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2024.09.30

藤田佑平(パラノルディックスキー・ガイドスキーヤー)

1992年、北海道旭川市出身の32歳。両親がアルペンスキーヤーというスキー一家で育ち、学生時代はクロスカントリーの選手として活躍しました。2015年から、視覚障がいの選手と一緒に滑るパラノルディックスキーのガイドスキーヤーとなり、パラリンピックには、2018年の平昌大会に高村和人選手、2022年の北京大会に有安諒平選手のガイドとして出場。選手の「目の代わり」を務めています。

■稲田大学時代はクロスカントリースキーでオリンピック出場を目指していた藤田さんだったが、体調を崩したこともあって断念。競技を引退して大学院に進んだときに、いきなり電話がかかってきた。

「大学1年生の5月くらいですかね。その当時の監督である新井秀樹監督とコーチの長濱一年コーチから急に電話がかかってきまして『パラノルディックのスキーの世界に来ないか』というような形電話が来て『なんだそれは!?』 というところが始まりです」

■パラノルディックスキー日本代表・新井監督から突然依頼されたガイドスキーヤー。まったくガイド経験のない藤田さんが引き受けたのは、大学院でコーチングを専攻していたことも1つの理由だった。

「世界に通用するようなコーチになりたかったということで、世界の見聞を広げたかったので、またとないチャンスだなと思ったところと、あと、生活が苦しくて、少しでもそのチャンスがありながら、バイト代としていただくような謝金があるなら是非とも……嬉しいな、ぐらいな形でした」

■最初にペアを組んだ高村和人選手は、網膜色素変性症のためほとんど視野のない選手だった。ニュージーランドで、いきなり藤田さんは高村選手のガイドを務めた。

「ニュージーランドのコースって、崖が多いんですね。で、初めての初心者ガイドで視覚障害の方を伴走して走るのは、すごい緊張感があって。『大変だな、この競技は』と思いながら走ったのが今でも印象に残ってます」

■ガイドスキーヤーを始めて3年が経った2018年。藤田さんは高村選手のガイドとして、平昌パラリンピックに出場する。

「出場したときは本当に嬉しいなっていうところを思ったのと、やはり国の代表として戦っているので、なんとしてでも入賞以上っていうところはありました。ただ、やはりちょっとそれがプレッシャーになりながらも、2人で楽しもうね、なんて言いながら、っていうのが最初のパラリンピックの印象です」

「私自身がオリンピックを目指していたというところで、その後、違う形でパラリンピックというような夢が叶いまして。で、それをこう、高村選手と一緒に話したときに、2人で掴んだ夢でしたし。その経験っていうのは、自分のスキー人生としてかけがえないものだったな、っていうところが1番の思い出になります」

■ 2022年の北京パラリンピックには、高村選手ではなく、新たに有安諒平選手とのペアで出場した藤田さん。有安選手は2021年の東京パラリンピックにボート競技のパラローイングで出場した「二刀流」の選手で、スキーの経験はまったくなかった。

「かなり無謀だったなという風に実際、今思うと思います。ただですね、2人でですね、もう1回目のローラースキーをした時に、じゃあ具体的にどうやって北京目指していきましょうか……っていうような目標設定まで全て一気に終わらせてですね。このときにはこのフォーム習得してましょう、とか、この時にはじゃあメダル獲得ですかね、なんて言いながらですね、2人で話し合いながら盛り上がったのを今でも覚えてます」

■有安選手は、競技を始めてわずか2年ほどで北京パラリンピック出場を勝ち取り、男子20kmクラシカルで7位に入賞。パラリンピックの視覚障がいカテゴリーで日本の選手が入賞したのは、実に20年ぶりの快挙だった。

「北京の雪質がちょっと特殊で、パサパサとした合わせにくいような状況、プラス気温がかなり上昇したということで。だけどその中でですね、20キロ耐えて走っていれば何かチャンスが起きるかもしれないね、というところは2人で言いながら頑張って走っていたんですね。でその中で7位入賞っていうのが飛び込んできて、本当に嬉しいなっていうところでした」

■パリパラリンピックには、残念ながら出場を逃した有安選手。

「そういう形にはなるんですけれども、僕としてはやはり、二刀流で頑張っている有安さんの背中っていうのをしっかり応援したいなという風に思っているので。本当にパリが出場できなくて悲しかったですし、出場できなかった理由としては、クルーがうまく集まらなかったというのが1番のところなんですけれども。ローイングって本当に人集めっていうのが大変なんだなと思いながら、その借りっていうのを、クロスカントリースキーでしっかりと返せるような状態に僕もなっていかなきゃいけないな、っていう風に思ったというところです」

■2年後のミラノ・コルティナダンペッツオパラリンピックに向けて、いま有安選手とどんなトレーニングをしているのだろうか? 

「今からすでにもう対策をしているようなイメージでして。もちろん、まずは標高というところですね。実は去年、もっと高いイタリアの違う隣の地区だったんですけれども、そこでワールドカップに参加してきまして。そこは標高が高くて、なかなかこう、有安選手がその環境に順応することができなくて、というところもあって。まあ、私もそうだったんですけれども」

「で、今年からですね、その標高を意識した練習っていうのを重ねながら、融雪が進んでるところに関しては、滑らない雪の状態っていうのを意識してローラースキーなんかを滑っているような形です」

■ガイドスキーヤーとして、これからの夢、目標は?

「パラリンピックでメダルを獲得したいという風に思ってます。なので、次のミラノ・コルティナでメダルというよりも、私はもう2030に引退をするという風に決めているので、2030年までに必ずパラリンピックでメダルを取りたいなという風に思っています」

「最近僕が思っている理想のガイドなのか、ちょっとわからないんですけれども、やはり今までやってきた平昌・北京っていうのは、サポートをしようと思うマインドでのガイドでした。ただ、そうするとですね、やはり世界の列強と戦う時にですね、例えば1秒削り出すって言った時に、サポートします、ついてきてくださいね、というような形よりも『一緒に頑張って行こうよ』というようなガイドになった方がですね、その1秒が削り出せるという風に今思っていて」

「そういう意味でも、強く、ガイドスキーヤーというところの競技を、意識して、ミラノに向けて練習をしているような状況です」

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