ニッポンチャレンジドアスリート

2025.10.13

井谷俊介(パラ陸上)

1995年生まれ、三重県出身の30歳。2016年、大学3年生のときに事故で右ヒザから下を切断し、義足生活になりました。2018年から本格的に義足で陸上競技を始め、10月のアジアパラ競技大会の100mで優勝。2019年、世界パラ陸上では日本人で初めて100m決勝に進出しました。2023年、アジアパラ競技大会・200mでアジア人初の22秒台をマークして優勝。2024年、200mでパリパラリンピック出場を果たし、7位に入賞しました。3年後のロスパラリンピックでは、初のメダルを狙います。

◾️義足でカーレースを続けていた井谷選手。一方で地元・三重に義足のランニングチームがあることを知り、月に1度、練習会に参加するようになった。

「その頃はですね、ジョギング用の、小さな板バネを使って走ったんですが。初めてその板バネを履いたときにですね、自分の、自身の足で走る。その気持ちよさを感じたのがですね、すごく嬉しかったです」

◾️大学卒業後に上京した井谷選手。当時は、義足でカーレーサーと東京パラリンピック出場の二刀流を目指していた。

「大学4年生のときにですね、カーレースの活動をしている中で、スポンサーを自分で探していたんですよね。で、僕自身がそこでカーレースの夢、そしてパラリンピックの夢を叶えたいんだっていう風に伝えたところですね、すごい熱意に共感してくれて。プロのカーレーサーの脇阪寿一さんに紹介していただいて」

「大学4年生の間、脇阪さんの元でですね、レース活動についてたくさんのことを学ばさせてもらいながらですね。仲田トレーナーであったり、就職先、いろいろな部分の環境を整えてもらいました」

◾️陸上でも山縣亮太選手、福島千里選手を指導した仲田健トレーナーのもとトレーニングに励んだ。その後、練習をパラ陸上一本に絞った井谷選手。きっかけは、プロのカーレーサー・脇坂寿一さんのひと言だった。

「脇阪さんに出会って、僕自身はレーサーとパラリンピックの夢を叶えたい。ただ、現実、資金的な部分で厳しい状況で。陸上競技に関しては競技用義足が高くて買えない。で、脇阪さんがそのときに付き人……カバン持ちみたいな形で大学4年生のとき、ずっと学ばさせてもらって。そこから4年後にパラリンピックが迫っているから、パラリンピックにまず挑戦しよう。それが終わってからカーレースをやったらどうだ、っていう風に挑戦を始めていきました」

◾️井谷選手の国際大会デビューは、2018年5月に行われたパラ陸上の「北京グランプリ」。井谷選手は100mで金メダルを獲得する。

「実力はないけど、変な自信があったのかもしれないですね。やっぱり「勝ちたい」とか。そういう気持ちの方が強いだけの時でしたね」

◾️2018年10月、インドネシアのジャカルタで行われたアジアパラ競技大会に出場した井谷選手は、100mで優勝。始めて1年で金メダルを獲得し、一躍注目された。

「このときは金メダルを目指して、アジア記録の更新を目標にですね、試合に臨んでいました。予定通りっていうとあれですけど、目標達成できた大会でしたね」

「まだ2018年のときは、メダルが取れるとか、そういうのは自分ではあんまりまだ思ってなくて、メダルを取りたいっていう気持ちの方が強い頃でしたね。周りの人もですね、競技を始めて、ずっと応援してくれてる人たちもですね、すごいその成績を喜んでくれて、東京パラリンピックが楽しみだねって言ってくれるのがすごい嬉しかったですね」

◾️2019年11月、ドバイで行われた世界パラ陸上、井谷選手は日本人選手で初めて100m決勝に進出。東京パラリンピックの有力候補となった。しかし、その後調子を崩し、出場を逃した。

