2019年05月13日

噴き出したマスコミ不信

 先週の水曜日に滋賀県大津市で起きた、保育園児と保育士ら16人が死傷した悲惨な事故。事故を受け、園児が通うレイモンド淡海保育園が通常保育を再開しました。

<大津市大萱(おおがや)の県道交差点で車2台が衝突し、うち1台が保育園児らの列に突っ込んで園児2人が死亡した事故で、休園していた「レイモンド淡海(おうみ)保育園」が13日、通常保育を再開した。
 この日は午前8時半過ぎから、園児が保護者に手を引かれたり、車や自転車で送られたりして登園した。
 園によると、保護者からは「無理しないでくださいね」「一緒に頑張っていきましょう」と職員を気遣う声が聞かれたという。>

 私も4歳の子どもを抱える父親ですから、このニュースは特に他人事ではありません。通わせている保育園でも、この事故があった翌日に散歩コースや安全対策の説明のため保育士さんが遅くまで残って対応してくれていました。子どもの発育のためを思えばよく晴れた日は外に出て身体を動かす方がいいし、交通ルールなどを学ぶ場にもなります。集団行動を学ぶことで、いざ地震などの災害が起こったときに慌てずに前の人について冷静に避難することが出来るようになります。最大限安全を確保した上で、これからも可能な限りお散歩をしていきますと説明してくれました。

 さて、この事故についてはマスコミの報道の仕方に批判が集まりました。特に批判を浴びたのが事故当日、レイモンド淡海保育園の若松ひろみ園長や保育園を運営する社会福祉法人「檸檬(れもん)会」(和歌山県紀の川市)の前田効多郎理事長らが出席した記者会見での記者の質問についてでした。

<レイモンド淡海保育園を運営する社会福祉法人「檸檬(れもん)会」(和歌山県紀の川市)の前田効多郎理事長らが8日夕、大津市内で会見した。前田理事長は「このような痛ましい事故に大変驚き、亡くなられた園児たちの未来のことを思うと本当に残念でならない」と言葉を詰まらせた。>

 この会見は事故が起こったその日の夕方に行われ、TVの夕方ニュースが各局生中継で放送し続けました。大切な園児を失った直後の会見、そこで保育園側に対して責任を問うにも見える質問が出てきたことに批判が相次ぎました。号泣する園長先生を30分にわたってカメラの前に留めるのは見てられない。私も見ていて目をそむけたくなるような気の毒な会見で、その光景だけを見ると批判は当然だと思いました。そしてもう一つ、この批判はマスコミの報道そのものへの不信感が端的に表された批判で、これを放置してはおけないとも思ったんですね。

 なぜこの会見が開かれたのか、そしてなぜ記者たちはああいった質問に終始したのか?そもそも記者会見は必要だったのか?この週末それについてずっと考えていたんですが、これを考えるにはメディア報道の根っこの部分、知る権利から考えなければいけないのではないかと思い至りました。

<民主主義社会における国民主権の基盤として,国民が国政の動きを自由かつ十分に知るための権利。(中略)第2次世界大戦後のドイツ連邦共和国(西ドイツ)ではナチスの言論弾圧への反省として,この考えが州憲法などに明文化された。またアメリカでは 1950年代に,ジャーナリストたちによって取材の自由の保障として「知る権利」を守る運動が展開され,1966年に情報の自由化法が制定された。日本の最高裁判所も「国民の知る権利」に言及しつつ報道の自由の意義を説くにいたっている(最高裁判所判決 1969.11.26. 最高裁判所刑事判例集 23巻11号1490)。>

 「知る権利」。マスコミ関係者なら聞いたことのある言葉ですし、取材の際に渋る取材対象にこの言葉を錦の御旗のように掲げて取材するケースも多々あります。実際に記者対応に当たる各社、各官庁の広報担当者と話をすると、これを振りかざして居丈高に質問してくる記者がいるんだよねぇとこぼしていました。
 一方で、今回の事故のように被害者が取材対象となる場合、この知る権利を振りかざして取材する際にぶつかるのがプライバシー権。この相反する2つの権利の間に適切な取材の在り方があるのでしょう。この均衡点は事件・事故の性質や世論によっても左右されるものだと思いますが、まずは知る権利の方を見ていきましょう。

 上に挙げた用語解説にもある通り、この権利は全体主義国家が人権を踏みにじった反省から言われるようになった権利です。全体主義国家や一部共産主義国家では、隣人が突然姿を消すということがしばしば起こりました。体制にとって好ましからざる人物が秘密警察などの手により「消される」。その理由については報道されることもなく、また公からの発表があるわけでは当然なく、ただ噂話で反体制の集会に出たらしいとか、思想的に問題があったらしいなどが語られるだけでした。そうしたことが続けば、国民全体が萎縮し、強権がどんどんと強化される方向に向かいます。その結果、人間が持つ普遍的な権利とされる基本的人権が踏みにじられる社会が出来上がってしまうのです。このような非人道的なことを未然に防ぐため、「知る権利」というものが第二次大戦後言われるようになったわけです。
 人が、寿命や病気、避けがたい怪我などでなく不条理に命を奪われるというのは、亡くなった人にとって最大の人権侵害という側面があります。どうしてこんな事象が起こったのかを広く世の中に問い、より良い社会を築くための議論を喚起していく。報道の根源的な意味というのは、こうしたところにあるのでしょう。
 ちなみに、その趣旨に沿って行われるものの一つが実名報道です。たとえ誰それがどういう理由で消えたということが発表されていたとしても、それが匿名であったり無名であったりすれば、権力側はいかようにも誤魔化すことができます。それを許さないために、どこどこに住む誰々という人がこんな悲惨な亡くなり方をしなくてはならなかった、こんな不条理があっていいのか!?と世に問うわけです。
 ただし、そこでぶつかるのがプライバシー権。知る権利があれば、知られたくない権利というものもあるわけです。これだけのメディア環境、その上ネットが発達して一億総記者状態の世の中であれば、世に問うのも大事だが、しばらくはそっとしておいてほしいというのが被害者やその関係者の正直な心情でしょう。

