2016年03月15日

岩手県釜石市取材報告

 東日本大震災が発生してから、先週金曜日で5年。恥ずかしながら5年目にして初めて、3月11日に東北にいることができました。現地の方々には当たり前のことを東京の人間は忘れ去っていることに気づかされ、呆然としてしまいました。

 3月11日。
 この日は、大地震が発生し、東北沿岸に津波が押し寄せた日。
 その意識はあったのですが、それ以上に、1万8千以上の命が絶たれた日。命日であったという当たり前のことが抜け落ちていました。
 それに気づかされたのが、岩手県釜石市の追悼施設もある市内鵜住居のお寺、常楽寺。駐車場に車を停め、助手席のドアを開けた瞬間に、潮の香りとともにお線香の香りが漂ってきました。その瞬間、後頭部を殴られたような衝撃を受けたことを鮮明に覚えています。震災からの復興を取材してきた中で、次第に沢山の人が亡くなったことが記憶の最前列から2列目、3列目に下がって行ってはいないか?ある程度取材してきたという自負が、その瞬間に崩れ去りました。

 今回の取材とは直接の関連はありませんが、取材報告をするにあたってまずは原点を確認しなくてはと思い、記しました。その上で、今回私は岩手県釜石市で住まいの復興について取材してきました。釜石市では震災の津波によりおよそ4000世帯が被災。現在、そのうち1300世帯が復興公営住宅への入居を希望されています。一方、復興公営住宅そのものは現在整備の真っ最中で、今年度中に4割程度が完成予定。来年度中にも残り6割も完成が予定されています。

 また、自力再建、つまり自力で家を建ててそこに住みたいと考えている世帯が1800世帯います。この方々は、現在行政が進めている区画整理事業(かさ上げ)や高台移転の完了を待っていて、工事自体は来年度中にほぼ完成するとのこと。ただ、そこから土地の引き渡し、建築が始まるとなると、まだまだ時間がかかりそうです。

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釜石市内の高台から釜石港を望む。低地はかさ上げ工事の途上。津波は、正面のビルの3階の高さに達した。

 ということで、復興公営住宅を希望するにせよ、自力再建を希望するにせよ、今はまだ条件が整わず仮設住宅暮らしを余儀なくされている方が多数いるということです。釜石市の平田第6仮設団地自治会の森谷会長は、
「5年は長い。一刻も早くこの仮設住宅を出たいというのが暮らしているものの総意だ。ただ、仮設には仮設の良さもあり、出たところでまた別の苦労があるのだろう」
と話してくれました。当初は2年と言われていた仮設暮らし。それが5年に伸び、さらにこの先もという不安感がある一方、5年も一緒だっただけにある程度近所付き合いもあるだけに、環境を変えることへの不安も顔を覗かせます。先に仮設を出て復興公営住宅に入った知り合いが、仮設に来ては「こっちの方が良かった」と愚痴をこぼす姿をよく目撃しているようです。
 また、自治会の佐々木副会長は、
「最初の3年間は住宅再建するぞ!と意気込んできた人も、さらに1年、2年と経ち気力の面でも懐の面でも気持ちを維持できなくなってきている」
と指摘しました。仮に土地が引き渡されたとしても、折からの人手不足、資材の高騰で思うような家づくりが出来ない不安もあるようです。

 さて、仮設を出た方々の主な選択肢としては、復興公営住宅に入るか、自力再建をするかに大別されます。我々はまず、自力再建を果たした方にお話を伺いました。かまいし水産振興企業組合理事長の三塚浩之さん。この方も自宅が3Fまで水に浸かり、被災後3年間は避難所~仮設住宅で暮らしました。その後、たまたま知り合いから安く土地を譲ってもらい、元いた場所とは別の場所に一軒家を建てました。行政側は復興公営住宅という選択肢も用意していますが、そもそも眼中になかったと言います。
「やっぱり、今まで一軒家に住んでいた者としては一軒家がいい。そもそも復興公営住宅は選択肢になかった。もし、自力再建が叶わなければそっちに行くと言うだけの話で。問題は、土地は何とかなったけど、それに先立つカネの方。長く付き合いのあった銀行が2011年度の赤字を理由に金を貸してくれなかった。これはたまたま別の銀行から借りることができてメドがついたけれど」
 このカネの問題が、自力再建者に立ちはだかる大きな壁です。震災後には、釜石市内で被災しなかった土地の値段が震災前の数倍に跳ね上がったと言います。さらに、人件費や資材価格の高騰。震災前と同じ規模の家を建てようと思っても、資金面で厳しくなってきます。その上、これから住宅再建を考えている方の大半が壮年から高齢者。これから住宅ローンを組もうにも、与信の審査で断られる可能性が大きくなります。解決策としては、より若い子どもの世代と同居することで返済可能性を向上させることが可能です。が、すでに盛岡や仙台、あるいは東京といった市外に出てしまっている場合、そんなに金をかけて地元釜石に住宅を整備するよりも都会に出てきては?となってしまいます。今はまだ工事完成を待っているので顕在化していませんが、今後このようなカネの問題が自力再建のペースをさらに遅くする可能性はかなり高いと思います。

