高田文夫のおもひでコロコロ

2025.03.20

第125回『さよなら いしだあゆみ』

「暑さ寒さも彼岸まで」とか。
私の周りでは「暑さ寒さも胃癌まで」の通り次々と体調が悪くなっていく。

“梅は咲いたか 桜はまだかいな 山吹ゃ浮気で色ばっかりしょんがいな”
と歌う通り。今週向島のお座敷できて歌ったばかり(後述)。

当人の望む通り“線香花火”のような人生をまっとうしたのは
私が一番好きだった歌手、俳優 いしだあゆみ(76)。
同じ昭和23年生まれ、ショックである。寂しい。
カミさんにはしかられるかもしれないけれど、ずっと私の心の恋人だった。
ショーケンが大好きだったカミさんは、ショーケンといしだあゆみが結婚した時、複雑だった。
私なぞもっと複雑でショーケンをあの頃ずっとうらんでいた。
時が経てば何だって楽しい想い出だ。想い出は多い方が豊かな人生である。

20歳のいしだあゆみは「ブルーライトヨコハマ」をまるで小唄のように歌った。
20歳の私は不安な将来を抱えながら「ブルー」な気持できいていた。
仲間達はデモに出かけた。
渋谷で生まれて世田谷育ちの私はデモの映像をTVで母と一杯やりながら見ていた。
飲ん兵衛母子の様子を見ながら家政婦さんがかわるがわる肴を出して作ってくれた。
「明日差し入れに行ってくるわ」
ロックアウトされた江古田のキャンパスに食べ物をいっぱい持って行った。
仲間達は私の顔を見ると嬉しそうだった。
「タカダ、せっかくだから“野ざらし”演ってってくれよ」
向島を舞台にしたハチャメチャな八五郎。私の十八番だった。
文扇堂(仲見世の老舗扇子屋の若旦那。卒業すれば主人になる)が一番好きなネタだ。
粋な連中ばかりだった。
森田芳光は落語をあきらめ少しだけ革命を夢見てデモに参加したりしたが、
すぐに私からの宿題に手をつけ始めた。
そう、映画監督への第一歩を歩み出したのだ(この10年後に大名作「の・ようなもの」が生まれる)。

いしだあゆみは「あなたならどうする」と歌っている。
どうしようもない青春だった。「何があなたをそうさせた」と歌う。
ヘルメットにゲバ棒の田舎者の学生運動家達(革命を信じる我が友人達)を
江古田の飲み屋に連れて行っては飲ませ喰わせした。
あの頃から心も生き方もお大尽、タニマチ。

昭和23年(1948)生まれ。
高田、沢田研二、五木ひろし、前川清、都はるみ、由紀さおり、井上陽水、森山良子etc。
私を筆頭に歌のうまい連中ばかりだ。いしだがTVで言っていた。
「私とレコード会社が一緒で年令も一緒だから当時TVではよく都はるみ、私、ちあきなおみの順で歌わされたのよ。
あんなうまい二人に挟まれたら私の下手なのがバレちゃうじゃないアハハ」
と陽気に笑う素敵さ。可愛いかったなぁ。

高倉健との「駅 STASION」も倉本聰との「北の国から」もみんなみんな絶品だった。
「自分のレコード一枚も持ってないし映画も自分が出たの見たことないの」。
このサバサバ、未練なし。あっさりしすぎ。
家も全部売っちゃって最後は都内の1LDに一人で住んでテレビもなにも無かったと言う。
夜8時にはもう眠っている毎日。
「電気つけるとまぶしいから」
そして線香花火のように消えて行った。
合掌。

<今月の珍本>

相当コアな本二冊。

「ケロリン百年物語」 笹山敬輔
1979年生まれという若い若い「ケロリン」の社長。
二刀流で喜劇の研究ももの凄く、「ビバリー」に出たり、野末陳平、私と密会したり。
著書にヨダレの出そうな「昭和芸人 七人の最期」やら「ドリフターズとその時代」「笑いの正解 東京喜劇と伊東四朗」など。
たのもしい限り。

「グルメ外道」 マキタスポーツ
我が道を行きすぎのマキタ。とうとう外道の道へ。
マキタの言う通り「メシぐらい 俺の好きにさせてくれ!」である。
私の母は「男はメシの事で何か言うもんじゃない。出されたものを黙って喰え」が教えだった。
終戦直後に生まれた奴にグルメなんて居るもんか。

 

3月21日

 

高田文夫

 

  • ビバリーHP導線
筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。