高田文夫のおもひでコロコロ

2025.10.13

第143回『オール日芸IN金沢編』

この歳になると なかなか仲のいい連中と泊りがけで旅に行くなんてことはない。
談志からは「若い連中や後輩には なるべく想い出を作ってやれよ」と言われた事を数年前に思い出した。
想い出の共有。それが伝統になっていくのだろう。エピソードが芸談になっていく。

「オール日芸寄席」というのをアドリブで始めた。思いつきではあったが これが楽しい。
リーダーは私で日本芸術学部の落研が集まる。志らく、一之輔、空手部から白鳥(?)、歌うクラブに居たテツ&トモも度々。
有楽町よみうりホールでやっていたのだが「旅」にも出るかという事になり まず「山形」公演。
今年の春は「仙台」。後輩の宮藤官九郎をつれてガイセン公演。
そして この度は後輩の爆問・太田光をつれて「金沢」公演。
私の地方公演の条件は乗り換えなしで2時間ちょっとで行ける所。これさえクリアすればOK。

いいメンバーである。東京でもこれだけの顔付けはできない。
高田文夫・志らく・白鳥・一之輔・テツ&トモ・クドカンに太田である。
生きててくれれば1年後輩の森田芳光、同期の古今亭右朝も ここにまざっていたのだ。
まさに「もうひとつの夢グループ」

10月8日(水)一座は金沢へ
下は北國新聞の翌9(木)の記事。

東京からは勿論 静岡、愛知、新潟など全国各地からのお客さま。
中には「日本海側で高田センセーと太田さんの生のお話がきけるなんて……」と泣き出す人も。
新潟出身の白鳥は楽屋で「新潟とか石川の人間は一切笑わないからネ。寒くて笑いを忘れたんだよ」
そんな事を言っていたが いざ幕をあければ爆笑。笑うのどチンコの先に佐渡ヶ島がみえた。
「おとなの修学旅行」も ほぼ毎回成功。オレだって あと何回行けるか分からない。
来春は またノーコーソクで倒れるかもしれないと太田が言うので 爆問・田中もつれて2時間ちょっとで何処かへ行こうか。

 

珍なるショット。北陸新幹線 車中の2S。
太田が着ているのは「いだてん」で阿部サダヲが着ていたもの。
右は金沢駅に降り立った一座(高田文夫社中)。

 

左は金沢歌劇座の舞台。公演終了後の写真。
後に立つ志ららは「月刊Takada2」のTシャツ。テツ&トモは「月刊Takada」1と2の表紙の色。赤と青。
右は打ち上げの模様。手前にテツ&トモ。左に太田、高田、志らく。立っているのは仕切っているように見えるワタナベエンターテインメントの吉田会長(日大ではなく東大)。
右に一之輔、白鳥、そしてスタッフや主催者側の人々。

 

翌日 一之輔と朝食をとっていたら「少し早めに失礼します」とあいさつに来た太田。
意外に礼儀正しい。
なんでそんなに早く帰るのだろうと思ったら すぐに分かった。
このあと さんまちゃんと漫才やるのだ。それの打ち合せなんかもあったのだろう。
11日(土)TBSのOAを見ていたら さんま&太田で漫才コンビ「古稀還暦」を名乗ってやっていた。
ラジオをきいていたら田中が「大変だったねぇ」と言うと太田「大変だよ、“古稀還暦”だよ。その前が“喜寿還暦”だったんだから」
「それゃ連日おつかれだ」
朝食を済ませ 一之輔とちょいと金沢散歩。
腹ごなしに2時間ばかりプラプラ。
足はどうしたって茶屋街へ。
このあと芸者あげて昼遊びって事にはならなかった。

 

一同おつかれさま。
来春またやるので皆様お越し下さい。

 

 

10月13日

 

高田文夫

 

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。