 こうしたカネの問題に対して、行政はどういった手当が出来るのか?
 釜石市の野田市長は、そもそも市の財政は非常に厳しい。無い袖は振れないと訴えました。釜石市の被災者住宅再建支援制度を見てみると、ローンを組んだ後の利子補給などの支援はありますが、与信審査段階での債務保証等の支援策はありません。これについては、広域自治体(県)あるいは国の出番ということになるですが、これは心許ない。というのも、この震災の後、復興にまつわる国費の投入は既存の法律を組み合わせて行われました。橋下大阪市長(当時)が「箸の上げ下げまで」と批判した、用途を細かく指定しての国費投入があの一大事でも行われていたんですね。野田釜石市長は典型的な例として、電柱の話を取り上げました。
「最初は美しい街づくりということで電柱の地中化や、著名な建築家の先生方にお願いして斬新な計画も立てていたが、そんな贅沢なことに国費は使えないと。それに、資材価格も高騰してきて、理想よりもまずは地に足のついた地味なものをとなった。理想どころか、必要なものを揃えるのが精一杯」
以前から議論のある一括交付金ならば自由な提案も採用できたかもしれませんが、結局有事に平時のスキームで対応してしまった。この功罪はもっと議論する余地があると思います。

 さて、遅れている遅れていると言われている復興事業。そんな中で釜石市は岩手県の中でもいち早く大規模な復興公営住宅を完成させました。古くから釜石市と関係が深い新日鉄グループが震災直後から動いたんですね。系列のデベロッパー、新日鉄興和不動産が、もともと新日鉄グループが持っていた土地を活用して復興住宅を建設。建物が完成したのち市が土地ごと購入。復興公営住宅となっています。住民のコミュニケーションが取りやすいように、部屋の前の共有スペースを広くしたり、集会所など設備も充実させています。一部の部屋ではベランダの仕切り板を取り払い、縁側の行き来が可能にしてご近所付き合いをしやすくする試みも。

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部屋の前の廊下もかなり広く取られている(釜石市の上中島町復興公営住宅)

 マンションというものを見慣れている我々からすると、非常に様々な工夫さなされているなぁと感じたんですが、住んでいる方々の受け止め方は違いました。釜石市の上中島町復興公営住宅の自治会の方にお話を伺うと、
「もちろん、仮設に比べたら天国。だから、贅沢を言っちゃいけない」
と前置きしたうえで、
「でも、周りは誰が住んでいるのかわからない。まずは顔を覚えなきゃいけないんだけど、そんなチャンスもほとんどない。自治会でアンケートを取ると、要望として出てくるのは「お茶会したい」「友達が欲しい」「近所で声掛けをしたい」などなど。こんな状態だから、ある程度まとまったコミュニティになるのはこれから5年も10年もかかる」
と、厳しい現実を明かしてくれました。

 復興公営住宅にお住いの方は、長く「岩手沿岸部の漁村」に暮らしてきました。生まれたときからお互い顔見知りという中で暮らし、冠婚葬祭はおろか、日々の夫婦喧嘩、親子喧嘩までお互いに知っているというような濃密な人間関係の中で暮らしてきたわけです。では、今回移り住んだ復興公営住宅でそうした密な人間関係を育むことが出来るのか?逆に言えば、そうした密な人間関係を復活させることが「コミュニティの復興」なのか?

 自戒の念を込めて言うのですが、我々マスコミは「コミュニティ復興」とはなんなのか、言葉の定義があいまいなままで使ってこなかったか?実は取材中、何人かの方に、
「マスコミはどういう意味で"コミュニティ復興"って使ってるの?」と聞かれました。
 "コミュニティ復興"という言葉を使うときイメージするのは、東北沿岸部の集落にあった古き良き地域社会であることが多いと思います。ところが、そうした地域社会は残念ながら津波とともに失われてしまっているんですね。それを復興のゴールにすることは、高すぎるハードルを課すことになります。

 むしろ、この震災復興住宅で全く新しいコミュニティをこれから作っていくという長い道のりがやっと始まった。そこに手助けできることは何なのか。行政がコミットすべき問題か、NPOに任せるのか、あるいはまったく新しい側面支援の形があるのか?集合住宅のコミュニティ形成と考えれば、これは全国各地のマンションや団地で議論されている問題です。その問題の最先端が東北沿岸部にはいたるところで見られるのです。つまり、今後の被災地支援はそのまま、今後の我が国のカタチを考えることにつながります。
書籍
プロフィール

飯田浩司(いいだ・こうじ)

1981年12月5日生まれ。
神奈川県横須賀市出身。O型。
2004年、横浜国立大学経営学部国際経営学科卒業。
現在、ニッポン放送アナウンサー。
ニュース番組のパーソナリティとして政治経済から国際問題まで取材活動を行い、ラジオでは「議論は戦わせるものではなく、深めるもの」をモットーに情報発信をしている。
趣味は野球観戦(阪神タイガースファン)、鉄道・飛行機鑑賞、競馬、読書。

■出演番組
≪現在≫
「飯田浩司のOK!COZY UP!」

≪過去≫
「ザ・ボイス そこまで言うか」
「辛坊治郎ズーム そこまで言うか」

■Twitter
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