ニッポンチャレンジドアスリート

2025.05.12

山田真樹(デフ陸上)

1997年生まれ、東京都出身の27歳。アスリートと俳優の“二刀流”で活躍しています。幼い頃から聴覚に障がいがあり、脚の速さを生かして大学卒業後はデフ陸上の選手として活躍。2017年、トルコで行われたデフリンピックで200mと4×100mリレーで金、400mで銀と3個のメダルを獲得しました。2022年、ブラジルで行われたデフリンピックにも連続で出場。今年11月に行われる東京デフリンピックでメダル獲得を目指します。なお今回は、手話通訳を介したインタビューになります。

◾️子どもの頃から、スポーツが大好きだった山田選手。陸上競技を始めたきっかけは?

「中学に上がったときに、3.11、東日本大震災が起こった日ですね。僕は中学1年生でした。お母さんはイギリス人なので、大地震を経験してパニックになってしまって、もうイギリスに帰るということを言い出しました。僕とお母さん2人でイギリスに帰るということになりました。約1ヶ月間いたんですけれども、現地で生活をして。でもやはり日本に友達もいますし、お母さんにお願いをして。お母さんも渋々許可をしてくれて、日本に帰ることになりました」

「日本に帰ってきた時に、ちょうど体力テストがあったんです。50メートル走もあったんです。実際走ってみたら、学年の中でトップをとったんです。その日初めてトップを取ることができて、たまたまだろうと思って……また別な日、トップを取れたんですよ。特にそういったトレーニングをしたってわけではないんですけれども。これはもしかしたら、イギリスの神様が一緒に帰ってきてくれたんじゃないかと僕は思ってるんです。そして、足が速くなった」

◾️イギリスから帰国後、急に脚が速くなったという山田選手。高校から本格的に陸上競技を始め、才能を発揮した。

「中学部のときにいた学校の中では、陸上部という部活自体がなかったんです。足が速くなって『高校生になったら陸上部に入ってやる!』という、そんな気持ちが湧いてきました。もう自己ベストがどんどん伸びていって、だんだん、だんだん走るのがもっと楽しくなって」

「最初は聾学校の狭い世界の中で走って頑張ればいいやと思っていたんですが、意外と思ったよりも足が速くなったので、一般の聞こえる人たちとも戦えるようになってきたんです。そこからインターハイに向けてもっと本気で頑張ろうという気持ちになりました」

◾️その後、国内の大会に出場するようになった山田選手。脚の速さが注目され、国際大会出場に声がかかる。

「大学1年のときに世界陸上、『世界ろう者陸上競技選手権大会』というものがありまして、そこで初めて国際大会に出場しました。
4種目参加して、200メートル、400メートル、4×100メートルリレー、4×400メートルリレー4種目に参加したんですが、4×100メートルリレーだけは取れなかったんですが、それ以外の3種目でメダルを獲得しました」

◾️健聴者の「世界陸上」に当たる国際大会、「世界ろう者陸上競技選手権大会」で初出場ながら3個のメダルを獲得した山田選手。一躍、世界のトップアスリートになった。

「その大会に初めて参加したとき、僕は無名の選手でした。ほかの海外の選手から見られても『めっちゃ細い選手いるし、なんでこいつメダル取れんの?』みたいな。『誰だこいつは?』って。で、実際メダルを取れるようになって『お前すごいな』と。『来年のデフリンピックまた会おうぜ。また一緒に走ろうぜ』そんなような話をしてくれましたね」

◾️2017年、山田選手は、トルコのサムスンで行われた、聴力に障がいのあるアスリートのオリンピックに当たる「デフリンピック」に初めて出場。まず男子400mで、銀メダルを獲得した。続いて出場した男子200m、トップでゴールを駆け抜けたのは山田選手だった。

「『おれが1位?』という気持ちでしたね。ゴールの前から、もう1位ということが確信していたので、ガッツポーズをしてました」

◾️山田選手は、その後4×100mリレーに第2走者として出場した。

「トルコのデフリンピックでは、ほぼ毎日、1週間試合に出続けるっていうことになって。もう体がもつか、もたないか、っていう不安な状況ではありました。でも『最後の1本だ。行ってやる』っていう気持ちで、気合いでやりきる……そんな状態でした。それが心のバトンになったのか、実際に世界一、金メダルを取ることができました」

