世界遺産への登録を勧告された『明治日本の産業革命遺産』。その中でも、最も注目されているのが軍艦島(正式名称:端島)です。南北およそ480m、東西およそ160m、面積およそ6万3千平米という狭い土地に、最盛期で5000人を超える人が暮らしていて、当時の東京の人口密度のざっと9倍を超えるという超過密都市だったということです。世界遺産に登録される見通しとなったということで一体どれだけの賑わいなのか、実際に行ってみました。
軍艦島遠景。右手が艦首、左が艦尾、真ん中に艦橋というまさに戦艦のようなシルエットをしている。
狭い土地に沢山の人が住んでいたわけですから、土地の有効利用のために住居はほとんどが高層アパート。大正5年には日本で最初の鉄筋高層アパートが完成しています。これは、東京で初めての鉄筋高層アパートだった同潤会青山アパートの10年前にすでに完成していたとのこと。要するに、当時の最先端建築は東京でも大阪でもなく、この長崎の沖の炭鉱の島、軍艦島にあったというのは驚きです。さらに驚きなのが、その日本最古の鉄筋高層建築が朽ちているとはいえ今だに残っているということ。軍艦島ツアーでは、やはりこの30号アパートがツアー最大のハイライトとなっています。
軍艦島30号アパート。ちなみに、各部屋は6畳一間で非常に狭かったという。
さて、大正時代の鉄筋高層建築ですから、軍艦島の30号アパートのように海水や潮風に洗われてご覧のとおり朽ちているのが当然ですが、同じ長崎には世界遺産ではないですが大正時代に建てられた姿そのままの建築があります。それが、佐世保市の針尾島にある『旧佐世保無線電信所(針尾送信所)』です。
こちらは、大正11年に完成した無線送信施設で、日露戦争を契機として海軍艦船の無線連絡体制の強化を狙って建てられたものです。無線施設、要するに無線アンテナは鉄塔が常識ですが、ここは鉄筋コンクリート製。高さ136mの塔が3つ、正三角形の頂点に立っていて、巨大な煙突がそびえたっているように見えます。太平洋戦争の海戦を告げた海軍の秘密暗号「ニイタカヤマノボレ1208」を送信した施設と言われていますが、それに関する資料は残っておらず、送信したかどうかは不明だそうです。
針尾送信所無線塔。畑ばかりの周りと比べて異様な存在感。
ご覧のように、ヒビひとつなく全く綺麗なコンクリートの塔が残されています。なぜこれほどまでにきれいに残っているのかというと、当時は鉄筋コンクリート建築の黎明期。日本海軍はその技術の実証実験の意味も含めてこの無線塔を造営したようで、ヒト・モノ・カネを惜しげもなく投入しました。現地ガイドの方によると、延べ100万人を超える職人を投入し、総工費は155万円(現在の価値でおよそ250億円)、塔一本が30万円(現在価値で50億円)かかったそうです。材料にもこだわり、コンクリートに使う砂はきめの細かい良質の川砂を使ったそうです。阪神大震災の時には新幹線の高架橋に海砂のコンクリートが使われて想定以上にもろかったことが問題になりましたが、こちらはきめの細かい川砂。その上、その川砂を網を使ってさらに粒を揃える念の入れよう。そのおかげで、今でも震度6強の地震まで耐えられ、向こう100年は朽ち果てずに持つという専門家の診断が下ったそうです。平成の世まで海上保安庁、海上自衛隊が現役の無線塔として使用し、2年前の平成25年になってようやく国の重要文化財に指定されました。
針尾無線塔内部。左に見えるハシゴはメンテナンスのために使っていたもの。立ち入り自由だった時代には、地元の子供の格好の度胸試しの場だったそう。
日本の技術、現場の力、坂の上の雲をつかもうと走り続けた当時の日本人の息遣いが聞こえてくるような産業遺産の数々。他にも、三菱長崎造船所の戦艦武蔵を作った第三船渠、ジャイアント・カンチレバークレーン、三井三池炭鉱などなど、九州には今も現役だったり少し前まで現役で働いていたからこそ残っている遺産たちがたくさんあるのです。
三池炭鉱万田坑の第二竪坑櫓。明治期の建築がそのまま残っている。
それらの遺産は、全くのアナログ。コンピューター制御では一切ありません。現場の作業員の熟練度、力こそが産業の力に直結した時代の遺産は、人の力の偉大さを語りかけてくれます。効率化、IT化の流れの中で我々が忘れがちな、人の力。産業遺産の数々は、そうした「人の力」の偉大さを再確認させてくれます。