1996年、熊本県生まれ、東京育ちの28歳。中学から硬式テニスを始めますが、高校1年生のときに事故のため脊髄を損傷、車いす生活に。それから車いすテニスを始め、鋭いフォアハンドを武器にした攻撃的なテニスで国際大会でも活躍。パラリンピックには、2021年の東京大会と、去年のパリ大会に連続出場。パリでは、上地結衣選手とペアを組んだ女子ダブルスで金メダルを獲得しました。
▪︎予期せぬアクシデントで車いす生活になった田中選手。車いすテニスという競技があることは知っていたが、自分がプレーすることについては、当初気が進まなかったという。
「正直やる気はあんまり初めはなくて。自分が今まで、現状で立ってやれていたことができなくなりそうだったので、それはちょっと今までの自分がなくなっちゃったみたいで悲しいかなと思って、やりたくはなかったんです」
「ただ、部活に戻る時に顧問の先生に『プレーヤーとして戻ってきなさい』っていう風に言われたので、それなら やっぱりテニスをやって戻るしかないなっていう風に思ったので。それがなかったら、もしかしたらやってなかったかもしれないですね」
▪︎では、車いすテニスをやってみようと思うようになったわけは?
「車いすテニスをはじめて練習をしていくうちに、その年の年末に試合観戦に行きました。そこで初めて生で上地結衣選手を見たのがきっかけで『こんな風に自分もコートを広く走れたら、すごく楽しいだろうな』って思ったので『こんな風に世界で戦いたい』と思って、本格的に車いすテニスを始めようと思いました」
「一番初めはですね、リハビリのために入院していた国立障害者リハビリテーションセンター病院の中にですね、テニスコートがありまして。リハビリの体育の先生に『そこで車いすテニスの人たち、週末に練習してるよ』って言われたので、そこにはじめは行って、車いすの方たちに直接、車いすの乗り方だったりとか走り方とかは教わっていました」
▪︎高校卒業後、田中選手は企業とアスリート契約を結び、就職。車いすテニスに打ち込める環境を作った。
『車いすテニス1本に絞ろうって思ったのは、高校在学中に東京オリンピック・パラリンピックが決まったので、やっぱり『東京に出たい』という気持ちもありましたし、高校生の間に復学だったり部活に復帰だったりしたときに、たくさん周りの方たちの手を借りて、そういったことが普通の生活を取り戻すことができたので、やっぱり東京パラリンピックに出場して、みんなのおかげで自分の好きなことができてますっていうのを伝えられたらなっていう思いがあったので。それで絶対に東京パラリンピックに出る、という気持ちでテニス1本に絞りました』
▪︎田中選手が車いすテニスプレーヤーとして、世界で戦っていけるという自信を付けた大会は?
「2016年の福岡の飯塚で行われたジャパンオープンという大きい大会で。その当時、その大会が1番最後で、リオデジャネイロの出場権が決まる 大事な大会だったんですけど。その時に当時世界ランキング21位だったかな、そのチリの選手に初めて勝って。パラリンピックに出れられるような選手に初めて勝ったのがそのときだったので、その経験があって、自分も少し世界の中に足を踏み入れられたのかな、っていう気がしました」
▪︎2018年、田中選手はアジア大会の女子ダブルスで上地結衣選手とペアを組んだ。大きな国際大会で、女子車いすテニスプレーヤーの第一人者・上地選手と共に戦ったのは、貴重な経験になった。
「上地選手と同じコートに立つ、ってなって、やっぱりあのときのダブルスは、正直、自分と上地選手との差っていうのをすごく感じましたし、ダブルス特有の『弱い方だけを狙われる』っていうのがすごく顕著に出ていたので。私が明らかに足を引っ張っている状態だったら、正直何回やっても勝てないだろうな、っていう風に、いい試合ができなかったなとは思ってます」
▪︎2021年、田中選手は、車いすテニスを本格的に始めたときからの目標だった東京パラリンピック出場を果たす。
「正直、私たちテニスの場合は年間のランキングで出場が決まるので、自分は安全圏内にいたので、やっとパラレースが終わったなというか。予定通り、ちゃんと出場の内定が取れてよかったなという、どちらかというと安堵っていう感じが強かったです」
▪︎東京パラリンピックで、田中選手はシングルス9位。高室冴綺選手とペアを組んだダブルスは5位だった。東京で得たものは?
「東京大会を実際に経験したときは、試合中、思ったよりもすごく強くは緊張していないな、という感覚があったので。もしかしたら次のときはもっとナチュラルに知り合いができる自分をイメージして入らないといけないのかなっていう風に、そこがちょっと自分の過小評価しすぎたっていうのは課題だったかなと思って。パリまでの間はやっていました」
▪︎パリパラリンピックで上地選手とペアを組むことは、いつ決まったのだろうか?
