1980年生まれ、大阪市出身の44歳。自由学園最高学部を卒業後、ロンドンで写真を1年半学び帰国。アルバイトをしながら写真家への道を歩みました。2004年、アテネパラリンピックの撮影に関わったのをきっかけに20年以上にわたってパラスポーツの国際大会を撮影。パラリンピックは、アテネ大会から今年のパリ大会まで、夏冬合わせて11大会を現地で撮影しました。今年5月に神戸市で行われた世界パラ陸上では、公式カメラマンも務めるなど、さまざまなパラアスリートたちの写真を手掛けていらっしゃいます。
◼️吉村さんがカメラマンを目指そうと思ったきっかけは?
「夏の甲子園を友だちと見に行ったことが一番最初のきっかけとなります。アルプススタンドから見ている私の目に映ったものと、大会が終わった後に、アサヒグラフだったと思うんですけれども、手に取って中の写真を見た時に見たものが全然違うもので、カメラマンの方というのはこういう一瞬を切り取ることができるんだと思って、心が揺さぶられたことがきっかけとなります」
◼️イギリスに2年間留学して写真を学び、帰国後、スポーツカメラマンとしての活動を始めた吉村さん。Jリーグの撮影なども手掛けるようになった。パラスポーツを撮るようになったきっかけは?
「長居公園。大阪にある大きな公園があるんですけれども、そこで友人と歩いていましたら、走ってきたレーサーに目を奪われました。その頃はまだリハビリの一環としかパラリンピックのスポーツというものを知らなかった私には、ちょっと驚きでして『こんなF1みたいな車いすがあるんだ』と大変衝撃を受けまして、もう1周走ってくるのを待って、さっきのは幻ではなかったということを確認してから、家に帰ってパソコンで検索をしたのが最初の出会いです」
◼️ 吉村さんは、そのとき見つけたパラスポーツ関連のNPO法人のウェブサイトにコンタクトを取ってみると「パラ水泳の大会があるので撮ってみませんか?」という返事が来た。こうしてパラスポーツを撮影することになった。
「一番最初に驚いたのは、両腕がない選手が人魚のように泳いでいく姿にとても衝撃を受けまして。そのときすごく自分の中に稲光が走ったような感じを今でも覚えています」
◼️吉村さんがパラリンピックを最初に撮影したのは、2004年のアテネ大会だった。
「私にとって初めての国際大会でしたので、もう右も左もわからないまま終わってしまったような感じだったんですけれども。観客の皆さんが盛り上がっているのを覚えております」
「(最初に撮ったのは) 水泳競技でした。水泳競技の、両腕のない選手のレースでした。すごく覚えています」
「とても衝撃を受けた競技はブラインドサッカーでした。ブラジル対アルゼンチンの撮影をしたんですけれども。空中に浮いているボールをボレーシュートで決めたブラジルの選手がいまして、本当にこれはどうなってるんだ、と大変驚いた記憶があります」
◼️2010年のバンクーバー冬季パラリンピックでは、アイススレッジホッケー、現在はパラアイスホッケーの日本代表がカナダを破って銀メダルを獲ったシーンにも立ち会った。
「勝った瞬間にもう本当にみんな抱き合ってたんですけど、最後の最後にリンクの真ん中で スティックを上に掲げた瞬間に撮った写真が、私はもう忘れられません」
◼️2021年に行われた東京パラリンピックは、無観客での開催となった。東京大会を撮影したときに感じたことは?
「無観客の中で撮るというのは、ちょっとあまり意識はしていなかったんですけれども。コロナの中でも大変な中、トレーニングに励んでこられて、この場に立っていらっしゃる選手や関係者の皆さんをしっかり写真でおさえなければいけないな、という意識の方が大きかったかなと思っています」
「ここに来られなかった選手もいっぱいいらっしゃいますし、世界中からのカメラマンさんもすごく数が少なかったので、どうにかここにいる人たちでがんばろう、という気持ちはみんなあったと思います」
◼️今年5月に神戸で行われた世界パラ陸上で、吉村さんは公式カメラマンを務めた。日本の選手が活躍する中、パラ陸上界のレジェンド・走り幅跳びの山本篤さんがこの大会を最後に引退したことも、大きな出来事だった。
「山本選手とは、もう北京パラの頃から世界で戦う姿を撮影してきました。その上に、年齢も近いということもありまして、プロフィール写真の撮影や結婚式の撮影もさせてもらったという、家族ぐるみでもう今はお付き合いさせていただいてるような関係です」
「引退をすると聞いた時は、最後のジャンプが撮れてよかったなと思いました。これからいろんなところでまた活躍されると思いますのでそれもそれで楽しみだなと思っています」
◼️今年のパリパラリンピックも現地で撮影した吉村さん。車いすテニス・男子シングルスで金メダルを獲得した小田凱人選手の決勝戦も撮影した。
「すごく小田選手の一方的な試合かなと思っていたんですけれども、相手のイギリス選手も素晴らしくいいテニスをしてくださり、車いすテニスの決勝ってこんなに素晴らしいんだと思えるような試合の内容だったと思います」
「残念ながら最後、小田選手が優勝した瞬間は、違う競技に行かなければいけず、最後の最後、車輪を取られるところは見られなかったんですけれども、いい試合が見れたなと思っております。体が2つあれば良かったのになと思った瞬間の1つでもあります」
◼️車いすラグビー日本代表の、悲願の金メダル獲得も、カメラマンとして忘れられないシーンになった。
「決勝ももちろん感動して、優勝の瞬間も大変感動したんですけれども、私は準決勝で勝った瞬間が本当に感動しました。東京のときも越えられなかった、準決勝の壁を越えた瞬間で、また1つ、1歩先に車いすラグビーが進んだ瞬間でもありましたので、とても感動しました」
◼️パラスポーツのカメラマンとして、吉村さんの将来の夢は?
「パラスポーツとしてというよりも、1つのスポーツとして競技を楽しんでくれる世界になることを、アテネの頃から目指しておりましたが、今のところ、私の写真でその世界は変えられていないかなと思いますので。引き続きその努力はしていきたいなと思っています」
「今まで走ったことがなかった人が車いすバスケや競技用義足を履いてから、スポーツが楽しいと思う最初の瞬間をたくさん撮影したいなという風に思ってもいます」
「あと、パラ競技以外の競技、例えばパラダンスですとかサーフィンなどの魅力も伝えていけるようなカメラマンでありたいなと思っています」
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