永六輔さんが亡くなられました。
ラジオを熱心に聴き始めた70年代。TBSの「土曜ワイド」を聴くために急いで帰ることもあったと記憶しています。スタジオには永さん。中継リポーターは若き、そして病み上がりだった久米宏さん。
早朝から夕方までの超ワイド番組の楽しさと、マイク一本でこんなことが出来るのと音の世界の奥深さを、永さんに教えていただきました。
久米さんはスタジオの永さんを面白がせることだけを考えて中継をしていたと後に語ったのは有名な話です。
「私はTBSラジオに義理がありますから、他局には出ません!」と常日頃おっしゃっていましたが、(高田先生のラジオビバリーヒルズには永さんと先生の長きにわたる関係性から例外的にご出演になっていました)2004年のニッポン放送開局50周年特番に「ニッポン放送に物申す」というテーマで事前収録という形で登場していただきました。
指定された駿河台の山の上ホテルにジーンズにサファリジャケットにショルダーバックと言う、いかにも旅の途中的ないでたちで本当に颯爽と部屋に入って来られた永さんは、挨拶もそこそこに「年配の方も多く聞くTBSにはない若い感覚をもっとニッポン放送には持って欲しい」「9・11同時多発テロがあった週に、あえてコーランを流しイスラム教徒だったロイ・ジェームスさんはいかに人柄が素晴しい人であったかを伝えた」「いやなニュースを何にたとえどう伝えるか工夫して欲しい」そして「今はニッポン放送の顔が見えない」など1時間以上にわたってお話いただきました。
実は後半の大部分は、これまでの永さんの仕事について、私の興味のままに話を伺いまくったと言うのが本当のところなのですが。
ですから帰り際に永さんは「君は私のことを調べすぎている!」と私を叱り飛ばしててまた颯爽と部屋を出て行かれたのでした。
再びご出演いただけたのはそれから7年後の2011年4月22日の生放送でした。
東日本大震災から1か月と少しの頃、ラジオからは「上を向いて歩こう」がよく流れていました。この歌の持つ力はなんだろうということを伺いたくて電話で永さんに詞の誕生秘話を伺いました。
中村メイコさんが神津善行さんと婚約したことを聞いた永さんが、ショックで涙してというエピソードは有名ですが、あの日は「歩きながら歌える歌を作ろうと思った」「泣きたいのだけど泣けないという歌を」「そして少年が涙をこらえて上を向きながら歩く姿を想像して書いた」とお話し下さいました。
きっとどちらも本当の事なのだと思います。被災した東北の少年が涙をこらえながら懸命に歩く姿を思い浮かべながら放送を聴いた方も多かったことでしょう。
永さんからは放送後にすぐにお葉書をいただきました。私がどこにお礼状を書けばいいのだろうと考えている頃には、事前に出していたのではないだろうかと言う早さで葉書が届くのです。
「ラジオは『法にのっとり、比喩を用い、因縁を語るべし』です。またお会いしましょう」
永さんに教えていただいたことは何一つ出来てはいませんが、この言葉は私の宝物なのです。
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