「世界選手権で結果を出したことによってですね、すごく自信を持つのはいいんですけれども、それが変に、自分は大丈夫だっていう、甘さを生んでしまって。トレーナーであったり、また脇阪さんからの意見とかっていうのをですね、素直に聞けない、聞く耳を持たない状態になってしまっていたのが、成績不振につながったのかなと実感考えています」

「当時、最後の選考の大会で優勝した方の選手が、リレーの代表として、パラリンピックに出られますよっていう状態だったんですよね。で、僕自身、その最後の選考のレースで2位になってしまって……」

「その日、試合から家に帰ってもですね、もう寝られないぐらい、心がですね、ポカンとしてしまう状況で。自分自身が足を失った意味であったり……否定的になってしまう状況が半年ぐらい続きましたね」

◾️東京パラリンピック終了後、練習拠点を東京から大学時代に過ごした愛知に移し、1人でトレーニングを始めた。改めて自分を見つめ直した結果、2023年、アジアパラ競技大会200mでアジア人初の22秒台をマークして優勝。復活を遂げた。

「気持ちの変化が1番大きかったかなと思ってますね。2022年、愛知に戻った年にですね、夏、7月にですね、自己ベスト100メートルで3年ぶりに更新したんですよね、その時に。その7月の大会でタイムを伸ばすことができなかったら、もう引退しようっていう風に覚悟を決めて、競技に向き合ったんですよね」

「そのときにですね、そのレースで自己ベストを更新して。またその翌年も100m、そしてアジア大会で200mのタイムを更新してっていうのがですね、成績不振だった自分を脱出して、また上向きに成長できたところでしたね」

◾️ついに出場が叶ったパリパラリンピックの大舞台。ところが、井谷選手はこのとき、義足をしている右足太ももを痛めていた。万全ではない状態で臨んだ男子200m決勝、結果は7位入賞だった。

「現状ですね、ケガが多かったシーズンで、うまく調整して、まずここまで来れただけでも合格かなっていう風に思えるレースでしたね」

「自分自身ですね、メダルを取って、こうたくさんの人を喜ばせたいと思っていて。やはりそのメダルが取れなかったっていう悔しさが大きかったんですけれども。いざですね、結果を報告すると、応援してくれていた人たちみんなが決勝の舞台を走ったことを喜んでくれて。それを見た時にですね、こう、メダルには手が届かなかった。でも、たくさんの人を喜ばせるっていう夢を叶えることができたなという風に達成感を感じることができました」

「脇阪さんも仲田トレーナーもですね、非常に喜んでくれて、また2人のその顔を見たときに、本当にですね、僕自身も嬉しい気持ち、そして感謝の思いがですね、深く大きくなりました」

「僕自身がこう夢に挑戦したくてもできなかった。そんなときにですね、手を差し伸べてくれた2人だったので。本当に2人がいなければ挑戦もできなかったし、再出発することもできなかった。本当に自分の人生にとって大きな存在の2人でした」

◾️3年後のロスパラリンピックに向け、井谷選手は1人でトレーニングを続けている。

「変わらず基本的には練習は1人でやりながらで、また週に何度かとか、月に大体2回か3回は仲田トレーナーの元に行って練習をして。普段は1人やりやりながらリモートで仲田トレーナーとやっております「」

「来年、今住んでいる愛知県でアジア大会が開催されます。それがですね、最大の目標です。みんな応援に行くよって言ってくれて、非常に楽しみな大会です」

◾️井谷選手に、パラ陸上の魅力を聞いてみた。

パラ陸上、陸上競技自体がですね、非常にわかりやすいスポーツで。さらに、義足を使ったり、技師を使ったり、車いすを使ったりっていう、いろんなですね、パラだと選手がいて。選手それぞれいろんな工夫をして競技をやっている。そういう部分を見ていただけると非常に面白いのかなと思います」

最新これまでのゲスト(過去アーカイブを音声で聴けます)
  • TOYOTA
  • アース製薬
  • 2015年3月までの番組ページ
  • 2024年3月までの番組ページ
  • 番組YouTubeチャンネル