 上記2つの権利のぶつかり合いをどこまで現場の記者たちが意識していたのかは分かりませんが、平成の特に後半のマスコミはこの2つの権利の均衡点を見誤り続け、その結果信頼を徐々に失ってきたのではないでしょうか。端的な例を挙げれば、東日本大震災や各地で起こった地震の報道では、"かわいそうな被災者像"を国民は見たいのだ、知りたいのだと"知る"権利を振りかざし、これからどう復興していくのかという議論を置き去りにしてしまいました。事件報道では、泣き崩れる"かわいそうな被害者像"や"憎むべき加害者像"ばかりを追い求め、感情を煽った挙句、再発防止の議論に入る前に次の話題にシフトしていきました。
 もちろん、マスコミ側にはこの方が数字(視聴率や聴取率)が取れるのだ。数字が取れればそれだけ世に問題を問うことができるし、何よりスポンサーも喜ぶ。民間放送なんだから、企業としてこうする方が理にかなっているのだ!という主張があるでしょう。ただ、そうしたことを続けてきたことがマスコミの信頼を蝕んできました。

 今回の記者会見は、そうしたマスコミの醜悪な面がもろに出てしまったものだったのではないでしょうか。報道のワイドショー化が進み、質問者が社名のみならず(そこまで主催者からは求められていないのに)番組名まで言ってから質問に入る。その方が、自分の番組がオリジナルで聞き引き出したという演出が出来るからです。1社がやれば各社がやるということで、今や同じような質問だらけの冗長な会見ばかりになってしまいました。
 マスコミは結論ありきで質問しているのではないか?よりセンセーショナルな映像や写真を残すためにわざと感情を煽るような質問をしているのではないか?視聴者たちはそうした疑念を常々抱きながらマスコミと接しています。今回も似たような質問を各社が繰り返し、結果最初は気丈に答えていた園長先生が最後は泣き崩れてしまい質問に答えられなくなってしまいました。そしてその瞬間、無数のフラッシュがたかれ、テレビカメラは一斉に突っ伏した園長先生をアップで映す...。何となく感じていたマスコミに対する違和感が、具体的な怒りの感情となって「許せん!」となるのはある種当然だったといえるでしょう。にも関わらず、マスコミ側の人間は驚くほどそうした感情に無自覚で、弁明のようなツイートをして炎上するという現役記者も相次ぎました。

 たしかに「知る権利」は大事だと私も思います。今回の批判の中には、「被害者取材を一切やめるべきだ」というものもあり、それはそれで極論過ぎて私は賛同することはできません。だからといって、今の報道の仕方が100%正しいとは言えませんし、世論からもほとんど支持されていないことが一連の批判から明らかです。この会見が必要だったかと問われると、いつかは必要だっただろうが、果たして当日に行うべきものだったのか?そして、園長先生は冒頭のみで十分で、その後は社会福祉法人の幹部が答えれば良かっただろうと思います。それが、今回の会見の均衡点だったのではないでしょうか?
 そして、私自身の反省も込めて思うのは、我々に欠けていたのは、そして今マスコミに求められているのは「報じた先」の話なのではないかということです。再発防止のためにどうすべきなのか?この社会に欠けていたものは何だったのか?それは人間の操作に頼る今の自動車の在り方が限界を迎えていることからくるのか?一人一台車を持つという地方部の交通事情がリスクを増大させているのか?ガードレールの設置が追い付かないという地方財政の問題なのか(現場は滋賀県道)?今後同様の事故を起こさないためには行政として出来ることは?保育園として出来ることは?地域社会として出来ることは?子の親として出来ることは?事故の翌朝の放送で少し問題提起をしただけで、本当に沢山の意見、提案を頂きました。「自動運転をはじめとする技術進歩を積極的に導入し、必要であれば政府が補助金を出すべきだろう」「地方財政への支援を通じて交通インフラを充実させるべき」「今回の件で萎縮して散歩をやめるようなことになってほしくない」などなど、皆さん自分事として考えてくださいました。過去の事例に学び、より良い社会の在り方も考えていく。非力ではありますが、今後も一緒に考えいければと思います。
 最後に、同じような志の特集記事をご紹介したいと思います。


 遠い過去の話ではない、本当につい最近の事例も挙げられていて、正直、子の親としては涙なしには読めません。さすが、ニュースアーカイブが豊富にある朝日新聞。この取り組みは率直に尊いなぁと思いました。願わくば、有料記事ではなく、期間限定でもいいので全文を見せてくれるといいのですが...。
書籍
プロフィール

飯田浩司(いいだ・こうじ)

1981年12月5日生まれ。
神奈川県横須賀市出身。O型。
2004年、横浜国立大学経営学部国際経営学科卒業。
現在、ニッポン放送アナウンサー。
ニュース番組のパーソナリティとして政治経済から国際問題まで取材活動を行い、ラジオでは「議論は戦わせるものではなく、深めるもの」をモットーに情報発信をしている。
趣味は野球観戦(阪神タイガースファン)、鉄道・飛行機鑑賞、競馬、読書。

■出演番組
≪現在≫
「飯田浩司のOK!COZY UP!」

≪過去≫
「ザ・ボイス そこまで言うか」
「辛坊治郎ズーム そこまで言うか」

■Twitter
「飯田浩司そこまで言うか!」

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