1963年、三重県鈴鹿市生まれの60歳。 1998年、多発性硬化症を発症して車いす生活になりますが、翌年から車いすで陸上競技を始め、2005年からプロの車いすランナーとして活動。2008年の北京パラリンピックでは400mと800mの2種目で世界新記録をマークして金メダルを獲得しました。2012年のロンドンパラリンピックでは、200m・400m・800mの3種目で銀メダルを獲得。一度引退しますが、2017年の夏から再び現役に復帰して、2021年、東京パラリンピックに出場。今年のパリパラリンピックでは、12年ぶりのメダル獲得を目指します。
■多発性硬化症のため、車いす生活になった伊藤選手。車いす陸上を始めたきっかけは?
「たまたまそこで入院してた方の息子さんが福祉機器を扱っているような会社に勤めておられるということで、じゃあ僕の車いすも用意してくださいよということで、病院へ営業に来ていただいた時に、カタログの中から選ぶというスタイルをとったんですけれども。その方も実はあまり詳しくなくて、持ってきていただいたカタログが、いわゆる競技用の車いす専用カタログでして。『最近の車いすはこんなにハイカラな形しているんだな』ということで選んだのが車いす陸上用のレーサーと呼ばれる車いすを買ったっていうのが、原点になるんでしょうかね」
■伊藤選手は2002年にNPO法人「ゴールドアスリーツ」を設立。プロの車いすランナーになった。
「本当に速い選手たちっていうのがどれぐらい努力しているかも知ったし、本当に速いということの意味もわかりましたし。 プロスポーツじゃないことが逆に不思議に思えるようなスポーツ感を持ったので、ぜひともこれはプロ化するべきだとも思いましたし、それをまた支援していく団体も必要だなっていう風に思ったのがきっかけですね」
■伊藤選手は、2004年のアテネ大会で初めてパラリンピックに出場。車いす陸上男子1500mでは、思わぬアクシデントが起こった。
「初めて出た1500メートルのタイムを見ると、世界ランク的にも(僕が)一番速いな、という状況下でしたので、最初から一番前に出て、ペースをコントロールしながら最後に逃げよう、という筋書きでスタートラインには立ったんですけども。思いがけず全然データのない子もたまに出てきたりするので、その子がドーンとスタート、一気に行きましたので・・・『これは大番狂わせ起こるとあかんから』と、僕が追ったんですね。で、当時世界ランキング1位が追うわけですから、全員必死になって追わなければ、僕を逃がすともう追いつかないので。全員が一気にそこでペース狂わされて・・・」
「オープンレーンレースなので、全員が一気に1レーンに寄ってくる場所なんですけども、そこで逃がしたらあかんなと思った子が、いきなりもうスローダウンしたんですね。 それを避けようと思って右に出たんですけどもカーブは左向いて曲がっていきますので、ハンドルを切ったら遠心力で外へ飛ばされたと。1台を除いて全員クリアしてくれたので良かった反面、1台の選手には悪いことしたなっていうところでしたかね」
■2008年の北京パラリンピックでは400mと800mの2種目で世界新記録をマークして、金メダルを獲得した。北京パラリンピックで2冠を取った4年後、伊藤選手は2012年のロンドンパラリンピックに出場。3種目で銀メダルに輝いた。
「僕たちにとって、やっぱり勝つか負けるかっていうのは、もう金メダル取るかそれ以外かしかないので。僕らレースをやっている人間たちは、やっぱり金メダル以外は負けなんですよね。ただただ悔しかっただけですよ」
■ロンドン大会終了後、競技から引退した伊藤選手。ところが5年後の2017年夏、54歳で再び競技に復帰する。
「これ、出会いですかね。スイスのチューリッヒである第1回大会でもあったんですけども「サイバスロン」という介助支援型ロボットのパラリンピックというかオリンピックというか、そういう競技会が今度できますと。で、僕が選ばれたのは その中の車いす型ロボットで、その大会にパイロットとして出てくれないかというオファーがありまして・・・」