「パリでダブルスを上地選手と組むって決まったのは、その直前の8月入ってからだったので。本当に大会1ヶ月あるかないかぐらいの時に言われました」
「ランキングっていうのは出ているので、誰と誰が組んだらシードを取れるかっていうのは計算していて。 なので、上地選手と私がペアを組めば、第2シードになるっていうのは元々分かっていたので、そこを協会がどう捉えるかだなっていう風に考えていました」
「パリ大会の前は、もちろん両方メダルは目標には、単複メダルは目標にはしてましたけど、その中でもダブルスは特に上地選手と組むことが決まってからは、金メダルを取るっていうのを目標に掲げてました」
▪︎パリパラリンピックの女子ダブルスで、上地結衣選手とペアを組んだ田中選手は順調に勝ち進み、決勝戦で東京パラリンピックで金メダルを獲得したオランダのデフロート&ファンクート組と対戦。上地・田中ペアは10対8で勝利。パラリンピックの女子ダブルスでは日本初となる金メダルを獲得した。表彰式で、君が代を聴いたときの感想は?
「もちろん優勝したっていうのはすごく嬉しいですし、金メダルっていうのもやっぱり首からかけてもらって、日の丸が1番高いところに上がってっていうときも感じてはいたんですけど。 なんかどこか少しふわふわしているような感覚がその日はあって……」
「どちらかというと、次の日に上地選手のシングルスの試合があって、彼女が優勝して単複金、ってなったときに『これはすごいことだ!』ってなって。ダブルスも金が取れたことが本当に良かったんだ、っていう風な思い始めてからが一番、自分が金を取った実感みたいなのは湧いてきました」
▪︎3年後のロスパラリンピックに向けて、田中選手はいま、どんな課題を持って練習に取り組んでいるのだろうか?
「パリが終わってから、次のロサンゼルスに向けては、今現在、フォアハンドの改良とサーブの改良を始めています」
「サーブに関しては、特にパリ大会で決勝では自分のサービスゲームをキープができなかったので、やはりそこが自分の弱点なんだなというふうに改めて認識をし直して、サーブにもっと攻撃性を、バリエーションを増やしていけたらいいなという風に思って改良を始めています」
▪︎田中選手が今年、目標にしている大会は?
「テニスってすごくたくさん大会があるので、1つあるわけではないんですけど。2025年はやはりグランドスラムでどこか優勝、せめて決勝に残るというのは成し遂げたいなと思いますし、次のアジア大会に向けてのランキングレースが夏からスタートするので、しっかりとそこに向けてランキングを日本の中で3番以内を維持できたらいいなという風には思っています」
「やっぱりロサンゼルスに向けて。ダブルスで去年、金メダルは取りましたけど、やはりダブルスってペアの力もあるんでしょう?っていう風に思われがちなので。自分の力で、シングルスできちっと結果が出せるようになっていけて、初めて自分の金メダルに誇りが持てるのかなと今は考えているので。できればシングルスとダブルス同時にメダルを持って帰れるような選手になりたいなという風に今は思っています」
2025.04.28
大山伸明(車いすバスケットボール)
1993年生まれ、埼玉県出身の31歳。車いすバスケットボールの健常の選手です。埼玉県立大学時代、車いすバスケのサークルに入って競技を始め、健常者も出場できる「全国大学...
2025.04.21
吉越奏詞(パラ馬術)
2000年生まれ、東京都目黒区出身の24歳。先天性の脳性まひで右半身と脚に障がいがあります。幼い頃からポニーで乗馬を始め、2013年、東京パラリンピック開催決定をきっ...
2025.04.14
三澤拓(パラアルペンスキー/パラゴルフ)
1987年生まれ、長野県松本市出身の37歳。6歳のとき事故に遭い左足の太ももから下を失いますが、8歳からスキーを始め、並行して野球チームにも所属。夏は野球、冬はスキー...
2025.04.07
田中祥隆(パラサイクリング・ハンドサイクル)
1975年生まれ、福岡県出身の49歳。1998年に競輪選手としてデビューをしますが、練習中の事故で半身がまひし、2013年に引退。その後、車いすマラソン、車いすバスケ...
2025.03.31
吉田匡良(デフサッカー日本代表監督)
1982年生まれ、奈良県出身の42歳。サッカーの名門・東福岡高校で1年生からレギュラーで活躍。全国高校選手権で優勝を果たし、U-16・17の日本代表にも選ばれました。...