ニッポンチャレンジドアスリート

2024.12.23

浦田理恵(ゴールボール元女子日本代表)

1977年生まれ、熊本県出身の47歳。20歳のときに急激に視力が低下し、網膜色素変性症と診断されました。26歳でゴールボールを始め、女子日本代表としてパラリンピックに4大会連続で出場。2012年のロンドン大会では、守備の要として活躍。パラリンピックの団体競技では日本初となる金メダル獲得に貢献しました。2021年の東京パラリンピックでも銅メダルを獲得。2022年に現役を引退して、現在は講演活動や普及活動を行っているほか、今年のパリパラリンピックでは、日本代表戦のテレビ解説も務めました。

◾️20歳の頃、小学校の先生を目指して福岡市の教員養成所で勉強を重ねていた浦田さん。急に視力が悪化したのは、まさにそのときだった。そんなとき、浦田さんはゴールボールと出会う。視覚に障がいがある選手が目隠しをしてプレー。投げると音がするボールを相手陣内にある幅9メートルのゴール目掛けて投げ合う競技だ。

「ちょうど2004年のアテネパラリンピックが開催されていたときで、そこでゴールボール女子チームが銅メダルを獲得しました。それをテレビのニュースで聞いてて。正直それまでパラリンピックとか興味もなかったですし、知らなかったんですけど、そこでゴールボールっていう競技を知って、本当にびっくりしたというか。目が見えなくても球技がやれるんだっていうところと、視覚に障がいがあっても世界の舞台で輝いている選手たちの姿。それをニュースで知ったときには、本当に私もあんな風に輝いてみたいなっていう風に衝撃を受けました」

◾️幸運なことに、当時浦田さんがいた福岡にはゴールボールのチームがあった。

「ちょうどその当時は、私は福岡の視力障害センターというところで、鍼灸師・マッサージ師の免許を獲得するために勉強していたとこだったんですけど。ちょうどそこの体育館を利用しているゴールボールのクラブチームがあるということを情報を得て、そのクラブチームに足を運んで、ゴールボールをスタートしました」

◾️努力を重ねて2005年、女子日本代表に初めて選ばれた浦田さん。アメリカで行われた世界選手権が代表デビュー戦になった。

「最初にその国際大会の舞台に立ったときっていうのは、日本は負けている試合の、残り3分ぐらいを任せてもらって。アメリカ戦だったんですけど、コーチからは相手のアメリカの選手『レフトの選手のシュートボールには気をつけろ、行ってこい』って言って送り出してもらって」

「いざ相手からボールが来ます、ボール右に来たと思って思いっきり飛んだら、まさしくそのシュート回転のボールに1点目でやられて、もう頭が真っ白になったっていうのが 最初の試合の記憶です」

◾️2007年、ゴールボール女子日本代表は、ブラジルのサンパウロで行われた「IBSA世界選手権」で銅メダルを獲得。2008年の北京パラリンピックでは、前回のアテネ大会・銅メダルに次ぐ2大会連続メダルを期待されたが、結果は8チーム中7位に終わった。

「パラリンピックっていうその大舞台がこんなすごいところなのか、っていうのに圧倒されました。観客の入りとかそういったのも、これまで経験した国際大会とは本当に比べ物にならないような大規模なもので。私もコートに立った時に最初に感じたのが、うわ、こんな大舞台で私がミスして日本負けたらどうしようっていう、そんなプレッシャーをめちゃくちゃ感じました」

◾️2012年、ロンドンパラリンピックで女子日本代表は順調に勝ち抜き、初めて決勝に進出。相手は圧倒的な得点力で勝ち上がってきた強敵・中国だった。圧倒的な攻撃力を誇る中国相手に、1点を先制した女子日本代表。日本は鉄壁のディフェンスで中国を完封して虎の子の1点を守り切り、1対0で勝利。パラリンピックの団体競技では日本初となる金メダルを獲得した。