◾️2021年、ブラジルで行われる予定だった山田選手にとって2度目のデフリンピックは、コロナ禍のため開催が1年延期され、2022年に行われた。まず男子100mに出場、7位に終わり、連覇が懸かる200mでの金メダルを心に誓った山田選手。

ところが大会中、コロナ発症者が多数出たため、日本選手団全体が途中棄権することに。山田選手も200mを棄権。このとき山田選手を励ましてくれたのが、日本の協会がクラウドファンディング(ロシアの軍事侵攻で出場が危ぶまれたウクライナのために遠征費を支援)を立ち上げ、デフリンピック出場を支援した、ウクライナの選手たちだった。

「そんなときに『またもう1回一緒に走ろうよ』って。『また次のデフリンピックで、またほかの世界大会でも、また会おう』って、そういう約束をしてくれました」

「そのときにふと思ったんです。あれ。ちょっと待ってよ。この前までクラウドファンディングをしてウクライナの選手たちにサポートをしていた僕たちが、今度は逆の立場になってウクライナの選手たちから、元気になるようにサポートしてくれた、励ましてくれた。海を越えて、国境を越えて、それぞれの国の絆が深まったなと思った瞬間でしたね」

◾️いよいよ今年11月、東京でデフリンピックが行われる。前回のブラジルでの大会は、コロナ感染による日本選手団の棄権で「今度こそ」という思いがある。

「実はまだ日本代表の内定をいただいてないんです。200メートル、400メートル。個人種目は2種目になるかもしれません。リレーはもちろん参加する予定ですが、5月、日本代表の選考会があります。それに向けて、まずはそこで内定をいただいて、ということになるかと思うんですが。そのあと決定することになると思います」

「200メートルはもう絶対的な自信があるので、200だけは皆勤賞でずっと出たいです」

◾️その前哨戦になる大会が、去年の7月に台湾で行われた「世界ろう者陸上競技選手権大会」だった。山田選手は、個人種目の男子200mで銅、400mで銀を獲得。また、4×100mリレーで金、4×400mリレーでは銀メダルに輝いている。

「個人種目で金メダルを取ることはできなかったんですが、まだ世界と戦えるんだ、というブラジルデフリンピックでの悔しさが、こう、そこの炎に水がかけられて。炎が1回消えて……」

「台湾の結果を受けて、自信が持てるような『芽』が生えてきたんです。その生えてきた芽を咲かせるのは、東京2025デフリンピックです。そこで金メダルを取って、ようやく花が咲いた、ということが言えるんじゃないかと思います」

◾️東京デフリンピックに向けて、山田選手に抱負を聞いた。

「東京に住んでる皆さんには、間近で見ていただける機会になると思います。皆さん、よく見ていただいているデフリンピックのポスターのモデルとして出演させていただいてますし、ポスターに載っている以上は、もうメダルを取らなきゃいけないですよね! 取らなかったら、あのポスターなんだったんだって言われちゃうので。そう思わせないようにしっかりと結果、そして金メダルを取りたい。もちろんそういう気持ちが強いです」

「さらに、日本チームが圧倒的に強いんだっていうような、特にリレーではもう1度世界記録を塗り替えたい、という気持ちがあります。そこに特に注目してほしいと思ってます」

◾️競技以外に、子どもの頃からパントマイムにも取り組んでいた山田選手。俳優として演劇で舞台にも出演している。

「1つ大きな舞台としては『聴者を演じるということ』というタイトルの舞台がありました。聞こえる役を聞こえない人が演じたらどうなるのかという、なんていうか、社会的な提言ということも含むんでしょうか。声を出しながら会話をするんです。なかなか難しいですね」

◾️山田選手に、デフ陸上の魅力を聞いてみた。

「デフスポーツというのは聴覚障がいを持っている人たちが集まっているんですが、同じ目標に向かって頑張る仲間が集まっています。応援する人たちは障がいに関係なく応援をしてくれる。そのつながりが僕の言葉を使わせてもらうと『心のバトン』だと思います。『心のバトン』をつなげることができるのが、僕がやってるデフ陸上だと思います」

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