1982年生まれ、静岡県出身の42歳。高校2年生のときに事故で左足のももから先を失いますが、パラ陸上に出逢い、義足で競技を始めます。夏季パラリンピックに北京大会から4大会連続で出場。2008年の北京大会では走り幅跳びで銀メダルを獲得。義足の陸上選手では日本人初のパラリンピックメダリストとなりました。2016年のリオ大会でも、走り幅跳びで銀メダルと、4×100mリレーで銅メダルを獲得。2018年にはスノーボードで平昌(ピョンチャン)冬季パラリンピックにも出場しています。今年5月に現役引退を表明。22年間の陸上競技生活にピリオドを打ちました。
■高校2年生のときに事故で左足のももから先を失った山本さん。高校卒業後、義足を作る「義肢装具士」を目指した。
「自分自身が義足になったことによって、義足のことにすごく興味が出てきたのでそういう興味があることを仕事にできないかなと思って調べていたら、義肢装具士という資格があるっていうのを知って」
「学校に入学してから競技用の義足に出会って、本格的に陸上競技を始めるというきっかけになりましたね」
■2004年のアテネパラリンピックに100mで出場することを目標にした山本さん。しかし出場は叶わず、メインを走り幅跳びに変更、次の北京を目指した。
「アテネのパラリンピックに行けなかったっていうのは、ものすごい自分の中では悔しかったので、絶対次の4年後のパラリンピックには出場するんだっていう思いで大学生活4年間を過ごしましたし・・・次の北京のパラリンピックでは世界と勝負をするんだと思って、ずっと練習をしてました」
■2008年、山本さんは北京大会で初めてパラリンピック出場の夢を叶えた。
「100メートルが最初の種目だったんですね。9万人入るようなスタジアムに満員入ってる中で競技をするっていうのが初めてで。ものすごく緊張した思い出があります」
「その当時、0.8秒ぐらい自己ベストから遅い記録でゴールしたんですね。 普通じゃありえない状況がパラリンピックにはあるんだなっていうのを、その時に思い知らされました」
■北京では、走り幅跳びで銀メダルを獲得。義足の陸上選手では、日本人初の快挙だった。
「表彰台上がった時は、やっぱり悔しさが出ましたね。競技してるときにメダルを決まったっていう嬉しさとはまた別の感情が芽生えてきましたね」
■しかし、金メダルを目指した2012年のロンドン大会ではメダルを獲得できずに終わった。
「世界ランキング1位でロンドンのパラリンピックに臨んだんですよ。人の跳躍を見ているときに、どんどんみんないい記録を出して、世界記録が出たり・・・そういうのを目の当たりにしたときに『このぐらい飛ばないといけない』と思った瞬間に、勝負は負けたんだなっていう風に思って。人の跳躍を見て、自分のパフォーマンスができなかったっていうのを経験しました」
■山本さんは2016年のリオパラリンピックで、2大会ぶりの銀メダルを獲得。ここでメダルが取れた要因は?
「僕自身も2016年は世界記録を出したり、自己ベストを3回ぐらい更新してリオのパラリンピックに臨みました」
「自分の中の最高のパフォーマンスを出すっていうことは、リオのパラリンピックのときにはできたと思ってるんですけど、でも、やっぱり負けた悔しさっていうのはありますね」
■山本さんはその2年後、2018年にスノーボードで平昌パラリンピックに出場。夏冬二刀流を目指した理由は?
「4年って長いなって思ったんですね。今までスノーボードっていうのをやったことがあって、その当時、若い時にスノーボードがパラリンピックの種目であったら絶対出れるだろうっていうのを自分の中で勝手に思っていたので、それの証明をしたかったっていうのもあって」
4年間の間の平昌のパラリンピックに出場できたら、東京にも盛り上がりをつなげることができるし、僕自身もスノーボードでパラリンピックに出たいって思いがあっ他ので。その2つの思惑が一致したので、出場するためにトレーニングをしました。
■山本さんは2021年、東京パラリンピックにも出場。しかし本来の力を出せずに終わった。
「1年伸びたことによって僕は1年、年を取り、若い選手は1年伸びたことによって技術を1年伸ばすことができたっていう部分でも、ちょっと僕にとってはマイナスのアドバンテージになってしまったのかなっていうのは、今思うとあります。でも、1年伸びてダメだったかっていうとそうではなくて、僕自身は自己ベストも出せましたし。たくさんの選手たちに東京パラリンピック開催してくれてありがとうって言われたんですね。 日本じゃなかったらできなかったよっていうのもたくさんの選手に言ってもらえたので、そういう意味では、日本が1年延期しましたけど、無観客でも開催した意義っていうのは、選手側にとってみたら。ものすごく大きなものっていうのはあったのかな、という風に思いますね」
■引退のことは、いつ頃から考え始めていたのだろうか?
「昨年行われたパリでの世界選手権の時ですね。自分自身が万全の状態じゃない感じで臨んで、8位に終わってしまいました。自分はこれからまだもっともっと上を目指してやっていけるのかな・・・っていう風に思ったのが1つのきっかけです」
■引退会見で、今後は指導者としての道を歩みたいと語った山本さん。どういう形で後進を育成していく予定なのだろうか?
「今のところは、指導者としては、大阪体育大学を拠点にして、今は義足の選手2名いるんですけど、あと何名か増やせる許容範囲はあると思ってるので」
「一般の選手でもいいですし、パラを目指してる選手。なんでもいいんですけど、そういう選手たちが山本篤に指導をしてもらいたい、っていう風に言ってきた時に、受け皿になれるようにやっていきたいなっていう風に思っています」
■ スノーボードに挑戦したように、これからまったく違う競技にチャレンジする可能性は?
「今はパラゴルフをやっています。障害者のゴルフで、パラリンピックの種目ではないんですけど、もういろんなところで世界各地で競技が行われているので、日本の中でまずはトップの近くになれるような状態を作り、そして海外にもチャレンジできるような形でやっていきたいなっていう風に思っています」
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