「本当に残り3秒で、もう金メダルが確定したよ、っていうのをコートの中でも味わうことができましたし、1番高いところまで来たんだって思いながら、その喜びっていうのも分かち合いました」

「最後、表彰台に上がって1番高いところに上がると、金、銀、銅メダルは、メダルはもらえるんですけど、その国の国歌が流れるのは1番になった金メダル取った国だけなんですよね。私たちはやっぱり視覚に障がいがあって、日の丸が上がってるっていうのを見ることはできないんですけど、でも『君が代』が流れて、それを歌いながら『本当に手が届いたんだ』っていうようなのをすごく実感しました」

◾️連覇を期待された2016年のリオパラリンピックで、女子日本代表は5位に終わった。力を発揮できなかった理由は?

「2連覇できるチャンスっていうところで、すごく力も入ってましたし。 でも他の国が日本の対策を本当にしてきたなっていうのを感じさせられました」

◾️その反省のもとに臨んだ2021年東京パラリンピック。大会の1年延期が決まり、いったん決まった代表の座も白紙に戻されたが、浦田さんは4大会連続で出場を決めた。

「リオ大会が終わって、やっぱり本当にそこでメダルが取れなかった。だけども、次は母国・日本での開催っていうのが決まっていたので、私はもう、東京大会は絶対にチャレンジするって決めていて。その中で東京パラリンピックまでの道筋って本当になかなか険しかったな、って。後輩たちもやっぱりすごく力をつけてきている中で、自分自身が日本代表に選ばれる本当にギリギリの戦いの中で、ようやく最後勝ち取った、代表枠内定をもらって……その2週間後に、コロナの影響で大会が1年延期になりました」

「なので、この内定も一旦白紙に戻して、もう1回選考やり直しますって言われた時は、正直、本当にギリギリで勝ち取った内定だったので『またですか』っていう思いは否めませんでした」

◾️女子日本代表は準決勝で敗れたが、3位決定戦でブラジルに快勝。銅メダルに輝き、ロンドン以来、2大会ぶりのメダルを手にした。

「私自身は銅メダルを首にかけていただいたとき、私はもう本当に『ああ、今このチームが持っている力、自分が持っている力は出しての銅メダルだな』と。その銅メダルはすごく嬉しかったです」

◾️東京パラリンピックでの銅メダルを花道に、2022年の3月に現役を引退した浦田さん。現在はどういう形でゴールボールに関わっているのだろうか?

「特に同じように障がいを持った子どもたちには『どうせこんなもんだよね』じゃなくて『いやいや、もっとやれるよ』っていうその可能性を伝えていきたい。だったら、ゴールボールに携わりながら、言葉でも私はきっと、プレーだけじゃなくって伝えていける、なんて思って、今ではゴールボールの次世代の選手たちの発掘だったり、育成っていったところにも関わりながら、 夢を繋ぐっていうことに携わっていきたいなと思って今、活動しています」

◾️今年のパリパラリンピックで、浦田さんはテレビ中継の解説役を務めた。女子代表は残念ながらメダルを逃したが、男子代表は初の金メダルという快挙を成し遂げた。優勝の瞬間を、現地で体感した浦田さん。

「本当に感激しました。でも、取るべくして取ったなって思っています」

「フィジカルも本当に磨き上げてきてましたし、なんと言ってもポジティブシンキングですかね。チーム全体が本当にもうポジティブ。準備をですね、しっかりネガティブなぐらいに計画立ててやり込んで、そして今回金メダルに輝いたなって」

◾️これからの浦田さんの夢は?

「ゴールゴールで本当に人生を変えてもらいましたので、そういった体験をしてもらえる後輩を育成・発掘していく。そういうところにも『繋ぐ』っていうことをやっていきたいなっていう風に思いますし、仲間を大事に思える、そういった気づきになるスポーツなので。そういう意味でもこのゴールボールの魅力っていうのをたくさんの人たちに知ってもらいたいなって思っています」

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