77才(喜寿)になったというのに身辺バタバタ落着かない毎日。孫と息子達ひきつれお祝いだからと食事会。
そんな所へ60年ぶりに爆弾犯からの便り。娘がこの度、本を出したのだがこれが ドキドキのいい本。死んだと思っていたあいつが。
「喜寿」と「爆弾犯」と「立川吉笑」(10日間に及ぶ真打披露興行)
そして同い年が集まっての飲み会(IN食堂)
ほとんどが身体ヨレヨレ。結局あれだけの大病をした私が一番元気だった。
無駄に集まって無駄に祝ってくれたニッポン放送の面々。真ン中に座っているのが私と檜原社長。
ホリケンは何故か高価な傘を。
私の顔でいっぱいのスタジオ。
弟子やら さんぽ会やらから紫(喜寿の色)の“のれん”「子分一同より」としてある。
1981(たけしのANN)から現在(2025)の姿が描かれている。すぐれもの。
皆様からも色々頂いちゃって申し訳ない限り。
「ビバリー」のスポンサーさん達からもお花やらいっぱい届いて。
「うまいヌードルニュータッチ」は何と私のラーメンを作ってくれた。「味はセンセーのお好きな富山ブラックにしてありますイヒヒ」だと。
気がつかなかったが よ――く見るとモンブランの万年筆に小さく(粋なもんだ)「77 F・TAKADA&PMAN」と入っていた。さすが天下の爆笑問題である。
私がピーマンと同い歳であるという事をお見通しなのだ。
7月下旬に出る「月刊Takada2」では田中クンとタブレット純と私で「歌謡曲」について語り合っている。
そして10月になると私と太田光で金沢の方へ旅に出る。
60年前(高校3年)のオレ達はいつも通り高校のある明大前から ひと駅歩いて東松原の奥にある 先公の来ない喫茶店へ向かっていた。
梶原は柔道の稽古終り。大きくて彫りが深くて外人のハンサムみたいな形態。おまけに名前が梶原譲二と格好いい。オレは小っちゃくてただただ目端のきく子だった。
「タカダはどうすんの、大学行くの?」
「早稲田行って青島幸男になろうと思うんだけど 早大行く脳みそが無いらしいんだ。エレキだ ビートルズだ ナンパだ パー券だ 力也だ みゆき族だってやってたらさ・・・・調べたら日大芸術学部ってのがあって 放送学科があるらしいんだ。あそこなんて金出しゃウラから入れんだろ」
「そうはいかないよ」と根が生マジメな梶原は言った(早く喫茶店行って マスターに奥の部屋あけてもらって煙草を吸うのが楽しみだった)
いつもオレの心の中には荒木一郎が流れていた。元祖中の元祖シンガーソングライター&二世タレント。ド天才。加山雄三より早かった。
「カジワラはどうすんの?」
「タカダの家みたいに金もないからさ。バイトでもしながら芝居をやろうかなと」
この時初めてカジワラが演劇をやってる事を知った。こいつ本当は革命でも夢見てんじゃねぇかなと時々思った。
日本学園は一寸 右寄りの高校なので柔道が必須科目。新しい技を教える度に先生は「ハイ梶原と高田、前へ出て。今日は一本背負いを覚えます。ハイ梶原、掛け方をみせて」
新技を覚える度に梶原が見本で投げ、私は見本で投げられていた。
そこから友情がめばえたのか、随分痛い友情だ。
こんな日から60年。出版プロデューサーから「高田さんは梶原さんのお知り合いでしょ」と本が届いた。
「爆弾犯の娘」
著者名を見ると梶原阿貴。
変な胸さわぎがした。
昭和46年12月24日、新宿 伊勢丹前のあの交番に爆弾が仕掛けられた。爆発。警官一人が左足切断の大けが。通行人らもまきこまれ11人が重軽傷。これが世に言う「新宿ツリー爆弾事件」、世の中は騒然となった。
しかし死者は出ていない。
私は大学を出て1年、作家見習いの丁稚小僧中。その話はゴールデン街の「しの」やら「唯尼庵」(ユニアン。アンニュイの逆)「わ羅治」で話題になり、「もう学生運動も落着いてきてるのにまだ革命を信じてるのが居るんだね」と酔った目をして話してた。私もアルバイトのような芸術学部の「芸闘委」だったこともある。梶原は昭和44年頃から俳優となり(石橋蓮司、緑魔子らともやっていた)その一方で「新劇人反戦」で活動していた。
仲間は皆なパクられたが梶原は逃亡。逃げた逃げた。
「高校の時のあの梶原らしい」とすぐに噂は届いた。
翌47年、朝 お袋とゴハンを食べてるとやたら警官が家を訪ねてくる。
「梶原来ませんでしたか?」
お袋は「学生の頃は何度か来たけどその後来ないネ」
「かくまった事は?」
「ない!ない!爆弾だろ。たまにゃドカーンとやんないと国も目がさめないからネ」なんて事を平気で言う。
「高田さん今朝、朝のNHKドラマ見ました?」
「見やしないよ、そんなもん。どうしたんすか」
「梶原が芝居に いけしゃあしゃあと出てたんですよ。よしっNHKだと思って一斉に向かったら、VTRっていうんですか、収録で、もうそこには梶原は居なかったんですよ」だと。アハハ当り前だっつーの。
時は流れた。梶原はもう 逃げつかれて死んじゃったんだろうと思い、いつも交番の前を通ると指名手配の大きなポスター。
「梶原譲二」と50年逃げて昨年「桐島です」と名乗って4日目に亡くなった「桐島」のポスターが常に2枚並べて貼ってあった。
そんな色々の予備知識のもと是非この本を読んでみて下さい。愛憎まみれ(愛はない)で一緒に母と三人で逃げ隠れた日々。
何も知らなかった この50年を目のあたりにします。
この娘が気丈夫で凄い。
中学の頃から映画の現場で働き、高校ともなると女優としてもバンバン出演し今では大変な脚本家となり、こうして初の本を出し出自を明かす。
逃亡生活14年、ムショ暮らし6年。服役した梶原は20年間の浦島太郎。
そんな折、私のもとへ梶原から手紙が届いた。
「バクダン梶原です。最近なかなか会えないけど」ってお前が会えなくしてんじゃねーか。
なんだか嬉しくて少し涙が出そうになった。娘のお陰で60年ぶりの「心の同窓会」がひらけた。
お互いここまで長生きしたからこんなドラマも生まれるのだ。演劇より現実の方がびっくりさせてくれる。
梶原‼ この国じゃやっぱり革命なんか起きねぇよ。
下のチラシは爆弾犯の娘が脚本を書いて高橋伴明が監督した「桐島です」
色々な考え方があっていいと思う。色んな考えから選挙に出た男のドキュメンタリー。「選挙と鬱」。水道橋がうつから立ち直るまで描かれる。
最後は やっぱりおめでたい噺で。
「立川吉笑 真打昇進披露興行」IN高円寺。
みごと。あっぱれな10日間だった。無事千秋楽へ。私も にぎやかしで6月30日にお祝い出演。
師匠である談笑も大笑いしている。よかった。
7月4日
高田文夫
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