「面白そうだしねと、スイス行くのも久しぶりだしねとか思いながら そのパイロットになってスイスへ行ったときに、その同じホテルで埼玉に本社のあるRDSっていう会社のCEOである杉原行里と出会いまして。 そのときに『伊藤さん、まだ目死んでませんよね』と。『世界一のマシーンを僕が作ったら伊藤さんは走りますか?』 と言われて。ということから復帰への話が始まっていったっていう流れです」
■伊藤選手は2019年ドバイで行われた世界パラ陸上に出場。100mで銅、400mで銀、1500mで銅メダルを獲得し、東京パラリンピックへの出場が内定した。
「それこそ10数億という巨額を投じて開発をしたマシーン、それに関わってくれたエンジニアたち。私も雇い入れてくれたバイエル薬品の皆さんの思いであったり、大きな責任と同時に嬉しいというよりもほっとしたというのが本音のところかなとは思います」
■しかし、東京パラリンピックはコロナ禍で1年延期に。迎えた東京パラリンピック、メダルが有力視されていた伊藤選手だったが、レース直前のクラス分けで、伊藤選手はT52から、より障がいが軽い選手がたくさんいるT53クラスに変更された。
「これは今でもそうなんですけど、日本の関係者も含めて、誰も理解が未だにできてないんですよね。僕はクラスステータスはコンファームとレビュー、簡単に言うと頭文字だけ取って『C』と『R』があるわけなんですけれども。僕は『T52のR』。いわゆる毎年クラス分けを受けてくださいね、と言うステータスなんですね」
「いわゆる進行性の病気の方というのは今『T52』でも来年52で走れるかわからないでしょ、毎年チェックしていきましょうね、というどちらかというと救済措置なんですね。それが僕ももちろん進行性の病気ですし、それが 53になるなんていうのは25年も競技やってきて、ずっとそのクラスでやってきて、上がるなんてこと考えたこともないですし」
「あと、抗議するかしないかは陸上競技連盟の責任管轄内になるので、いろんな形で抗議をしていただいたんですけども覆らなかったというのが 現実ではないかと思っています」
■伊藤選手は、T53クラスの400mに出場。より障がいが軽い選手たちと走り予選落ちしたものの、自己ベスト57秒16をマークした。
「思ったことは、悔しさが一番ですよね。やっぱり自分がこれまでやってきたクラスで走りたかったし、そしてその中でやっぱり金メダルが欲しかったんですね。テクノロジーというものを、それと自分1人じゃなく、多くの人間たちと共に考えて共に活動していくと、年を重ねていってパフォーマンスは絶対に落ちてても、テクノロジーを使えばこんな走りもできるんだっていうのを示したかったっていうのもありましたよね。そういった意味で言うと、東京パラリンピックの思い出というのは、もう非常に残念だったなっていう思いでしかないですね」
■伊藤選手に、パリへの抱負を聞いてみた。
「パリにもし参加できるということになれば、東京のリベンジをやっぱりしたいなと思いますし。とりあえずメダルというお土産を持って、これまでチームで一生懸命みんなでやってくれた皆さんに1つの答えを共有できるように本当に頑張りたいと思います」
「やっぱり戻ってパリに行けたらなんか嬉しいですね。懐かしいメンバーとはまたスタートラインに立てると思うだけでワクワクしますし、やっぱり何十年とね、共に闘ってきたライバルたちですから、改めて尊敬の気持ちを持ちながら400mでも100mでも真剣に楽しんで、そしてまたゴールラインまたいだ瞬間、これまでの4年間を共に労いたいですね」
■伊藤選手にとって、車いす陸上の魅力とは?
「僕にとっての車いす陸上の魅力は、多くの人たちと共に少しずつ、一歩ずつ歩んでいけることの小さな喜びを共有できることかなと思います。具体的に言うと、応援してくれる人の気持ちも、そしてマシンを作るというビジネスとしての気持ちも、また僕を支援するという企業のみんなの気持ちも、全部が1つの方向を向かないといい成績って多分残せないので。悪いこともいいこともみんなと共有でき、みんなと反省し、みんなと喜べる。なんかそんなことの真ん中にいられることが、僕のこの陸上競技にとって一番大切なことです」
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