高田文夫のおもひでコロコロ

2024.11.11

第113回『談志のこと。大谷のこと。』

そう受け取る?
「前回は ただ今年のゲストを一覧にしただけじゃねーか」「若手芸人だって学園祭で手抜いたと叩かれる時代だぞ」「石破とトランプで どうなるっていうんだ」
様々な声を頂いております。
……だから「団地のふたり」が終わったんだと。まったくです。

〈今月の1枚〉

11月だなぁと感じたら やたら師匠談志のことを想い出す。珍しく夢にも出てきた。
ここへ来て私の身のまわりの人、知り合いの人間が やたら次々と倒れる。
タレント、芸人、スタッフ。この2週間で6人くらいが倒れ入院。
皆 口々に「談志師匠に呼ばれてんのかなぁ。高田は自力で帰ってきたから やっぱり凄いなァ」など変な感心のされ方。
そんな時 写真を整理していたら(どこかの本で まとめようかなと思って)
パラリ1枚。ン?日付を見たら「2011.12.21」。
そうか「談志を送る会」の隅っこの様子だ。師の命日が「2011.11.21」。1ヶ月後に開催された会だ。
石原慎太郎が「送る言葉」。「おいっ談志!」で始まる言葉が良かった。

私も志らくも この日から確実に13年の月日が経っている。
後ろの方にスタンバッているのが立川流一門。
この度 社団法人。
真ン中にいるヒゲに黒紋付き、袴はミッキーカーチス。
志らくの左肩に乗る顔は松村邦洋、そしてダンカン。フキンシンに2人だけが笑っている。どうやら阪神の会と間違えたらしい。

「人生成り行き」とある談志ハガキ(1936ー2011)。
私は一門を大切に様々な会にゲストで出て爆笑とって帰ってくる。
下の右は「談笑の会」11月6日 内幸町ホール。

晩年 談志は「江戸の風」なんて言った。
その昔は「伝統を現代に」そして「人間の業の肯定」「イリュージョン」……「ホンコン焼きそばホンコンにウマイよ」これは若い頃だ。

談志も山藤章二も生きていたら きっと見たかっただろう「蔦屋重三郎」だ。
イヨッ江戸の粋。
来年のNHK大河である。
本屋のぞくと江戸のダンディと昭和の格好良さ。私の心の中の豪華2本立てである。

 

「マイトガイは死なず」(小林旭回顧録)
帯に曰く「生涯現役なんていう意識はないが、黙って消えるのは柄じゃない」
クゥ~~言う通り。私と同じ考え。
生まれも育ちも世田谷。いいネ。
私は渋谷生まれの世田谷育ち。

大瀧詠一が“マイトガイ好き”だった。超名曲「熱き心に」まで作っちゃった。
「ダイナマイトが百五十屯」「ズンドコ節」「自動車ショー歌」「昔の名前で出ています」
いいねぇ……。

 

現代のスーパースターはなんたってドジャース大谷。
私はあの「50ー50」のボールを持っている。
まんじゅう大帝国の竹内(タイタン・日芸の後輩。思いつめて私の所へ来たのでウラ口から爆問太田に口をきいてタイタンに入れてもらった)が「結婚した」と言うのでセコい結婚祝いをやったら だいぶ経って8日に訪ねに来て「これ御祝い返しです」と差し出す物を見たら「大谷のホームランボール。50ー50の時ちょうど打ったボール。センセー喜ぶと思い」と。

内緒だが あの記念すべき歴史的な1球は私が持っている。
まんじゅうは あの日 新婚旅行でロスに居た。
お前のその金がロスだっつーーの。

 

こうやって日々のことを書いておくのが現代版 永井荷風の「断腸亭日乗」であり、古川ロッパの「ロッパ日記」のように日常の今の記録として残ればいいなと思いつつ筆をとっている次第。

 

11月11日

 

高田文夫

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筆者
  • 高田 文夫
    高田 文夫
    高田 文夫

    高田 文夫

    1948年渋谷区生まれ、世田谷育ち。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。卒業と同時に放送作家の道を歩む。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」「気分はパラダイス」など数々のヒット番組を生む。その一方で昭和58年に立川談志の立川流に入門、立川藤志楼を名乗り、'88年に真打昇進をはたす。1989年からスタートした「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」は4半世紀以上経つも全くもって衰えを知らず。