ニッポンチャレンジドアスリート

2025.02.25

恩田竜二(車いすフェンシング)

1976年生まれ、名古屋市出身の48歳。実業団でバレーボール選手として活躍していましたが、2004年、事故で脊髄を損傷。下半身がまひしました。その後、2010年から車いすテニスを始め、2015年、車いすフェンシングに出会い、競技を転向。2018年にはアジアパラ競技大会の、より障がいの重いクラス・カテゴリーBでサーブル個人・銀メダルに輝き、団体でも銅メダルを獲得しました。2021年、東京パラリンピックにも出場。フルーレ団体で7位に入賞しています。

▪︎2010年、恩田選手は車いすテニスを始めた。

「接触競技っていうのが今までの経験にちょっと合わなくって、なかなかバスケットボールは、はまっていくことができなくって。その後いくつか他のスポーツをやってみようかなと思って探したところ、車いすテニス。テニスっていうのはネットを挟んで相手と交互にボールを打ち合う、ちょっとバレーボールに似たところがあったので、 2010年頃から車いすテニスを始めました」

▪︎2011年、競技に専念するため、恩田選手は6年間勤めていた三重県庁を退職した。その後、2015年から車いすフェンシングに競技を転向する。

「僕はどっちかっていうと障がいが重い方なんですけれど、車いすテニスではクラス分けというのがなくて。障がいの軽い人と同じ土俵で戦わなきゃいけないと。そうなると、やっぱりちょっと勝ち目がないことが多く、東京パラリンピックに出られるような他の競技はないかなと思って探していたら、たまたま妻の知り合いが、ドイツの方なんですけれど、世界車いすフェンシング協会の事務局長さんをしていて。その縁で、車いすフェンシングをしてみようかなと思い、転向しました」

▪︎恩田選手が最初に出場した国際試合は?

「全て海外に行かないと試合ができなかったんですね。一番最初も始めて3ヶ月ぐらいでしたかね、ハンガリーのワールドカップに出させていただいたのが一番最初の国際試合です」

「行くまではやれるだろうと、なんか変な自信があったんですけれど。ボコボコにされて、全敗して帰ってきました」

▪︎その後、恩田選手は、2018年、インドネシアで行われたアジアパラ競技大会に出場。より障がいの重いクラス、カテゴリーBのサーブル個人で銀メダルを獲得した。

「やっぱり一番は、運が良かったのかなと思います。それはアジアの中でどうしても1人だけ中国の選手で勝てない相手がいて、その相手とトーナメントで逆の山に入れて、途中で当たることがなかったので。そういった運も味方をしてくれたのかなと思います」

「その時に、やっぱり銀メダルを取ったっていうのは、僕の中ではフェンシングにより真摯に向き合うきっかけにもなりましたし、自信にもなりました」

▪︎さらに、サーブル団体でも銅メダルを獲得。個人戦とは違った喜びがあった。

「団体戦も銅メダルを取らせていただいたんですけれど。やっぱり団体戦っていうのは自分1人の力では勝てないので、チームメイトががんばってくれて、一緒に喜べて、っていうところがあったので、より、個人で取ったメダルよりも嬉しかったです」

▪︎2021年、恩田選手は開催国枠で東京パラリンピックに出場した。

「そのときは最低限の、本当にスタートラインにやっと立てたっていうので、ほっとしたっていうのが一番の心境でした」

▪︎恩田選手は東京パラリンピックで、サーブル・フルーレの個人と、フルーレ団体の3種目に出場。結果は、個人戦がフルーレ14位、サーブル11位。フルーレ団体が7位だった。

「今まで国際大会はそれこそ何十試合と経験して、東京パラリンピックには臨んだんですけれど、やっぱりちょっと、無観客とはいえ、舞台が全然、雰囲気が違っていて。正直、気持ちがふわふわしていて、最初の3ポイントぐらいは、ほとんど記憶にないぐらいの感じでした」

「もちろん、結果は望んだものとはほど遠かったので、悔しい結果にはなってしまいましたが、 コロナ禍でずっと1年間試合もできず、なかなか練習もできずっていう状態だったので。 まずは試合ができたっていうことが一番、僕の中では嬉しかったですし、試合ができるまで準備してくださったスタッフの方々にも、すごい感謝しましたし。結果はついてこなかったですけれど、今思えば出られてよかったなっていうところは思ってます」

▪︎東京パラリンピックで、恩田選手が印象に残ったことは?

「東京パラリンピックでは、試合ももちろんそうなんですけど、一番印象に残ったというか、楽しかったのは、選手村での生活が一番印象に残っています」

「元々車いすテニスをしていたので、車いすテニスの選手と久しぶりに会ったりとか。国枝慎吾くんとかも、NTCナショナルトレーニングセンターで会ったりして。元々交流もあったので、選手村で会って話をしたりっていうのはありました」

「あとは他の競技を、アーチェリーをしている仲のいい選手に、同じ大会で会って話したり、他の初めて会う選手を紹介してもらったりっていうのがありました」

▪︎残念ながら、パリパラリンピック出場は逃した恩田選手。3年後のロスパラリンピックに向けてトレーニングを積んでいる。

「パラリンピックの世界ランキングっていうのは、パラリンピックの2年前からぐらいからスタートするんですけど、その時点で全員用意ドン、でスタートするので。今、世界ランキングに入ってないですけれど、そこから先の大会でポイントを稼いでいけば、パラリンピックに出ることは可能だと思います」

▪︎恩田選手に、今後の夢を聞いてみた。

「アスリートとしてあとどれぐらい続けられるかわからないですけれど、1つは、もう一度アジアパラなりで、妻や家族に僕がフェンシングをしているところを見てほしいっていうのが1つの目標です」

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