが、この状況と曇り空で寒かったこともあり江ノ電などは日曜日とは思えないほど空いていました。

思い立って帰りに大船駅で降り観音食堂を訪ねたのですが、近づくにつれて辺りにはまだ焦げ臭さが漂っていました。

建物はよくこれでけが人が出なかったと思えるほどの焼け跡が火元の菓子屋と「観音食堂」、そして「魚廣」に広がっていて周囲には多くの方々その光景を呆然と見つめている姿がありました。

そしてその人々は、昭和15年に始まった鮮魚店の魚廣と昭和35年に開店した観音食堂の歴史を一瞬にしてこのような姿にしてしまった火事の恐ろしさをいやというほど知らされるとともに、それでもまた再びこの地に店が開かれることを皆が信じているように私には思えたのでした。

再会の向けて頑張ってくださいと軽々しく言えるほど簡単な事ではないと知りつつ、それでも私たちはその日が来ることをいつまでも待ち続けます…